【Interview】 生誕100年★トーベ・ヤンソンの映画3部作/ムーミンからフィンランドの映画事情まで――リーッカ・タンネル監督

リーッカ・タンネル監督

2014年2月に渋谷・ユーロスペースにて開催されたトーキョーノーザンライツフェスティバル2014では、ムーミンの原作者トーベ・ヤンソン生誕100年を記念して、トーベに関する8ミリフィルムをもとにした映画3部作のうちの2本『トーベ・ヤンソンの世界旅行』(1993年)と『ハル、孤独の島』(1998年)が日本初公開され、大雪にも関わらず、数多くの観客を集めた。この上映に合わせて、『ハル、孤島の島』の共同監督のリーッカ・タンネルさんがフィンランドから来日したこともあり、neoneoでは3部作について、またフィンランドの映画事情なども含めてお話を伺った。なお『ハル、孤独の島』と第3作『トーベとトゥーティの欧州旅行』(2004年)は2月5日にビクターエンタテインメントよりDVDが発売されている。

[通訳=森下圭子さん、取材・文=萩野亮・藤田修平、撮影:藤田修平]

|4人の共同作業で生まれたフィルム

 ――東京は10年に一度と言われるような大雪になりましたが、フィンランドではこうした雪は日常的な光景ですか。

 リーッカ・タンネル(以下RT) そうですね。ただ、今年はすごい暖冬で、例年であれば、クリスマスの時期には雪が積もるのですが、1月の終わりになるまでそうなりませんでしたが。

 ――さて、トーベ・ヤンソンにまつわる3本の映画ですが、撮影はトーベ・ヤンソンとトゥーリッキ・ピエティラ。この2人に加えて、『トーベ・ヤンソンの世界旅行』ではカネルヴァ・セーデルストロムさんが、『ハル、孤島の島』と『トーベとトゥーティの欧州旅行』ではセーデルストロムさんに加え、タンネルさんが監督としてクレジットされています。4人の作り手で映画を作ることは大変だったと思いますが、一体どのように作業されたのですか。

 RT 『ハル、孤独の島』について言えば、最初にトーベの本がありました(邦題『島暮らしの記録』。原題は映画と同じ『ハル、孤独の島』)。カネルヴァがそれを映画にしてはどうかとトーベに提案し、トーベが映画用の脚本を書き下ろしました。ただ、彼女には映画の経験がなかったので、少し長い脚本になって、後で短くしてもらうのに苦労しました。

ともあれ、脚本ができたので、カネルヴァと私は島で撮影された20年間の映像素材をすべて8ミリフィルムからVHSに落とし、編集ができる状態にした上で、制作資金(助成金)を出してくるところを探しました。そして、フィンランドの映画財団と公共放送にお金を出してもらうことになったのですが、この分数で収まるようにと作品の長さも決められました。それで、その長さになるようにトーベに脚本を変更してもらい、今度はその脚本に合わせて、私とカネルヴァがVHSの映像がどこに当てはまるのかを見つけていきました。

そして、トーベとトゥーリッキに意見をもらい、それを持ち帰っては編集を進め、3つぐらいのラフカットを用意しました。それを再度、2人に見てもらったのですが、大きくもめたことがあって、それはエンディングにトーベのシルエットが写ったショットを使った時のことでした。そのショットではトーベが岩の上を歩いて、旗竿のある所まで行くのですが、トゥーリッキにはそれが十字架のように感じられたようです。その時、トーベは朗読ができないぐらい、体が弱っていました。トゥーリッキから抗議の電話があって、トーベを墓に送るつもりか、と怒鳴られて、ああ、これでもう終わりかと思いました。

しかし、最後にまた来なさいと言われて、今のショットを使うことでこの映画を終わらせました。それはトゥーリッキが舟を出して、カーブを切りながら、人生の旅が続くことを思わせるショットです。このようなプロセスで制作しました。

また、25年前に撮影したプライベートな素材を使って、一般の人にも見てもらえるような作品にすることは大変でした。トーベとトゥーリッキのプライベートフィルムを最初に見たのは1991年頃のことで、作品として完成したのは96年です。最初に撮影が行われた1971年から26年かけて作った映画とも言えるかと思います。

右は森下圭子さん(通訳)

 
――この3部作で面白いのは、トーベさんが膨大な映像記録を「フィクション」にしようと発想されたことです。

RT 「トーベ・ヤンソン」とか「トゥーリッキ・ピエティラ」といった特定の人物に関する映画というより、ある二人の個性的な女性が登場する映画として観客に受け止めてもらえるような形で、映像素材を選び、編集をしています。そういう意味でフィクション性があると思います。さらに、そこに(引用されている)トーベ・ヤンソンの小説が一つの層をなしています。

 ――これらの映画はトーベ・ヤンソンの映画というより、カメラを向けたトゥーリッキ・ピエティラの映画だと思ったのですが、いかがでしょうか。また、トゥーリッキさんとはどのような人でしたか。

RT 確かに表現とか視点はトゥーリッキのものですね。だから、誤解を恐れずに言えば、私自身もこれは「トゥーリッキ・ピエティラの映画です」と言ってしまっていいと思っています。また、『ハル』に関して言えば、この題名のように島が主人公で、自然が中心です。トーベはときおり現れる光のような気がしています。

トゥーリッキはなるべくならカメラの後ろにいたいと思っていたし、子供の頃からすごく映画を観ていて、晩年は映画の世界に没頭していました。ひょっとして、時代が違っていれば、彼女は映画監督とか撮影監督になっていたのではないかと思うぐらい映画の人でした。グラフィックデザイナーとして名前を残してはいますが、晩年の職業としては映画人でもあったと思っています。

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 |トーベとトゥーティ

――トゥーリッキさんもとても魅力的な人物ですね。

RT トゥーリッキはトーベに比べてエネルギー量が多かったですね。魅力的な人ではありましたが、このエネルギーが増大して、危険なゾーンに至ることもありました(笑)。(共同監督の)カネルヴァのことは赤ちゃんの頃から知っているので、自分の感情をぶちまけて「もうお前はクビだ!」などと平気で言ったりしました。私は90年代に入ってから知り合ったので、そうしたことはあまり言われませんでしたが。

トゥーリッキが苛立った理由の一つは、映画を作る上で様々な技術的な制約があることを理解していなかったことがあります。映画を作る時、最後はベータSPで作業して、音と合わせるわけですが、どうしてもテキストが収まり切らない時もあるわけです。そうすると「あのトーベ・ヤンソンが書いているものを、お前たち若者が勝手に削っていいのか!」とまくしたてます(笑)。そうしたことがよくありました。

また、私達に「作品を作ってちょうだいね」と映像素材を渡しているわけですが、自分の姿を見た時、「こんな疲れた姿をしていたの、私って」といった、恥ずかしいという気持ちがどうしても表に出てきて、ひどいことを言ってしまう。ただ、トーベとトゥーリッキがこの作品を作ろうとしたのは、年老いてきて、いろいろなものを少しずつ減らしていった時に、ある種の遺言と言っていいと思うのですが、そうしたものとして、勇気を持って生きなさいと人々に伝えたいと考えたからでした。

だから、私達もただ叱られているだけではなくって、2人のプライベートな映像をどこまで使うか、その微妙な場所を探りながら制作を行いました。ところで、トーベがのんびりしているように見えたのは、体がかなり弱っていたのと、マスメディアによく取り上げられていて、人前に出ることに慣れていたこともあったかと思います。

――この2人の関係、同性愛についてはフィンランドでは当時、どのように受け止められていたのでしょうか。また、いつから知られるようになったのでしょうか。

RT 「ムーミン」が成功したこともあって、(トーベとトゥーリッキは)どんなことがあっても2人の関係が気付かれてはいけないと考えていました。同性愛の関係を表に出してはいけない社会だったのです。フィンランドでも(同性愛的な行為は)1970年頃までは犯罪でしたし、1980年頃まで精神病とみなされていました。

1990年代になると同性愛者たちは自分たちの権利を求めて運動を起こしましたが、世代が異なるので、そうした関係を知らしめようとすることは一切なく、ある時、気づいたら、2人の関係が知られるようになっていました。そして、この映画を作った時、2人はすでに人生のなかでやるべき仕事、やるべき表現活動を終えていて、自分の人生にとって最良の伴侶を選ぶことは誰であれ、素敵なことであるとひとつの遺言として、勇気を持って見せてくれたと思います。

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