【Review】原発推進のためのコピー&ペースト『パンドラの約束』text 青木ポンチ

話題の“原発推進映画”
そのロジックの“核”をライター・青木ポンチが読み解く!

報道にしろドキュメンタリーにしろ、“中立公正”をうたうメディアほどいかがわしいものだ。一つの番組や記事(=コンテンツ)の中で都度両論併記するのはわずらわしいし、逆に「両論載せましたよ、わが社は公正ですよ」という言い訳にしかならない。

大事なのは、できれば同じ社のメディアの中で、雑多な意見を含むコンテンツが混在するという、「多様な構造」の確保ではないだろうか。かつて、今よりは健全だった時代の自民党にはそのような風潮があったようだし、ゴールデン帯では大勢に迎合しつつも、深夜帯やBSでは実験的な番組を作る民放テレビ局(…あるのか?)などは、大メディアならではのふところ深さを持ちえている、と言えなくもない。

だが、大手メディアの主流派が軒並み安倍自民政権寄りに右傾化していくのに比して、わずかな反体制・草の根市民派は、ますます主張をこわばらせてマイナー化していく(本来、民主党や自民左派、あるいは「小泉&細川連合」が開拓するはずだったリベラルの平野は、民主の腰砕けとともに立ち消えてしまった)。

かくして、「原発・エネルギー問題」へのアプローチはその最たる例として、産業界が確実に「原発輸出・再稼動」へと舵を切る一方で、ほんのガス抜き程度に、独立市民系のメディアが反原発の報道やドキュメンタリーを送り出し、両者は一向に交わらない…という構造ができあがってしまった。
「原発推進」は、政府≒大手メディアの戦略として、声高には訴えることはせず、他の議題に隠してうまくごまかしながら、水面下で着々と進行させていく。ニュース的にも、正面から原発の是非を問うのではなく、被災地のヒューマンネタなどで人々を感情面から絡めとっていく。
いっぽうの独立市民系メディアは、頑なに反原発を訴え続けるのみで、組織は閉じられ、行動は“様式美”と化していく。国会を20万人で包囲したといっても、それが最大値であり、その票数では山本太郎一人を国会に送り出すので精いっぱいだ。

大多数を占める砂のような大衆は、右のマスメディアからの大本営発表に日々さらされつつ、左のマイナーメディアを「なんかヤバい人たち」として一定の距離を置く。そう、人々は原発問題を「忘れたい」のに加え、通り一遍の構図に「飽きて」もいるのだ。深く考えることをやめた結果、人々は体制・主流派の波に音もなく飲まれていく。そう、時の権力にとって「大衆が考えないこと」は望むところなのだ。
どちらの訴えも大衆を揺さぶることはない。そんな平行線の状況を打ち破るには、互いの主張を解体→再構築してみてはどうか。既得権益べったりの体制側に、わざわざ市民とヒザをつき合わせて脱原発に耳を傾けろというのは、このご時勢では期待できない。でも、脱原発派が推進派の主張に耳を貸そうというのは、すぐにでも可能ではないのか?

長くなったが、『パンドラの約束』は主張の是非を超えて、そういう「現状打破のアプローチ」の一環として、手法を学ぶべき映画ではないだろうか。主張うんぬん以上に「存在そのものに意義がある映画」として。
たとえトンデモ映画だったとしても、まずは見てから判断したい。そして、推進派の主張や手法の効果的な部分を見習い、取り入れていきたい。某副総理の「ナチスの手口を見習ったらどうか」ではないが、敵を知る=推進派から吸収することは少なくないのではないか。それくらいの鷹揚さがなければ、活動家たちば硬直した原発問題を融解させられない。

結論としては、アプローチは興味深かったが、エンターテインメントとしては物足りなく、現状を打ち破るほどのインパクトも持ちえてはいなかった。
「原発依存すべきだ」というからには、何か新しい視点や主張があってしかるべきと思ったのだが、彼らの主張のベースは「地球温暖化防止」のみで、「化石燃料がいかに環境負荷が重いか」、それに対して「原発のリスクはいかに小さく、クリーンなエネルギーか」を訴えることに終始してた。要は、3.11後にも関わらず、20世紀になされてきた議論を形を変えて繰り返しているのだ。「パッケージは新しいが、中身は使い回し」みたいな。これでは、推進派の溜飲は下げられたとしても、脱原発派は取り込めないし、大衆にも届かない。

映画は、数人の「かつては脱原発、今は原発推進」派の論者たちが、いかに転向するに至ったかを、いくつかのデータ的根拠とともに語っていくのだが、それはさして劇的なものではなく、「えっ、今さらそんなことを言ってるの? 最初から分かっていたことじゃないの?」と感じられてならない。何か大きなきっかけや根拠を経て、それをもとに新たに“21世紀の原発推進論”が確立されたわけではなく、見ての印象では、「単に脱原発活動(あるいは、いかにもな活動家たち)に飽きた、むなしさを感じた」から転向した、程度に思えて仕方ない。福島の映像は入っているものの、3.11後に作られた映画には思えないのだ。

「天災やテロに対する原発の安全性は?」
「放射能の、人体や環境への影響は?」
「核廃物の最終処理は?」
「運転コストではなく、建設から廃炉までの総コストは?」

…といった原発に付きまとういくつもの疑問には「大丈夫、たいした問題ではない」と軽く流し、逆に地球温暖化の深刻さ、化石燃料の有害性、自然エネルギーの不完全さばかりフォーカスするのだから、すり替え・目くらましにしか思えない。

そもそも「原子力(=クリーンエネルギー)か、化石燃料(=温暖化の元凶)か」という二者択一の構図自体が、不毛に感じてならない。温暖化防止は脱原発と相反するイデオロギーでは全くないので、原発推進のロジックとして使われるのは無理があるし、脱原発だがらといって化石燃料依存なわけでもない。そして、原発だけが温暖化の特効薬なわけでもない。
さまざまな別次元のレイヤーをむりやり持論に都合よく切り張りする、どこかの論文のような印象を受けてしまう。彼らの関心は本当に温暖化防止にあるのか?ということも疑問だ。原発推進のためのロジックとして、一番訴えやすい(=すべての人が反論しにくい)温暖化防止論を当てはめている気がしてならない。

身も蓋もなく言えば、温暖化を防止する策はいくらでもあると思う。その第一は省エネルギーや脱物質(=脱大量生産・消費)だが、それは大きすぎるので置いておくとしても、「緑を増やす」ことはすぐにできるはず。大量のCO2こそ植物の燃料なのだから、今こそ格好のチャンスのはず。にもかかわらず遅れているのは、植樹利権が原子力利権に比べて即効性がなく、利幅が少ないためと思われる。
自然エネルギーも同様だ。海に囲まれた火山国の日本は、「波力」「風力」「地熱」資源において、世界に冠たるエネルギー大国になるはずで、3.11後は自然エネルギーバブルが膨れ上がるはずと思っていたのに、そうでもない。どうやら体制側にとって、自然エネはもうからず、原子力はとことんうまみのあるもののようだ。

独自の地平を切り開こうとしたストーン監督だが、地球温暖化に絡めての原発推進というボケた視点ではなく、次回作では、普及しない自然エネルギーの問題点について、原発にまつわる諸問題の解決法について、そして原発利権の根強さについて、ぜひ深く切り込んでほしい。それらをきっちりと示したうえでなお「原発推進」と主張するなら、もっと耳を傾けたい。

【映画情報】

 『パンドラの約束』 原題 : PANDORA’S  PROMISE
(2013年/アメリカ/カラー& BW/ステレオ/16 : 9/DCP/87分)

サンダンス映画祭2013 正式招待作品 

監督・脚本 : ロバート・ストーン
出演:スチュアート・ブランド、グイネス・クレイヴンズ、レン・コッホ、マーク・ライナース、リチャード・ローズ、マイケル・シェレンバーガー、チャールズ・ティル
提供:フイルムヴォイス 
配給:トラヴィス

http://www.pandoraspromise.jp

2014年4月19日(土)よりシネマライズほか全国順次公開!

【執筆者プロフィール】

青木ポンチ あおき・ぽんち
1972年生まれ。東京都出身。「株式会社スタジオポケット」所属のライター・編集者。『週刊ザテレビジョン』誌などで映画レビューを執筆。ほかエンタメ全般、社会問題、自己啓発など幅広い分野で執筆中。ブログ:http://ameblo.jp/studiopocket/