【ゲスト連載】Camera-Eye Myth / 郊外映画の風景論 #03「Fathers(2) / Illness|郊外/映画のヘテロトピー」 image/text 佐々木友輔

2. 映画が生み出すヘテロトピー

わたしは前回、『略称・連続射殺魔』や『サウダーヂ』のように「風景映画」的方法が用いられている映画について、「そのフィルム自体がヘテロトピックである」と書いた。なぜなら、「風景映画」的方法とは、それぞれ異なるあり方をするショット=風景を強い連続性を持たせずにつないでいき、ショット間の結びつきが希薄でチグハグな印象を持たせるような映画の形式を採用することによって、共通な空間や座が失われたヘテロトピックな均質性を持った郊外を描き出すという、内容と形式が連動した方法であるからだ。

しかしここでひとつの疑問が生じる。そもそも映画というものは、ある場所の経験を断片化して集積し、それらを再構成することによってつくられるのだから、『略称・連続射殺魔』などのフィルムが特別にヘテロトピックであるのではなく、映画というメディアそのものがヘテロトピーと親和的であるとも言えるのではないだろうか。そして、そうだとすれば、郊外と呼ばれる場所がヘテロトピックであるからヘテロトピックな映画が生み出されるのか、映画がそもそもヘテロトピックな性質を持つからヘテロトピックな場所としての郊外が生み出されるのか、どのようにして判断することができるだろう。郊外の風景は、映画というメディアを介して見つめられることによって、実際以上の——もしかしたら在りもしない——ヘテロトピーの印象を付与されてしまっているのではないか。かくして映画の盲域の問題が立ち上がる。

もう少し具体的に考えてみよう。地理区分としての郊外は、基本的に、空間的に大きな広がりを持っている。大都市などと比べれば事物の密度が低く、人びとの生活圏も広域に設定されていることが多い。ベッドタウンに居住する者ならば、毎日長い時間をかけて遠く離れた職場に通ったり、買い物をするために隣町のショッピング・モールまで出かけたりすることも珍しくない。郊外に住まう人びとは、一日のうちの決して少なくない時間を移動のために使っている。必然的に、大都市に生きるひとと郊外に生きるひとの間には、それぞれまったく異なる時間感覚が育まれているはずである。

ところが映画は、こうした空間のスケールや時間感覚の違いを完全に無視する——あるいは見落とす——ことができてしまう。たとえば、ある男が渋谷駅から新宿駅まで移動するシーンが必要な場合、(1)渋谷駅ホームに到着する電車、(2)山手線車内でつり革につかまっている男、(3)新宿駅ホームに到着する電車、というように3つのショットでそれを描くことができる。では、地方都市のターミナル駅から新宿駅まで移動するシーンではどうだろうかと考えてみると、当然のことながらこちらも同じように(1)ターミナル駅ホーム、(2)電車内の様子、(3)渋谷駅ホーム、というように3つのショットで描くことができる。渋谷駅から新宿駅まで約7分の道のりと、郊外から新宿駅までの乗換なども含めた数十分から数時間の道のりとを、まったく等価なものとして扱い、同じショット数・時間で描くことができてしまうのだ。

ショットとショットの間に連続性が生まれるかどうかは、運動の方向やリズムももちろんだが、両者の間にどれほど共通する対象が映っているかが鍵となる。縦横無尽にカメラが移動しても、画面のどこかに共通してスカイツリーが映っていれば、わたしたちはそこが東京だと認識するし、壁紙の色や模様や同じであれば、そこが同じ部屋か同じ建物の中だと予想することができる。一方、同じ対象が映っておらず、ショット間の物理的な距離が大きく離れていれば、連続性よりも断絶が強調される。もしも東京タワーのショットの後にパリ市街のショットが現れれば、わたしたちはそこにショット間の断絶を見出し、次のシーンに切り替わったと感じるはずだ。

郊外で生活するひとにとって無視できないボリュームを持つ移動の時間(電窓から流れていく景色を眺めたり、メールで誰かと会話したり……)は、とりわけ商業的な成功が義務づけられた映画においては、物語の進行には不要なものとして真っ先に省略される対象となる。舞台となる範囲が広くなればなるほど、切り落とされてしまう空間や時間の量は増大する。そうなれば当然、ショット間の断絶は大きくなり、映画全体は連続性を欠いたヘテロトピックな印象を帯びてくることになるだろう。このような場合は明らかに、その場所がヘテロトピックであるからヘテロトピックな映画が生み出されているのではなく、映画がヘテロトピックな場所をつくりだしていると言える。このとき映画は、ほとんど無自覚のうちに、ヘテロトピックな郊外という神話の生産に加担しているのである。

3. 場所性の失われた場所の場所性

とは言え、日本の郊外が都市と農村の混在によって成立してきたという経緯があることは紛れもない事実なのではないか。だとすれば、「風景映画」的手法を用いて、ショット間の断絶を際立たせることで郊外のヘテロトピーを表現することも間違いだとは言えないのではないか。このように考えることもできるだろう。

しかし、それでもまだ問題が残っている。研究者の丸田一は『「場所」論―ウェブのリアリズム、地域のロマンチシズム』において、ヘテロトピア(混在郷)について、共通な空間や座が「失われた」場所であると言うよりも、共通の空間や唯一の座が「規定できない」場所なのだと述べている(p.45)。そこでは複数の場所のあり方がオクシロモン(矛盾形容語法)的に組み合わされ、矛盾や対立を融和し、新しく調和した秩序や平穏がつくりだされる。すなわち、ヘテロトピーとは事物の喪失ではなく事物の再配置であり、場所性の欠如ではなく新しい場所性の創出であるとも捉えることができるのだ。ヘテロトピーと均質性は必ずしもイコールでは結べないのである。

ところが「風景映画」的方法は、それぞれのショット=風景が「結びつかない」あるいは「つながって見えない」ことによってヘテロトピーを描き出すが故に——言い換えれば「……でない」を契機とする欠如態としてのヘテロトピーの表現であるが故に——その対象となる土地を場所性の失われた場所として示すことしかできない。こうした否定形の表現は明らかに、「没場所性」や「ノン・カテゴリー・シティー」といった言葉のもとに語られてきた郊外論と相似形を為している。つまり、「風景映画」的方法によって描き出された郊外もいまだ「立場なき場所」であり、新たな場所性の創出という側面は見落とされたままなのだ。

|参考文献/関連資料

吉田友彦 著『郊外の衰退と再生―シュリンキング・シティを展望する』、晃洋書房、2010年
丸田一 著『「場所」論―ウェブのリアリズム、地域のロマンチシズム』、NTT出版、2008年
若林幹夫、山田昌弘、内田隆三、三浦展、小田光雄 著『「郊外」と現代社会』、青弓社、2000年
ヴァルター・ベンヤミン 著 『複製技術時代の芸術』、佐々木基一 編、晶文社、1999年
中村秀之 著『瓦礫の天使たち ベンヤミンから〈映画〉の見果てぬ夢へ』、せりか書房、2010年
『10+1 no.1 ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容』、INAX出版、1994年
エドワード・レルフ 著『場所の現象学―没場所性を越えて』、ちくま学芸文庫、1999年
李相日 監督『悪人』、2010年
富田克也 監督『国道20号線』、2008年
富田克也 監督『サウダーヂ』、2011年

 

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|上映情報

映画『土瀝青 asphalt』上映会
[批評誌『ART CRITIQUE』n.04刊行記念]

「メディウムの条件」関連企画(企画:櫻井拓)
ウェブ:http://art-critique.info

日程:5月26日[月]18時―21時10分
会場:HAGISO(HAGI ART) http://hagiso.jp/
 〒110-0001 東京都台東区谷中3-10-25
 (*会場の環境により、特殊な上映形態となる場合があります)
アクセス:http://hagiso.jp/access/

要予約[入場無料]
mail@art-critique.infoまで、お名前、人数、ご連絡先をご明記のうえメールにてお申し込みください。

『土瀝青 asphalt』(2013年)186分
監督:佐々木友輔、朗読:菊地裕貴、音楽:田中文久
ロゴ:藤本涼、原作:長塚節『土­』
 

メディウムの条件[展覧会]

吉田和生、益永梢子、早川祐太(展示)
佐々木友輔(上映会)

会場:HAGISO(HAGI ART)
開場時間:12時―21時
会期:2014年5月20日[火]―6月1日[日]
*5月26日[月]、27日[火]は閉廊。26日は夜に上映会を開催。
なお、5月28日[水]は18時にて閉廊。
入場無料

|プロフィール

佐々木友輔 Yusuke Sasaki (制作・撮影・編集)
1985年神戸生まれの映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会企画や執筆など様々な領域を横断して活動している。イメージフォーラム・フェスティバル2003一般公募部門大賞。主な上映に「夢ばかり、眠りはない」UPLINK FACTORY、「新景カサネガフチ」イメージフォーラム・シネマテーク、「アトモスフィア」新宿眼科画廊、「土瀝青 asphalt」KINEATTIC、主な著作に『floating view “郊外”からうまれるアート』(編著、トポフィル)がある。
Blog http://qspds996.hatenablog.jp/

菊地裕貴 Yuki Kikuchi (テクスト朗読)
1989年生まれ、福島県郡山市出身。文字を声に、声を文字に、といった言葉による表現活動をおこなう。おもに朗読、ストーリーテリング中心のパフォーマンスを媒体とする。メッセージの読解に重きを置き、言葉を用いたアウトプットの繊細さを追究。故郷福島県の方言を取りあげた作品も多く発表。おもな作品に「うがい朗読」「福島さすけねProject」「あどけない話、たくさんの智恵子たちへ」がある。
HP http://www.yukikikuchi.com/

田中文久 Fumihisa Tanaka (主題歌・音楽)
作曲家・サウンドアーティスト。1986生まれ、長野県出身。音楽に関する様々な技術やテクノロジーを駆使し、楽曲制作だけでなく空間へのアプローチや研究用途等、音楽の新しい在り方を模索・提示するなどしている。主な作品に、『GYRE 3rd anniversary 』『スカイプラネタリウム ~一千光年の宇宙の旅~』『スカイプラネタリウムⅡ ~星に、願いを~』CDブック『みみなぞ』など。また、初期作品及び一部の短編を除くほぼ全ての佐々木友輔監督作品で音楽と主題歌の作曲を担当している。
HP http://www.fumihisatanaka.net/