【ゲスト連載】Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論 #04「Mothers(1)/Isotopia/イゾトピックな白壁の裏」 image/text 佐々木友輔

 

Camera-Eye Myth : Episode. 4 Mothers(1) / Isotopia

朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久

主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈

郊外映画の風景論(4)
イゾトピックな白壁の裏

1. イゾトピックな郊外

続いて、イゾトピックな均質性を描いた作品を見てみよう。取り上げるのは、2005年に豊田利晃監督が角田光代の小説を原作として制作した『空中庭園』である。この映画に登場する家族・京橋家は、一見すると健全で幸福な理想的生活を送っているようでありながら、その実、嫁と姑の確執、不倫、不登校に援助交際と、数多くの問題や秘密を抱えている。宮台真司の『まぼろしの郊外』や三浦展の『ファスト風土化する日本』に描かれるような、典型的な郊外の病理の物語である。

第2回で例として挙げた『シザーハンズ』と同様に、この映画に登場する郊外住宅地の風景にも、均質なテクスチャと似通った形態の反復が随所に見られる。マンションの窓枠や道路の白線、広場のスロープ、観覧車のフレームなど縦横に引かれたグリッドを強調し、壁面の汚れの目立たない淡い色彩・コントラストを採用した画面設計は、美しく清潔感のある街並でありながら、どこか現実離れしたヴァーチャルな印象を観る者に与えるだろう。

特に京橋家の暮らすマンション「グランドアーバンメゾン」は、本作の舞台となる街のイゾトピックな均質性を象徴していると言って良い。小高い丘の上に建つこの建物の両側には、非常に似通った形態のビルが二棟、まるでコピー&ペーストされたように並んでいる。また、パソコン画面にグランドアーバンメゾンと周囲の風景を再現したCG映像が表示されるショットでは、建物はみな単純化され、単色で塗られた積み木のようにして描画されている。さらにその風景の中で、グランドアーバンメゾンは画面上部から垂れた糸によって吊り上げられて、ゆらゆらと揺れるのだ。これは、実際のグランドアーバンメゾンを捉えたカメラを360度ぐるりと回転させる冒頭のショットと対応しており、この建物の物質感の希薄さを際立たせている。このように本作では、街のイゾトピックな均質性とそれに伴う入れ替え可能性とが繰り返し強調されるのだ。

『空中庭園』の制作年は2005年、原作の発表は2002年だが、イゾトピックな均質性の表現は郊外化の初期から見ることができる。たとえば1967年から翌年にかけて放映されたSF番組『ウルトラセブン』「あなたはだぁれ?」というエピソードでは、団地の均質な間取りをネタにして、サラリーマンが自宅と間違えて別の部屋に入ってしまうことから起こる奇妙な出来事が描かれていた。また、所謂「団地妻もの」のひとつであるロマンポルノ『ズーム・イン 暴行団地』(1980年)には、まるでハンス・リヒターの映画に出てくる幾何学図形のようにして、団地の窓明かりがリズミカルに消えていくショットが挟み込まれている。これもまた、団地の風景にイゾトピックな均質性を見て取った一例であると言えるだろう。

2. テレビドラマ独自の表現

続いて、テレビ放映されたホームドラマにも目を向けてみよう。郊外を描いたドラマというと、郊外化の過渡期を象徴する作品としてしばしば言及される『岸辺のアルバム』(1977年)という名作があるが、ここでは、劇場公開される映画には不可能な表現を取り入れたドラマ『金曜日の妻たちへ』(1980年)について書いてみたい。

このドラマは、多摩川周辺のニュータウンに暮らす30代の夫婦三組の人間模様を描いた作品である。夫婦の不仲や不倫を中心に扱っていることもあって、現在の目からすると郊外生活の負の側面を強調する作品のようにも見えるが、リアルタイムの視聴者にとっては、少し無理をすれば手が届きそうな中流家庭の理想的な生活環境を描いたドラマとしても人気を博していたという。そこには、ユートピアとディストピアの間で揺れる人びとの心境が反映されているのかもしれない。『岸辺のアルバム』と同様に、本作も過渡期的な作品なのだろう。

主題歌「風に吹かれて」(ピーター・ポール&マリー)をBGMとした『金曜日の妻たちへ』のオープニング・クレジットは、理想的な郊外のイメージを具現化したような明るさに満ちている。真新しい団地の風景にはソフトフォーカスがかけられ、現実感が希薄で、やわらかな印象がつくりだされている。しかしこのようなイゾトピックな風景が示される冒頭とは裏腹に、本編で描かれているのは、かつてのホームドラマが築き上げてきた円満な家族像とはかけ離れたドロドロとした人間関係である。たびたび誰かの家でパーティーを開いてお喋りする彼らの話題は、それぞれの浮気や家族問題の告白、他所の家の噂話ばかりだ。これまで理想としてきた「家族」の枠組に強い負荷が掛かり、ギシギシと音を立てている様子が生々しく捉えられているのである。

美しく爽やかなオープニングと、重い愛憎劇が繰り広げられる本編とのギャップ。これは郊外生活の理想と現実——すなわち「一見幸福な家族生活を送っているように見えるが、実は……」と語られるような郊外の物語の紋切り型——の明快で力強い表現である。しかも『金曜日の妻たちへ』はテレビの連続ドラマであるため、視聴者はこの対比を毎週決まった時刻に繰り返し見ることになる。時刻が来たらチャンネルを合わせ、ソフトフォーカスの掛けられたオープニングを眺め、「風に吹かれて」を聴き、本編の室内劇へと入っていく——。こうした観賞を続けるうちに、作中の家族たちの生活と視聴者それぞれの生活との間に、ある種のシンクロが起こるだろう。習慣化した反復的な観賞経験そのものが、郊外生活における人びとの行動の均質化という問題とぴたりと重なり合うのだ。このような試みはあくまでテレビドラマだからこそ可能なことであって、劇場で観る映画には真似のできないことである。

 

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