【連載】ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー 第4回『新日本プロレスの歴史 Vol.Ⅱ』

歴史はナレーションでつくられる

最近はすっかり減ったが、構成作家の仕事を始めてしばらくはスポーツものや歴史ものの番組やビデオを手掛けることが多く、ナレーションを書くのが楽しかった。

両ジャンルには、意外とあそべる要素がある。他ならとてもハマらない仰々しい言い回しでも、ちゃんとサマになってくれる。

スポーツものの謳い上げるナレーションは、割とイメージしてもらいやすいと思う。歴史ものだと、さらに大げさにできる。例えば、CSのチャンネルでやった国定忠治伝は、こんな具合だった。

「やくざの剣に作法はいらぬ。ドスを握った手を腰に固め、相手にままよと体当たり。入った、と掌に響けば雑巾のように捩じる。島村伊三郎、うッ、と唸る暇も無く、夜露に濡れだした土手の草に顔を埋めた。駆け去る忠治の姿を見ていたのは、老いぼれた梟だけである。天保五年七月二日、逢魔が刻のことと伝えられる―」

日付はともかく、フクロウだけが見ていてなんで殺害時間まで分かるんだと、誰よりも先に自分が思う。思いながら、書けてしまえるのだ。

 

閑話休題。いや、まだ本題に入っていない。そういうことをね、思い出させるレコードを聴いたのです。

1984年にリリースされた『新日本プロレスの歴史 Vol.。『Vol.Ⅰ』と『Vol.Ⅲ』と合わせて3枚が連続発売されたようだ。これが、まさにスポーツ物語と人物伝がないまぜになったナレーションによって“歴史を作る”、プロレスらしいレコードだった。

針を落としてまず聞こえてくるのは、「モハメッド・アリのテーマ」。そう、みなさんおなじみのあれ、後にアリから譲り受けるかたちでアントニオ猪木のテーマ曲になった、〈BOM-BA-YE(殺っちまえ!)〉。(ただし、赤坂東児アレンジによる日本のバンドの演奏)

いやでも気分が上がるこの曲をバックに、テレビ朝日の新日本プロレス中継番組『ワールドプロレスリング』初代メイン・アナウンサーだった舟橋慶一のナレーションが始まる。

「ストロング小林、大木金太郎を撃破し意気上がるアントニオ猪木は、昭和50年2月、あるスポーツ新聞の記事に目を止めた。その記事とは、日本アマチュアレスリング協会会長八田一朗氏が、ニューヨークの日本レストランで、たまたまプロボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメッド・アリに会った際、アリが、自分が賞金を出してもいいから、日本あるいは東洋の格闘家で自分に挑戦してくる者はいないか、というものであった。

これを見て、プロレスは世界最強の格闘技であると言って憚らない燃える闘魂アントニオ猪木は、すぐにアリのトレーナー兼マネージャーであるアンジェロ・ダンディ氏宛に挑戦状を、正確には対戦要望書を送付した……」

舟橋さんの声の質は本来、感情移入型とは反対の冷静なもの。それが、センテンスはやたらと長く、事実関係も今一つはっきりしない内容を、ほれぼれするほど一気に語り下ろす。

このギャップに加え、「昭和50年2月」と冒頭に楔を打つのが、リアリティの煙幕としてよく効いている。耳に心地よいと「たまたま」が気にならない。八田一朗といえば、ビル・ロビンソン、アンドレ・ザ・ジャイアントを日本に呼ぶなどプロ業界にも影響力を持っていた影の仕掛け人。水面下での接触はもっと具体的だったはずでは、と思うのだが、それも含めて「たまたま」にしている。当然、こうした意味合いの「たまたま」は、すぐにでも「運命的に」と置き換えられるだろう。

 

だからこれ、ドキュメンタリーのレコードかと問われると、少々答えに困るのですね。

史実よりも伝説を巧みに選び取ってきた、幕末の侠客の講談に近い。事実ではないかもしれない、しかし、真実は大衆の求める中にこそ宿る、とする芸能の考え方のほう。戦後のプロレスはそれを、因縁や生きざまなどレスラー個々のドラマとともに、ストーリーや試合内容に取り込んできた。

今のところの僕のプロレスの定義は、以下になる。

「ルール上はプロのレスリングとして勝敗を明らかにするが、同時にジャッジでは割り切れない強さ、凄みを観客に問う、現代版の荒事であり、同時にXスポーツの元祖」

どんな必殺技だろうと、相手を長期欠場に追い込むことはない。明日も試合があるからだ。どんな相手にも合わせて試合を盛り上げては敗れ去る悪役が、実力ナンバーワンとファンの間で噂されたりもする。急所を一撃して「秒殺」を狙うのとは、真逆のツルギー。

つまりプロレスの、そう簡単ではない綾は、“読み”が必要なところに眠っている。

このレコードの、ビジネスが臭うあたりは「たまたま」と、サッと流してみせるナレーションは、見事にプロレス的なのだ。

 

プロレスの「綾」が通じない異種格闘技戦

さて、『新日本プロレスの歴史 Vol.ではこんな風に、舟橋慶一の名調子の語りに記者会見やインタビューの音声、試合実況の音声を取り混ぜながら、アントニオ猪木が邁進した異種格闘技路線と、「MSGの帝王」ボブ・バックランドとの抗争、藤波辰巳の成長によるジュニア・ヘビー級の台頭、「不沈艦」スタン・ハンセンの席巻など、76年から80年までのトピックが紹介されていく。

全体に、三国志演義を朗読したCDを聴くような気分で楽しめる。

しかし目玉は、やはり、猪木対モハメッド・アリ。猪木が、プロレスの綾が通じない異種格闘技戦に自ら、強いて臨んだ試合だ。力道山の死去以来マイナーになりかけていたプロレスを、再び世間の話題にするため必要な挑戦だったと、猪木は、本名・猪木寛至の著者名で出した『アントニオ猪木自伝』(00 新潮文庫)で振り返っている。

 

猪木がアリ戦実現に奔走するなか、ミュンヘン五輪の金メダリストであるオランダの柔道家ウィリアム・ルスカが、逆に猪木に挑戦を表明。76年2月7日に日本武道館で行われたルスカ戦が、異種格闘技戦のスタート、実質的なアリとの前哨戦になる。

ルスカ戦前の会見:猪木「プロレスとは格闘競技の、えー、チャンピオンであると。そういうことから私は、誰の挑戦でも受ける、ということをいつも言っているわけなんですけど。まあ、プロレスの強さというものを、この際、見せつけてやろうと思います」

試合中継:舟橋(実況):「柔道着の帯を取った、アーッ!バックドロップ!(絶叫で聞き取れず)……バックドロップ、岩石落とし。猪木のバックドロップ炸裂。ルー・テーズ直伝」

こうして文字に起こすだけで、たまらん。会見から中継につながる構成のスピードが、実に心憎い。

この時、小学2年生。テレビを見ながら絶叫して飛び上がった記憶が、沸々と甦る。未だにこの試合が、僕のオールタイム・ベストバウト。

そして、アリもとうとう挑戦に応じ、3月25日にニューヨークで調印式と記者会見が開かれる。

 

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