この映画について、私は何を語るべきなのか。あるいは、何を語るべきではないのか。鑑賞後の私の中には、そのような問いがぐるぐると回った。恐らく、それはおのずと答えが出るという類のものではない。逆に言えば、おのずと答えが出ないからこそ、「靖国」であり「天皇」であり、そしてそれらを主題とした『靖国・地霊・天皇』なのだろう。解のないものに解を求めようとする、そうした行為が批評であることは十分に承知しているとはいえ、本作の内包するものの前の大きさに、私は「語る」ことの虚しさを、改めて痛感せざるを得なかった。その虚しさは、今まで私が語ってきた全てのことをことごとく無化させるような、一種の絶望感にも転化していったように思う。いわば、自分を構成してきた全てのものが根底から崩されるような、そうした衝撃を私は本作から味わい、それは鑑賞から月日を経た現在においても、一向に収まることはなかったのである。
そのような状態の私に、批評を書くことは果たして可能なのであろうか。自身の中でも強い葛藤は続いた。しかし、思考を続けるうちに私の中には、一つのくっきりとした輪郭を持った――それは思考におけるある種の妥協点であるのかもしれないが――「靖国」が浮かび上がってきたようにも思う。それは、本作のチラシに記された表現をそのまま拝借すれば、生物としての「靖国」であり、様々な思いが蠢く軟体動物としての「靖国」である。
私たち一人ひとりの人間が、身長や血液型といったデータ的な要素だけでは説明できないことと同様に、生物である「靖国」もまた、思想やイデオロギーといった政治的な観点だけでは説明することはできない。言い換えれば、生物とはつまり「ごった煮」であり、それだけにそうした存在に対峙する映画の観客一人ひとりにとっても、それぞれまったく異なった解釈の「靖国」が存在する。この映画はそのような靖国の複合性を、“忠実に”映し出しているように私には感じられたのである。
“忠実に”と引用符をつけたが、それは本作が分類としては「ドキュメンタリー」という部類に該当するにも関わらず、同時に監督である大浦信行の、美術的な創造性が際立った作品でもあるからだ。大浦は40年以上のキャリアを持つ美術家・映画監督であり、これまで天皇制や歴史、その根底にある「日本」を問う作品の発表を続けてきた。過去には昭和天皇を題材にした版画シリーズ『遠近を抱えて』が、検閲の問題を含め大きな論争を巻き起こしたという事例(大浦・コラージュ事件)も存在する。そうした先鋭性を持つ彼が、「表現者としての集大成」として選んだのが本作『靖国・地霊・天皇』であり、それだけに本作もまた、社会的な観点のみには還元できない、様々な示唆に富んだ作品となっている。
その例として、大口明彦、徳永信一など、人物が画面に登場する際に挿入される紹介字幕がまず挙げられる。それはほとんど一字ごとの挿入となり、ちょうど誰かが肉声で文を読み上げるような、そのような錯覚を私たちは覚えてしまう。だとすれば、その主体となる語り手は誰か。インパールで戦病死した従軍看護婦や、戦犯として処刑された従軍兵士の残した手紙が、ちょうど「本人であるように」読まれることもあって、私たちは否応なしに、靖国の根底にある「地霊」の存在を意識することとなる。
また、カラフルなドラム缶の爆破シーンや、階段を降りる足が血の流れにまみれていくシーン(しかも逆回しで)なども、本作において際立った効果を上げている。それらは唐突に画面に挿入され、どういった意味を持つのか、私たちはほとんど理解することができない。
しかし、それらは表現として実に艶めかしく、同時に、その緻密に計算されたリズムが、生物の心臓が鼓動を打つ、そうした動きであるようにも私たちは感じてしまう。言わば大浦は、美術的な観点から靖国の「地霊」へとアプローチすることによって、「靖国」と聞いて私たちが思い浮かべるような、もやもやとした複雑さを画面に現前させることに成功しているのである。
そうしたもやもやとした、生物としての「靖国」がもっとも端的な形で現れるのが、極度の不自由さを抱えた、金満里の身体と言っていいだろう。冒頭、彼女を画面越しに見たときの私の感想は、ちょうど平野啓一郎の『日蝕』における、両性具有者《アンドロギュノス》を見たときの神学僧ニコラに近いものがあったと思う。現実の金満里は、身体障害者ではあるにせよ「態変」という劇団を主宰する、私たちと寸分変わりのない理性を持った人間である。しかし、私にはどうしても、画面での金満里が人間から離れた存在としか――「靖国」そのものであるとしか思えなかったのだ。
「云うなればそれは生ける屍体であった」「この奇妙な生き物には、固より霊など宿ってはいないのである」。これらは『日蝕』における、両性具有者を表した言葉であるが、本作における金満里も、このような感触と大差はなかったように思う。私が金満里に感じたのは、正直に言えば人間の形をした、「何か異様なもの」だった。――これは一歩間違えれば、障害者の方に関しての差別的な感覚と取られるかもしれない。しかし、私は自身の実感として、そのような告白をしないわけにはいかない。
本作での金満里は、「地霊」――つまり靖国の底に眠る霊という設定である。しかし、私にとっての金満里は、すでに現世を離れた存在としての「死者」ではなかった。とはいえ、もちろん人間としての「生者」でもなかった。私が金満里に覚えたのは、「生」に執着する精神と、「死」に限りなく近づいた肉体。そして異様な気迫を持って迫ってきた、その二つの間の激しい相克であったのだ。
これと同様の感情を、例えば私たちは『苦海浄土』などに描かれた、胎児性水俣病患者に対して覚えるかもしれない。重症の患者は歩くことも話すこともままならず、しかしながら、所有する感情は私たちと変わりはない。それだけに、そこにはより一層の苦しみが介在することともなる。彼らは人間が生きる上で味わうさまざまな喜び――歩く喜び、話す喜び、性の喜びなどその多くが奪われ、それはまた、「人間としての尊厳」が奪われることとも密接に繋がっている。私が金満里に、ひいては「地霊」としての彼女が眠る靖国に対して覚えたのは、そうした存在に常に付随する悲しみだった。
靖国には、東条英機や板垣征四郎といった個人の霊が祀られているのではなく、数十万の死者が「英霊」という集合神格として、参拝者に崇められる対象となっている。つまり軍の指導者も一兵卒も関係なく、すべて平等に「国を靖んじた者」としての扱いを受けているのだが、ここに靖国の根本的な矛盾が存在する。劇中でも東条由布子らの議論によって端的に示されるのだが、東条英機など軍部指導者となった人間と、半ば強制的に動員された朝鮮や台湾出身の兵士を同系列に語ることは、倫理観を別としてもいかにも暴力的であろう。「感謝しているからこそ、朝鮮や台湾の方を靖国に祀るのだ」という東条由布子の言葉には、他者への配慮ももちろんだが、第三者の目から「靖国」を捉える姿勢が全くというほど見られない。
そもそも歴史を遡れば、吉田松陰や坂本龍馬など明治維新の功労者たちも「英霊」として祀られているが、彼らは現在で言うテロリスト――反体制側の人間であり、太平洋戦争中に「国体」を護ろうとした政府の首脳たちとは、どう考えても相容れない存在である。彼らのすべてを一つの集合体として捉えるならば、その中に「ねじれ」を見出すことは決して難しくはない。矛盾が明らかでありながらも、なおも個を無視された「英霊」として祀られ続ける死者たち。そういった、靖国のみが持つ思想面での相克こそ、金満里の身体が持つ相克とぴったりと重なる存在なのだ。
冒頭で私は、答えのないものに答えを出す困難について書いたが、この映画においてまず求められるのは、靖国の持つ違和感を「違和感」として享受することではないだろうか。
思想やイデオロギーを超えた、「靖国」という存在を新たに噛みしめるということ。恐らく容易なことではないであろうが、そこから観客一人ひとりの持つ、「靖国」は確かに現れてくるはずだ。そうして新たに現れた「靖国」が、歴史を動かす新たな力となることを現在の私は期待したい。
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|公開情報
靖国・地霊・天皇
監督・編集:大浦信行 撮影:辻智彦
撮影助手・編集:満若勇咲 録音:清水克彦、根本飛鳥、百々保之
整音:吉田一明 制作:葛西峰雄 特別協力:辻子実
出演:大口昭彦、徳永信一、あべあゆみ、内海愛子、金滿里、鶴見直斗(声の出演)
製作・配給:国立工房 (C)国立工房2014
2014年/日本/HD/カラー/4:3/90分
公式サイト http://yasukuni-film.com
★7/19(土)よりポレポレ東中野にてロードショー!
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|プロフィール
若林良 Ryo Wakabayashi
1990年生まれ。早稲田大学大学院在学中。映画批評誌「MIRAGE」編集&ライター。現在映画サイトを中心にライター活動に注力中。第二次世界大戦を題材にした国内外の作品群に強い関心を持つ。