【ゲスト連載】Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論 #07「Mothers(2) / Disturbia/描くことのできない権力」 image/text 佐々木友輔


Camera-Eye Myth : Episode. 7 Mothers(2) / Disturbia

朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久

主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈

郊外映画の風景論(7)
描くことのできない権力

1. 「広告」としての住宅/家族/生活

誰もが同じ豊かな生活環境を得られることを理想に掲げて大量生産された郊外住宅や団地は、後にそのイゾトピックな均質性が批判にさらされ、戸毎の機能やデザインの差異化・個性化が求められるようになった。けれども、どれだけ工夫をしたところで住宅は住宅であり、差異化には限界がある。そこで企業は具体的な機能よりもイメージの差異を強調する方向に向かい、視覚的な見栄えを重視した様々な意匠の住宅がつくりだされていくことになる。

社会学者の若林幹夫は、郊外住宅あるいはニュータウンに施された種々の意匠が、必ずしもそこに住む人びとのためだけに用意されたものではなく、「その住宅を購買するかもしれない不特定の消費者の視線」を意識したものだと指摘する(『都市への/からの視線』、p.166)。郊外住宅やニュータウンは、ただ人間が住み込み、日々を過ごす空間としての機能を持つのみならず、それ自体が人びとに消費の欲望を喚起させる広告としての役割を果たしているのである。

すずきじゅんいち監督が1989年に制作した『砂の上のロビンソン』は、まさにこうした「広告」としての住宅/家族/生活を主題としている。この映画では、狭い団地に暮らす平凡なサラリーマン一家・木戸家が、ある不動産会社の企画に応募したことがきっかけで、ふつうならとても手を出すことができないような豪華なモデルハウスに住み込むことになる。そこで一年間、見学者たちに対して理想の家族生活を見せつけることができれば、彼らはそのモデルハウスを無料で手にすることができるのだ。しかし、もちろん事はそう簡単には運ばない。喜々としてモデルハウスに移り住んだ木戸家は、他人に「見られること」の恐ろしさに直面することになる。マナーの悪い見学者や不審者の来訪、いやがらせ電話、会社や学校での冷ややかな視線、そうした苦難にもめげず理想の家族を演じ続けよという企業からの圧力——。彼らの生活は滅茶苦茶になり、ついには夫の周平が仕事を辞めて失踪し、次男の草太は非行に走ってしまう。我慢の限界に達した木戸家は結局、一年が経たないうちにモデルハウスを手放してしまうのだ。

『砂の上のロビンソン』は、「広告」としての住宅/家族/生活が抱えている根本的な矛盾を批判的に描き出している。すなわちそこでは、一方では広告として、多くの人びとに理想的な家族生活を「見せること」を望みながら、同時に、理想的な家族生活を守るために、個々の安全を確保しプライバシーを尊重すること、すなわち「見せないこと」が必要とされるのである。

とは言え、現実に行われている「広告」としての住宅/家族/生活の実践は、『砂の上のロビンソン』が提起するこうした批判をすでに乗り越えていると言えるかもしれない。そのために導入されているのが、監視や管理といった権力を通じておこなわれるゾーニングである。今回は、主に「見せないこと」のほうに焦点をあてながら、こうしたゾーニングの問題と映画との関係について考えてみることにしたい。

2. 監視と管理

1990年代から2000年代にかけて、アメリカでは、情報化を背景とする監視社会や管理社会の問題を取り扱った映画が多数制作されているが、なかでも『トゥルーマン・ショー』『マイノリティ・リポート』『ディスタービア』といったフィルムは、情報化と郊外という場所のありようを関連づけている点で注目に値する。

たとえばピーター・ウィアー監督が1997年に制作した『トゥルーマン・ショー』において、主人公のトゥルーマンは、清潔感のある白壁と趣向を凝らした意匠の住宅地が立ち並ぶ典型的な「郊外的」風景が広がる町シーヘヴンに暮らしている。彼は優しい家族や友人、恋人に囲まれ、まるで50年代アメリカのホームドラマのような生活を送っているのだが、実のところ、彼の日々は実際にテレビ番組として放送されているのだ。シーヘヴンは巨大ドームのなかにつくられたセットであり、至るところに設置された監視カメラが24時間トゥルーマンの生活を記録している。町の住人たちもみな俳優であり、時にカメラに向かってさりげなくスポンサー企業の商品を宣伝してみせたりする。このことを知らないのはトゥルーマンだけだ。監視カメラはトゥルーマンの生活を全世界に放送するのと同時に、彼が真実に気づき、町の外に出ることを未然に阻止すべく行動を監視している。また彼らは、哲学者のジル・ドゥルーズが「管理社会」と呼び、日本では東浩紀が「環境管理型権力」と呼ぶような、内面を経由せずに人間の行動や思考を操作する権力をも行使する。幼いトゥルーマンに町の外へ出ることの恐怖を植え付けたり、交通手段を統制・管理することによって、「外に出る」という選択肢そのものを失わせてしまうのだ。

『トゥルーマン・ショー』もまた、『砂の上のロビンソン』と同様に「広告」としての住宅/家族/生活を主題とした作品であると言えるが、両者の最大の違いは、トゥルーマンに自分自身が「見られている」という自覚がないことである。テレビ番組「トゥルーマン・ショー」の制作者たちは、管理や監視によって、トゥルーマンと視聴者それぞれの「見せること」と「見せないこと」を巧妙に操作する。そうすることで彼らは、演技ではないひとりの人間の実生活を放送するという究極的な広告形態を可能にすると同時に、トゥルーマンの理想的生活を守るべく、彼に降り掛かる危険や災いを取り除く完全なセキュリティを実現しようとするのである。

3. 描くことのできない権力

こうした管理・監視によるゾーニングの問題は、日本の郊外にも無縁ではない。法律上、大規模なゲーテッド・コミュニティをつくるようなことはできないが、オートロック・マンションのような建物単位での監視・管理はすでに普及しているし、団地やニュータウンでは、外部の人間には全体像を把握しづらいような配置・導線づくりが為されている。また、住民たちが工事費などを自己負担して監視カメラを設置したというニュースも一時期話題になった。監視や管理はもはやSF映画の中だけの出来事ではなく、すでにわたしたちの生活に埋め込まれ、現在進行形で可動しているのだ。

そして、郊外と映画の関係を考える上で重要なことは、こうした権力を描くことが不可能であるか、あるいはとてつもなく困難だということである。

先に述べたように、環境管理型権力は内面を経由せずに人間の行動や思考を操作する。すなわち、そのシステムが正常に作動していれば、わたしたちは自身に働きかけてくる権力の存在に気づくことすらできないのだ。逆に言えば、わたしたちが権力の作動を感じ取ったり、不快感や不安感を覚えたりするのは、システムに「綻び」が生じているからである。『トゥルーマン・ショー』や『マイノリティ・リポート』も、そうした「綻び」を描くことによってこそ、管理社会の問題を扱うことができた(もしもトゥルーマンが見えない権力の存在に最後まで気づかなければ、この映画はたんなる50年代風ホームドラマにしかならないだろう)。完全なかたちで作動する環境管理型権力は「見えない」権力であり、映画には描くことのできない権力なのである。

とは言え、これは少々極端すぎる話だと思われるかもしれない。実際のところ、わたしたちはそうした権力の作動に「うすうす気づいている」が、「それほど気にしていない」といったほうが実態に即している。たとえば、環境管理型権力を説明する際、マクドナルドが客の回転率を上げるためにあえて固い椅子を用いているという話がしばしば持ち出されるが、どれだけ固い椅子でも少し無理をすれば長時間居座り続けられるし、もっと良い椅子に座りたければ別のカフェに行けば良いだけのことだ。このことは監視という権力についても同様である。わたしたちは監視カメラが至るところに設置されていることや、ICカードなどを通じて行動履歴が逐一記録されていることに気づいているが、何か大きな事件でも起こらないかぎり、日々蓄えられている記録が悪意のある人間の目に触れるとは思っていないし、それほど気にしなくて良いことだと感じている。多くの場合、管理も監視も——映画に描かれるようなディストピアとしてではなく——こうした中途半端な現実の中で経験されているのだ。

しかし映画は、このような、権力と人間との中途半端な関わりを描くことが不得手である。もしもある映画の作中に監視カメラのショットが含まれていれば、観客は必ずそこに何かしらの意味や伏線を読み取ろうとする。それが最後まで物語の本筋に関わりを持たなければ、そのショットは思わせぶりなだけの無駄な演出だと見なされるだろう。また逆に、監視カメラが作中どこにも登場しなければ、端的に言って、そのような権力ははじめから存在しなかったのと同じである。映画は基本的に、権力に「綻び」が生じている状態か、そもそも権力が存在しない状態か、そのどちらかしか描くことができないのだ。

|参考文献/関連資料

デイヴィット・ライアン 著 『監視社会』、河村一郎 訳、青土社、2002年
E・J・ブレークリー、M・G・スナイダー 著 『ゲーテッド・コミュニティ—米国の要塞都市—』、竹井隆人 訳、集文社、2004年
ジル・ドゥルーズ 著 『記号と事件1972-1990』、宮林寛 訳、河出文庫、2007年
北田暁大 著 『増補 広告都市・東京―その誕生と死』、ちくま学芸文庫、2011年
東浩紀、北田暁大 著 『東京から考える—格差・郊外・ナショナリズム』、日本放送出版協会、2007年
東浩紀 著 『情報環境論集―東浩紀コレクション』 東浩紀 講談社 2007年
若林幹夫 著 『都市への/からの視線』所収、青弓社、2003年
すずきじゅんいち 監督 『砂の上のロビンソン』、1989年
ピーター・ウィアー 監督 『トゥルーマン・ショー』、1997年
スティーヴン・スピルバーグ 監督 『マイノリティ・リポート』、2001年
D・J・カルーソ 監督 『ディスタービア』、2007年


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|プロフィール

佐々木友輔 Yusuke Sasaki (制作・撮影・編集)
1985年神戸生まれの映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会企画や執筆など様々な領域を横断して活動している。イメージフォーラム・フェスティバル2003一般公募部門大賞。主な上映に「夢ばかり、眠りはない」UPLINK FACTORY、「新景カサネガフチ」イメージフォーラム・シネマテーク、「アトモスフィア」新宿眼科画廊、「土瀝青 asphalt」KINEATTIC、主な著作に『floating view “郊外”からうまれるアート』(編著、トポフィル)がある。
Blog http://qspds996.hatenablog.jp/

菊地裕貴 Yuki Kikuchi (テクスト朗読)
1989年生まれ、福島県郡山市出身。文字を声に、声を文字に、といった言葉による表現活動をおこなう。おもに朗読、ストーリーテリング中心のパフォーマンスを媒体とする。メッセージの読解に重きを置き、言葉を用いたアウトプットの繊細さを追究。故郷福島県の方言を取りあげた作品も多く発表。おもな作品に「うがい朗読」「福島さすけねProject」「あどけない話、たくさんの智恵子たちへ」がある。
HP http://www.yukikikuchi.com/

田中文久 Fumihisa Tanaka (主題歌・音楽)
作曲家・サウンドアーティスト。1986生まれ、長野県出身。音楽に関する様々な技術やテクノロジーを駆使し、楽曲制作だけでなく空間へのアプローチや研究用途等、音楽の新しい在り方を模索・提示するなどしている。主な作品に、『GYRE 3rd anniversary 』『スカイプラネタリウム ~一千光年の宇宙の旅~』『スカイプラネタリウムⅡ ~星に、願いを~』CDブック『みみなぞ』など。また、初期作品及び一部の短編を除くほぼ全ての佐々木友輔監督作品で音楽と主題歌の作曲を担当している。
HP http://www.fumihisatanaka.net/