【Interview】10/9-19開催。要注目!新生・台湾国際ドキュメンタリー映画祭 林木材氏(プログラム・ディレクター)インタビュー text 藤田修平

             プログラム・ディレクターの林木材さん

2014年の台湾国際ドキュメンタリー映画祭は10月9日(木)に開幕します。そのオープニングを飾るのがワールドプレミア(世界初公開)となる『三里塚に生きる』(大津幸四郎/代島治彦監督 2014年)です。今回からこの映画祭は大きく変わり、アジアで最も注目される映画祭の一つになったのは間違いないでしょう。2年ごとであった映画祭は毎年の開催に変更され、会場も台中市から台北市に移動したのですが、なによりも注目されるのはプログラム・ディレクターに(この映画祭に対して痛烈な批判を加えてきた)林木材氏(Wood Lin)が就任したことです。それはこの映画祭がインディペンデントのドキュメンタリー映画に完全にシフトしたこと、そして、それにふさわしい映画祭のあり方が模索されることを意味しています。

林木材(Wood Lin)とは何者か?

彼は2005年から台湾南部の農民の生活を描いた『無米楽』(顔蘭権/荘益増監督 2005年)や台湾中部大地震から立ち直ろうとする人々を描いた『寶島曼波』(黄淑梅監督 2007年)といった映画の上映活動を始めます。台湾は日本と違って、台北市と地方都市、また都市と田舎の差がとても大きく、人々の暮らしは全く異なります。地方ではドキュメンタリー映画に触れることは難しく、自分たちに関する映画が作られたとしてもそれが伝わりません。台北市の映画館や誠品書店といった洗練された、文化的な場所で映画を上映しても、農民や被災者との距離は遠いままです。届けるべき人に届いていないと考えた彼はドキュメンタリー映画にとって映画館は重要ではないとして、監督達と作品を持って地方の公民館や図書館をまわりました。そして、地方の観客と相互のやりとり(質疑応答)を重視した、草の根的な上映活動を全国的に行うことで、この2本のドキュメンタリー映画を多くの人たちに観てもらうことに成功したのでした。

こうした巡回上映に加えて、台北市では定期的な上映活動を開始します。2008年に忠孝新生駅近くのアートスペース「倉庫」にて、毎週木曜日の夜に一人の監督を招いて、その作品を上映する「新生一号出口」と(駅の名前から「新生」を取り、1番出口から近いことから)名付けられた上映会を始めました。それは5年の間、この会場が閉鎖になるまで続けられ、上映の機会が少ないドキュメンタリー作家と観客をつなぐ場所を生み出しました。また、台北市ドキュメンタリー従業者職業労働組合に加わり、個人や少人数で制作を続けるため、孤独になりがちなドキュメンタリー作家たちの横の関係を創り出したのです。台湾ドキュメンタリー映画の活動を背後から支えて、彼らの作品を押し上げてきた人物こそ林木材氏です。昨年は「核電影」 影展(反核映画祭)を企画し、マス・メディアを賑わせましたが、インターネット上やマス・メディアにおいて積極的かつ大胆な発言を続けています。

さて、今回の映画祭ですが、映画祭からの言葉として「再見・真実」と掲げられています。これは「さよなら・真実」でもあり、neoneo 01号で「さよならドキュメンタリー」と題したこととどこか似ています。新しい何かを始めるためには過去を振り返り、一つの区切りを付ける必要があるということでしょうか。木材氏からは新しい映画祭にしたいという強い意気込みを感じながら、この映画祭事務所にて、お話を伺いました。
(取材・構成・写真 藤田修平)

 ——台湾国際ドキュメンタリー映画祭は1998年に始まり、15年の歴史があるわけですが、誕生の経緯などについて教えていただけますか。

林木材(以下WL) 1998年は台湾にとって重要な年で、(中国大陸を統治する前提で設置されていた)台湾省が廃止となり、台湾の本土化が進みました。また、公共放送(PTS)の放送が始まった年でもありました。そして、この少し前にはドキュメンタリー映画の制作や研究を専門的に扱う大学院である国立台南芸術大学が設立されていました。(注:彼はここの修士課程を卒業した。)こうしてドキュメンタリーに対する関心が高まるなかで誕生したのが、台湾国際ドキュメンタリー映画祭でした。

 ——木材さんはどのように映画祭に関わるようになったのですか。

WL この映画祭に観客として初めて参加したのが2004年で、2010年には上映作品を選ぶプログラマーの一人となりました。一人の観客の立場から批判するのは簡単ですが、内部で活動してみるといろいろと難しい面があることがわかりました。

 ——この映画祭に対して、厳しい批判を投げかけてきたと聞いていますが、一体、何が問題だったのでしょうか。

 WL 2012年の映画祭には新しいディレクターが着任し、私は関わることはなかったのですが、大きな失敗に終わりました。それはなぜか、と言えば台湾のドキュメンタリー作家たちが背を向けてしまったのです。海外の有名な作家や審査委員ばかりに目を向けて、彼らを優遇しているように感じたからです。つまり、自分たちの場所ではないと感じたので、台中市まで足を運んでくれなかったというわけです。ただ、それは2012年に限ったことでなく、その傾向は前から続いていました。この映画祭を担当したディレクターたちは50歳を超えていて、台北金馬映画祭とか台北国際映画祭といった大きな国際映画祭のディレクターを務めたこともある経験豊かな人たちだったのですが、その方法がドキュメンタリーの映画祭には通用しなかったのです。それと映画祭の会場が台中市の国立台湾美術館で、この場所をドキュメンタリーの拠点としてアーカイブを作ろうと構想していましたが、アート空間とドキュメンタリーがうまく合わなかったとも言えるでしょう。

——林さんはまだ若いですが、どういう経緯でプログラム・ディレクターに就任したのですか。

WL 民進党から国民党政権になって、作家の龍應台が文化部長(日本で言えば文化庁長官)になりました。なぜか彼女はドキュメンタリーにとても関心をもっていたのです。そして、この映画祭の予算を大きくして、会場を台北市に移して、隔年開催から毎年の開催に変えました。これは運営面で大きな意味があって、以前は2年ごとだったので、映画祭の年だけに人が集められて、映画祭が終わると去って行きました。すべてはその場限りで、担当する人もよく代わって、経験の蓄積がなされなかったのです。今回からは恒常的な事務局も設置されました。こうした改革があって、これまでとは違った、新しいスタイルのドキュメンタリー映画祭を作るために若い世代の私に声がかかったのではないでしょうか。

——今年の映画祭に話を移したいのですが、『再見、現実』という言葉を掲げられています。英語では”Re-encounter Realty!”とありますが、このテーマについて教えていただけますか。中国語と英語では少し印象が違っていて、中国語だと「さよなら」という意味が強いように思うのですが。

WL  まず確認しておくと、この言葉はテーマではないのです。私たちは映画祭に対して、テーマを掲げることには反対してきました。2010年だと「解放記憶」(Free Memory)というテーマがありましたが、テーマを意識するためにプログラムの自由さを失いがちです。逆に無理にテーマをでっちあげるなんてこともあるでしょう。そもそもドキュメンタリー映画は多様だし、映画祭はそうした多様さを示す場所だと思うのです。ただ、今回はドキュメンタリーが扱う「現実」とは何かもう一度考えよう、それは多様なはずだということを強調したいために掲げた言葉で、テーマではないのです。来年からはなくなると思います。「再見」には二つの意味があって、一つは「さよなら」ですが、もう一つは「また会いましょう」という意味があります。

——今回の映画祭の中で、目立つ作家の名前としてはアラン・ベルリナーとクロード・ランズマン、そして小川紳介です。こうした映画作家に光を当てた理由を教えてください。アラン・ベルリナーは日本ではあまり紹介されていないですね。

 WL アラン・ベルリナーは自分自身について、家族について、一人称の語りを用いて映画を作っていますが、とても実験的で、ユーモアに溢れています。こうした自由なアプローチで「現実」や「記憶」を扱うことができることを知ってもらいたい。ランズマンは昨年、新作〔Le Dernier des injustes (不正義の最後の人)〕を撮ったので、新作と一緒に過去の映画『ショア』(1985年)を振り返ろうと。これは9時間以上の映画ですが、一日で上映します。そして、今年、三里塚闘争の40年後の姿を描いた『三里塚に生きる』(大津幸四郎/代島治彦)が完成し、この映画はオープニングを飾りますが、小川の映画も一緒に振り返ります。こうして現在と過去をリンクさせています。小川は日本だけでなく、他のアジア諸国に大きな影響を与えましたが、その中には現在の中国のインディペンデント映画もあります。その影響とはダイレクトシネマ的なスタイルとか民俗学的な題材ではなく、一緒に同じ場所で、長い時を過ごしながら映画を作るという姿勢です。『北京陳情村の人々』(チャオ・リン監督 2009年)〔注:地方政府の不正と自分たちの窮状を北京政府に訴えに来た人たちを描いた映画。315分〕などは12年かけて映画を作っています。こうした映画を観ると小川の遺産をいかに引き継がれたかを知ることができるでしょう。
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