【Book Review】「時代」を読み解く感覚―大木晴子+鈴木一誌編『1969 新宿西口地下広場』 text 若林良

「青春」という言葉から、私たちはどのような色を連想するだろうか。恐らくは、爽やかさを想起させる青や、情熱を感じさせる赤が多いだろう。たとえば毎年の夏、全国各地から集まった甲子園球児たちの活躍を見て、私たちはこうした色を思い浮かべる。それはほとんど自然なことで、疑念が生まれる余地もない。しかしながら、近代史において最も若者たちが台頭した1960年代~70年代初頭に対して、おそらく私たちがイメージするのはこうした「肯定」の色ではない。鬱屈を思わせるような、濃い灰色なのである。

この「灰色」をより具体的に言うなれば、最初から挫折が決定づけられた、若者たちの自我を求めての葛藤であろう。「最初から」と付けたのは、彼らの活動が実を結ばずに終わったことは、歴史的にはすでに自明のことであるからだ。1972年のあさま山荘事件を最後に、若者たちの主だった活動は終焉を迎え、彼らの持っていた理想もまた、社会にはついに還元されないままに終わった。連合赤軍のリンチなど個別の事例に対しては、あるいは「黒」のイメージとなるかもしれないが、いずれにしても、「若者」を基軸にしてとらえると、この時代にまとわりつくのは、寂寥や苦悩の色を帯びた、息苦しさのイメージと言える。

このようなイメージは、現在の日本ではほぼ定着していると言えるが、それを作り出す源泉のひとつには、小説や映画を初めとした文化の存在があるかもしれない。村上春樹の『ノルウェイの森』に至るまでの初期の作品群を初め、三田誠広の『僕って何』、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、高野悦子の『二十歳の原点』(これは日記であるが)など、同時代を青年として生きた作家たちの作品は次々と生まれ、その多くが、時代を超えて読み継がれている。

私自身もまた、高校時代にこうした作品群に触れ、鬱屈した自分の想いを、当時の若者たちに重ね合わせた。今考えれば安易な感傷であったとは思うが、自身の抱えていたような鬱屈が、若者にとってはほぼ普遍的なものであることや、そこから彼らが新たな価値を見出したことなど、私が“作家たちの”あの時代から学んだことは多大だった。同時に、それはものごとに対する姿勢を中心とした、私の人格形成にも影響を及ぼした。

言い換えれば私は自身が、彼らと心情的に並走するような感覚を覚え、それは長い間、実感として私の中に残ることとなったのだ。彼らとともに笑い、彼らとともに苦難を分かち合ったような、そうした感覚が私にとっての「青春」の証だったと言える。

とはいえ、こうした感覚は結局のところ、「安易なノスタルジア」以上のものではなかった。当時の若者たちの感情を、「普遍的なもの」とすることにはある程度の正当性はあるにせよ、時代的な感覚が生まれる前提となるのは、その時代の社会や文化の存在である。知識ではなく肌感覚としてそれらを知らなくては、理解は結局、表面的なところに終始してしまう。私の中に存在したのは「概念としてのあの時代」であって、現実と照らし合わせた上での妥当性はないものだった。何のことはなく、例えば映画『ALLWAYS 三丁目の夕日』のような、あり得ないユートピアに希望を託しただけのことであったのである。

しかし、あえて弁解をさせていただきたい。私にとっての「あの時代」観を形成し、そして補強したのは、前述の通り同時代を生きた作家たちの作品群である。作品としての出来不出来ではなく、それらの核となる部分には、自身の青春と照らし合わせての、多分に追憶めいたものが不可分に存在していた。個々の作品として見れば不自然ではないが、それが「あの時代を描いた作品群」という集合体になることで、ノスタルジアとしての「あの時代」が私に、ひいては次の世代に受け継がれる形となったのだ。一度根付いたノスタルジアとしての感覚が、次に生まれる作品によって更に補強される。そうした一種の悪循環が、現在に至るまで続いていることは恐らく否定できないだろう。立松和平の『光の雨』のように、生理的な苦痛にひたすら肉薄することで時代を批判的に捉えた作品もあるにはあるが、主流となっているのはやはり、「ノスタルジア」として時代を捉えた、前述のような作品群なのである。

前置きが長くなってしまったが、本著『新宿西口地下広場』は、あの時代を「1969年」という一点に絞り、フォークゲリラなどの文化運動を中心に当時を読み解く評論集である。では、この本を読むことによって、「あの時代」は正確に理解できるのか。結論から言えば、否である。しかし、そのスタートラインに立つには、まさに絶好の一冊であると言える。

本著においては、まずブックデザイナーの鈴木一誌が、「地下の広場から見る一九六九年」として、この本の重要なエッセンスを紹介している。1969年2月28日、新宿西口広場において数人の若者がギターを奏でながら歌い出し、広場いっぱいにフォークソングを響かせた。これがのちに「東京フォークゲリラ」と呼ばれる活動の出発点であり、ベトナム戦争に対する若者たちの抗議の意志と、またシンプルな「表現」への欲求を反映したものであった。

そしてこの「フォークゲリラ運動」こそが、当時の新宿西口広場ともっとも密接に結びついた存在であり、同時に、本著の中心となっているトピックでもある。以降の章では、「あの時代」の証人たちであるそれぞれの評者が、フォークゲリラを通しての、それぞれの時代観に言及していくこととなる。

本著における「一九六九年」の切り取り方は、実に多種多様である。自伝的要素を含めた、上野昂志や鈴木一誌による時代評や、ゲリラ活動の当事者=大木晴子の現在までに至る反戦活動の取材、また当時の新宿西口を記録したドキュメンタリー『地下広場』に関連したロングインタビューや、その監督である大内田圭弥の経歴に関しての言及も存在し、本著の特色を「これだ」と、一言で言い表すことは難しいだろう。現在における反戦運動にも言及するなど、作者たちは「それだけで完結した、閉じたもの」として当時を見ているのではなく、「現在と地続きのもの」として捉えてもいる。それゆえに本著は単なる時代への考察に留まらず、現在に対するひとつの批評にもなり得ているのだ。そのことはまた、本作に内包された魅力のひとつでもあると言えよう。
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