【Review】更新されゆくもの、流動と生成――愛知県美術館「これからの写真」展のあとに text 影山虎徹

|素朴な疑問

この展示会の主題はいたって明確だ。「これからの写真とは何か」。

しかし、この素朴な疑問に答えるためには、いくつもの障壁を超えていかなければならない。この疑問は、「時間とはなんであるか」や「真実とはなんであるか」といった類いの問題にあるような、素朴ながら筆舌に尽くし難い性質を持っている。この疑問をさらに簡略化して、「写真とは何か」と変えたところでそれに的確な解答を出すことは大変な作業となるであろう。

写真とは、その語りにくさに身を置く媒体である。写真は、語ることを拒む媒体であり、何かを語ろうとすると、その内容はすぐにそこに写っているもの(被写体)に場所を奪われ、被写体に対しての言説を繰り返すことになる。本展は、その語りにくさを充分に承知の上で、素朴な疑問から、大海原へ写真をめぐる航海を試みた挑戦的な展示会である。鑑賞ガイドには、その目指すべき進路が書かれている。

 

この展覧会では写真を一面的な見方から解放することを目的としています。「写真は芸術か否か」。これらイエスかノーかを問うような問いから写真を自由にすることで、写真のこれからが見えてくるのではないでしょうか。

 

|写真をめぐる二項対立とその崩壊

この展示会には、日本の写真家9名の写真が展示されている。これらの写真家たちのそれぞれの作品は、「これからの写真」への解答の糸口として挙げられ、様々な二項対立を否定するかたちでそれを導き出そうとしている。キュレーターの中村史子(愛知県立美術館学芸員)が掲げた9つのテーゼを列挙してみよう。

 

・鉱山を発破する瞬間を撮った畠山直哉の写真は「機械による記録か/芸術表現か」ではない。
・どこにでもあるスポンジを撮った鈴木崇の写真は「何が写っているか/どう見えるか」ではない。
・過去の物品を撮った新井卓の写真は「過去か/現在か」ではない。
・被災地にいる人々を撮った田代一倫の写真は「大災害という非日常か/普通の日常か」ではない。
・木村友紀が展示する誰かが撮った用途不明の写真は「過去のイメージか/今、出会うイメージか」ではない。
・写真家と被写体がともに写る鷹野隆大の写真は「写真家か/被写体か」ではない。
・田村友一郎が作るカメラ・オブスキュラでは、写真は「歴史上の事実/幻視者の妄想」ではない。
・印画紙以外に印刷された加納俊輔の写真は「二次元の作り物/三次元の現実」ではない。
・場所や時間が分からない写真、映像をみせる川内倫子にとって写真は「静止画/動画」ではない。

 

それぞれの二項対立に関する否定は、二項を否定するものではない。この二項のどちらかに分類されるものではなく、写真とはこのような二項の性質を兼ね備えているものだという提案をしていることを確認しておきたい。この二項対立の否定が提案するもののなかには、一概に賛同できないものあるが、これまで写真メディアの特質であると思われてきたもの、いわいる写真の定義と考えられてきたものも見られる。ここではそれらが気持ち良い程きっぱりと切り捨てられている。その理由をキュレーターは次のように語る。

 

写真の定義できなさこそ、一元的な語り口を退け複眼的な発想を導く可能性かあると考え、(中略)この写真の多義性、定義できなさをむしろ「写真」という概念の可塑性と見なし積極的に価値を見いだすことはできないだろうか。
(展示会図録)

 

ここでは、写真の「定義できなさ」を肯定的に捉えようとする姿勢がうかがえる。本展示の出発点でもあり、その導きの終わりにあるものは、この写真の「定義できなさ」である。この展示は始まりから終わりまでわれわれに同じこと(写真の「定義できなさ」)を伝えているのだが、だからと言ってここに何の生産性もないと言ってしまうことは、軽率すぎるように思われる。ここで行われている二項対立の否定は、写真における優れた論考を書いたロラン・バルトが使用していたそれに場所を同じくしている。バルトの二項対立について同じく写真に関する重要な理論を展開したスーザン・ソンタグは次のように言う。

 

バルトが所有していた諸々の手段の中で一番の基本となったのは、生々とした二項対立を呼び出すアフォリストとしての能力であった、どんなものでもそれ自身と対立項にあるいはそれ自身の二つの在り方に分断され、次には一方の項が他方の項に対置されて、思いがけない関係を生むことになった。(中略)バルトが分類を持ち出すのは事態を開かれたままにしておくためなのだ。
(『書くこと、ロラン・バルトについて』)

 

バルトによる対立構造は、争いを起こさせどちらかひとつを選びとるものでは決してない。この対立の働きは「つねに暫定的で、いつでも訂正、流動化、圧縮を受け入れるもの」(同前)なのだ。バルトの使用する二項対立は、新たな関係を生成させることを企図している。バルト自身の思想は、自身が好んで用いた二項対立におけると同じように常に流動的で柔軟なものであったが、そんな彼が晩年興味を惹いていたのは写真であった。なぜなら、写真は本展示の二項対立の崩壊の先にある生成こそ、その本質があるものだからである。

バルトによると、写真とは「コードのないメッセージ」であり、本来それについて語ることは不可能なものである。しかし、その「コードのなさ」ゆえに制作段階、鑑賞段階で制作者の意図に合わせたコード、鑑賞者の読み取りに合わせたコードが付け加われてしまう。そのうちの代表的なものが、「芸術的批評コード」だろう。つまり、写真におけるあらゆる二項対立、写真が負うことになってしまう様々なコードづけから生まれる。そして、写真をめぐる環境が変化した昨今の状況においてこの付け加えられるコード、そしてそのことによって生み出される二項対立が変貌してきたかに思われる。そして、それらを再び洗い出すことによって、写真を「自由にする」ということが本展示会の生産的な試みなのだ。

 

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