【ゲスト連載】Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論 #10[最終回]「Readers / Cinema/ドキュメンタリー」 image/text 佐々木友輔

Camera-Eye Myth : Episode. 10 Readers / Cinema

朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久
キャラクターデザイン・原画:門眞妙

主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈

郊外映画の風景論(10)
ドキュメンタリー

1. 「らしさ」への態度

ドキュメンタリーは嘘をつく。ドキュメンタリーもフィクションである。映像に記録されたものがこの世界の「現実」をありのままに写し取ったものではないということはメディアリテラシーの基本であり、多くの人びとにとって馴染みのある考え方であると思われる。

しかし、それにもかかわらず、わたしたちは今でもある種の「現実らしさ」、あるいは「それらしさ」とでもいうべきものをどこかで信じているし、映画・映像制作者たちもまた、しばしばそうした観客のやわらかな信仰を利用しようとする。たとえば、深刻な問題の当事者に向けられた粘り強い長回しのフィックスショットを前にして、わたしは迂闊にも、撮影者の「誠実さ」や「真摯さ」を無根拠に信じてしまいそうになることがある。あるいは自ら撮影に出掛けたとき、手持ちカメラでわざと大きくカメラを揺らしたり短いショットをつないで見せることで、お手軽に「臨場感」や「リアリティ」を獲得しようという誘惑に負けそうになることもある。理性的にその意味を考えるよりも前に、ほとんど反射的にそうした映像の「誠実らしさ」や「現実らしさ」を受けとって(利用して)、納得してしまうということ。どれだけ気をつけていても、それは一瞬の隙を突いて潜り込んでくる。

もちろん、現実に目の前の人物や出来事と真摯に向き合おうとした結果としてフィックスショットが選ばれることもあるだろうし、カメラが揺れることなど構わずその状況に身を投じなければならない局面もあるだろう。実際、ある撮影手法がそれに特有な印象や意味を備えたものとして観客に受けとられる要因は、身体的・情動的な条件によるものであるばかりでなく、多分に文脈的な要素も含むように思われる。すなわち、フィックスの長回しが喚起させる「誠実らしさ」や「真摯らしさ」は、映画制作の先人たちが長い時間をかけてその手法を洗練させ、勝ち取ってきた信頼の結果なのであり、手ぶれ映像が喚起させる「現実らしさ」には、数々の危険を顧みない撮影や、命を賭した闘争の記憶がたっぷりと染み込んでいるのである。

加えて言えば、そもそもこうした「現実らしさ」や「それらしさ」こそが、映画やドキュメンタリーの持つ力であり、可能性でもあるだろう。フィクションであると分かっていても涙を流してしまったり、スプラッター描写に思わず目を覆ったり、印象的なショットが頭から離れなくなったり、「これ、どうやって撮ったんだ?」と考え込んだり、VFXを駆使したショットをそれと知らずに見ていたり——。そして、「現実らしさ」や「それらしさ」は作品の外に流れ出ていく。その結果わたしたちは、架空の登場人物や映画スタッフを古くからの親しい友人のように感じたり、訪れたこともない場所や時代を馴染み深く感じたり、映画の言葉に後押しされて選択や決断をしてみたり、見たことのないような映像表現に触れることで現実の風景の見え方が変わったりする(「現実らしさ」や「それらしさ」の条件が書き換えられる)。何気なくテレビで見た映画に、その後の人生を大きく狂わされてしまうことさえあるのだ。もしもそうした危うい魅力が失われてしまったならば、少なくともわたしは映画を観る気にもつくる気にもならないだろう。

だから——言葉にしてみるとあまりにも平凡な結論になってしまうが——ここで問題とすべきは、ある手法を「利用すること」ではなく、あくまで「安易に利用すること」なのだ。ある制作手法とそれによって期待される効果をあらかじめイコールで結んでしまうのではなく、そのたびごとに、その手法が辿ってきた歴史や社会的な位置づけを確認しながら、いまこのとき、もっとも適切であると思えるような手法(そして、それを分析するための眼差し)へと更新していくほかない。「それらしさ」や「現実らしさ」を疑い、決して固定しないこと。いつだってそれが出発点となる。

2. 編集のドキュメンタリー性

さて、「郊外映画の風景論」を書く中で、何か言わなければと思い続けてきながら、結局ここまで上手く言葉にできなかったやっかいな問題が残っている。それは、「編集」という行為をどう捉えるかということだ。

「撮影」という行為が、制作者に都合の良いフレーミングへの批判が為されたり、デジタル化による危機が叫ばれたりすることがあってもなお、どこかで、目の前の「現実」を記録しているのだということへの信頼を強く残しているのに対して、「編集」は早くからプロパガンダに関する議論とも結びつき、どちらかと言うと制作者の恣意的な映像利用——すなわち「現実」や「真実」の歪曲——を実現するための手段とみなされがちである。しかし、映像編集の経験を持つ者ならば誰もが知っているように、思いのままに映像素材を切り刻んで、好きなように「現実」を改変することができると考えること自体が一種の幻想である。端的に言って、無理な編集をしようとしても「つながらない」のだ。

もちろん、フィルムであれデジタルであれ、2つのショットを並列に配置するという意味では「つなぐ」ことができる。しかし、それらが「つながって見える」かどうかはまた別の問題だ。事前の撮影計画を怠り、編集作業の段階になって「あれが足りない」「これが足りない」と慌てて再撮影に出かけていくというのは、自主映画制作の現場でしばしば見かける光景である。ショット同士の結合は、大部分、撮影された素材の相性に依存するのであり、編集の段階で取り繕うことのできる部分はわずかしかない。たとえば、東京とニューヨークをそれぞれ撮影したショットを同じ街に見えるようにつなげるためには相当に周到な計画が必要だろうし、同じロケ地でも、撮影のタイミングが1時間ずれるだけでまったく別の場所に見えてしまう。撮影者が選択する構図、季節や時間帯、雨や風などの天候、そのロケ地に特徴的な建築物や舗装路の違いなどによって、ショット間の結合力は大きく変化する。多くの入門書に「イマジナリー・ライン」を守ることが編集のセオリーとして挙げられているように、運動の方向やリズムが揃っていることも大切な要素だ(さらに付け加えるなら、その映像を受けとる観客の慣習(ハビトゥス)やディシプリンによっても何が「つながって見える」かは大きく変わるだろう)。

逆に言えば、ショット同士を結びつけるための条件さえ整えることができれば、同じロケ地Aで撮影したショットA’とショットA”よりも、別のロケ地Bで撮影したショットB’のほうがショットA’と滑らかに「つながって見える」といったことも有り得る。実際、ロケとセットを組み合わせたり、複数のロケ地を組み合わせてひとつの街を描き出したりするのは、映画制作においては日常的におこなわれていることである。現実には遠く離れた土地で撮られた2つのショットが、双子のようにそっくりな顔をすることもあるのだ。

以上のようなショット同士の「つながらなさ」、あるいは、思いがけず「つながって見えてしまうこと」を、編集技術の未熟さや、恣意的な編集による架空の場所の創出(やらせ)として捉えるのではなく、そうした編集をめぐる諸問題のうちにこそ、それぞれのロケ地の場所性が示されていると考えることができないだろうか(編集のドキュメンタリー性)。そして、そうだとすれば、編集という行為を通じて複数の土地における場所のあり方を比較し、そこで見出される差異と類似から、それぞれの場所への理解を深めることができるのではないだろうか。『土瀝青 asphalt』および動画連載「Camera-Eye Myth」制作の中で見えてきたのは、このような仮説である。

3. 紋切り型をなぞる旅

「Camera-Eye Myth」は、郊外論および郊外映画の紋切り型をなぞる試みであった。いかにも「郊外的」であるような場所へ出掛けていって、それを風景として切りとるための旅であった。

しかし、イゾトピックな風景を期待した団地も、ヘテロトピックな国道沿いも、徹底的に管理された新興住宅地や地方自治体的風景の広がる町も、わたしの眼には、どの場所もその場所としか言いようのないものとしてしか現れて来なかった。長い間住んでいた場所、何度も訪れたことがある場所、「このシーンを撮るならあの場所」とはじめから決めていた場所でさえ、想像通りのショットを撮ることはできなかった。こうしてわたしは映画制作の旅のなかで、同じ場所などひとつとしてないのだと痛感し、映画がつくりあげてきたイメージの複製とでも呼ぶほかない、均質化された自らの郊外観を発見したのである。

ただし期待が裏切られても、再撮影のために別の場所に出掛けることはしなかった。撮影前に思い描いたイメージと、実際に撮影することで得られたイメージのズレを確認して、両者をどれほど近づけることができるか試してみたかったからだ。とりあえず撮影した映像をハードディスクに取り込み、編集を始める。ショット同士の「つながらなさ」が予定していた構成をねじ曲げ、続くエピソードの脚本の書き直しを迫った。白く抜けてしまった空は、手を尽くしても青空や曇天にはならなかった。エフェクトを掛ければ掛けるほど画面は荒れていった。至る所からノイズが現れて、こちらを見てガビガビと嗤う。

もしも、周到な準備をしてイメージ通りのロケ地を探すなり、VFXやエフェクト、レタッチを駆使して架空の場所をでっち上げるなりすれば、典型的な「郊外」のイメージにより近づけることはできるのだろう。しかし、そのようにして手間をかければかけるほど、郊外とは「均質」で「何もない」入れ替え可能な場所であるという前提が間違っていることが証明されるばかりではないか。

はたしてこれは、場所のありようを好き勝手に加工してやろうとする人間の暴力だろうか。それとも、無力な映画制作者が場所に弄ばれているのだろうか。この、編集画面の上を踊っているマウスカーソルを動かしているのは、いったい誰なのだろうか。場所に憑かれた映画。場所に撮らされた映画。そんな言葉が頭をよぎる——。

 

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