【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜中野理惠 すきな映画を仕事にして 〜 第3話 text 中野理惠

『ハーヴェイ・ミルク』のプロデューサー、リチャード・シュミーセンと

開拓者(フロンティア)たちの肖像
〜中野理惠 すきな映画を仕事にして〜

第3話   初めてのニューヨーク行き

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『ハーヴェイ・ミルク』と出会ったニューヨークで短期間ながら暮らしたのは、ひょんな理由からであり、特に計画や意図があったわけではない。

初めてニューヨークに行ったのはその前年、1985年の夏、今から30年前である当時親しくしていた友人二人が、アメリカでの暮らしを選んでいたので、その二人に会う事が目的であった。一人はNYU(ニューヨーク大学)の大学院で行政学を学ぶために、もう一人は、バッファローにあるNY州立大学に入学するために、それぞれ日本での仕事を辞めて、数年単位の計画でアメリカに渡っていたのである。つまり、アメリカやニューヨークへの関心が根底にあったわけではない。

一方で、長い事、アジア、特に韓国には関心があった。大学卒業後、朴政権の戒厳令下にあった1976年から韓国を数回訪れたこともあり、それが、後に、『ナヌムの家』(ビョン・ジョンジュ/1995年)『豚が井戸に落ちた日』(1997年/ホン・サンス)『八月のクリスマス』(1999年/ホ・ジノ)と韓国映画を手掛ける源になっている。

だが、初めて触れたアメリカというか、ニューヨークは新鮮な刺激に溢れた街で、帰りたくなかったほどだった。

『ナヌムの家』

※『ナヌムの家Ⅱ』『息づかい』と三作品まで続くことになった、いわゆる従軍慰安婦をテーマとしたドキュメンタリーの第一作。山形国際ドキュメンタリー映画祭’95で小川紳介賞を受賞した。

『豚が井戸に落ちた日』

 ※監督のホン・サンスは、今や韓国トップクラスの監督になっている

ハリウッド映画をたくさん見た

1985年に映画配給会社での勤務は11年目に入り、時によると深夜にまで及ぶ仕事にも慣れ、担当していた経理を中心とする、外国映画の日本国内配給に関わる事務方の業務にも不満はなかった。というか、不満のない状態になっていた、というのが正確だろう。また、同業他社の人たちとも組合活動などを通じて親しくなっていた時期でもあった。

1980年代中頃まで、外国映画配給会社は、東宝東和、日本ヘラルド、松竹富士などのインデペンデント系に、アメリカン・メイジャー(ワーナーや二十世紀フォックスなどのハリウッド映画の配給会社)を加えても10社前後ではなかったかと思う。そのような同業社で働く者同士の付き合いにより、『エイリアン』(79年/リドリー・スコット)『エレファントマン』(80年/デヴィット・リンチ)『エンドレス・ラブ』(81年/フランコ・ゼフレッリ)『ジョーズ』(81年/スピルバーク)『E.T.』(82年/スピルバーク)などを始め、数え上げられないほど多くの映画を見た。見た後は感想を語り合い、公開に至る裏話を聞いた。

所属していた組合が、アメリカン・メイジャーの配給会社員が所属していた全日本洋画労働組合(略称は全洋労(ぜんようろう))だったので、ハリウッド映画が多かった。ちなみに当時は、日本で公開される外国映画はハリウッド映画が圧倒的に多く、他には、ヨーロッパとソビエトと中国の映画が劇場で上映されることはあったが、その他の国の映画は、現在とは大きく異なり、映画祭や特集上映など以外では、滅多に見る機会はなかったのである。

 
外貨持ち出し上限US$500  米ドルの為替レート360円の時代

ところで、外国映画買い付けの事務処理は、現在とはかなり異なる。私が外国映画配給会社に職を得たのは1974年であり、当時は、外貨持ち出し上限額が500米ドルで、米ドルの為替レートは固定の360円の時代であった。外国との役務提供契約には日銀の許可を必要とし、その具現化である物品(フィルム)の輸入には、通産省に申請しなければならなかった。契約書をもとに、日銀への提出書類を作成し、日銀に通い、説明し、やっと許可を得られる。

申請が通ると、次にはフィルムの輸入だ。中年男性通産官僚の意地悪としか思えない質問に答え、やっとフィルム輸入許可を受け取れる。その後、実際にフィルムを受け取るまでは、銀行と通関業者との交渉である。フィルム受け取りにはCOD(cash on delivery)方式が多く、つまり代金と引き換え条件なので、到着の連絡は銀行の外為に届く。フィルムのリリース・オーダーを銀行から受け取るには、責任者のサインが必要だ。

ところが、社長の居場所はしょっちゅう不明。必死で社長の居場所を探す。ある時など、東宝東和に行ったのではないか、とあたりをつけて、銀座通りを走り、当時、東宝東和のあったプレイガイドビルに駆け込んだところ、白洲春正社長とエレベータで一緒になった。雲の上の方であったが、必死だったので、失礼を省みず、用件を伝えたところ、自ら案内していただき、めでたく社長に出会えてその場でサインを貰ったこともある。試写日程が迫っている時も多かったため、社長からサインを貰うのが最も大変な作業だったともいえる。


お世話になった方々との長いお付き合い

ちょうど、日本が高度経済成長時代に突入していた期間と重なっていた。為替レートが変動相場制になり、海外持ち出し外貨額上限も次第に増え、それにより、日銀に申請書を求められる映画が減っていった。通関業者の日本シネアーツさんには、一から教えていただき、後にシネアーツさんが字幕を業務に加えたので、今でもお世話になっている。また、会社が六本木にあった時代は日本勧業銀行六本木支店の外為に、銀座に移転してからは、銀座通りの東京銀行銀座支店にはどれだけ通ったことか。勧銀の外為でいつも無理をお願いしていた黒田美喜子さんとは、今でも付き合いが続き、つい数年前など、パンドラでアルバイトをしていただいたほどである。

たくさんのアメリカ映画を見たことも、経理や貿易実務、役所や銀行との交渉の経験も、全て糧になったと思っているが、最も影響を受け、感謝をしたいのは、社長の仕事への姿勢である。このことについては、次号以降に書こうと思う。

(つづく。 次は3月1日に掲載します。)