【Review】『イザイホウ』と『イザイホー』のあいだ text 指田文夫(大衆文化評論家)  

『イザイホウ』より「静かに合掌」 ©海燕社

今、日本のホテルなど結婚式場には、「三種の神器」があり、それがないと若者は使ってくれないという。外国人の牧師による式、コーラス隊とオルガン、そして式を公衆に見せるロビー、あるいは終了後に映画『風と共に去りぬ』のように降りてこられる大階段である。これは何を意味しているのだろうか。結婚という個人のイベントの公衆化だが、それは同時に、内輪の人間以外との関係を喪失した人間関係の希薄化でもある。さらに、外国人牧師に見られるように、結婚という民族固有の習俗が、伝統に無関係になっていることの象徴である。

イザイホーは、沖縄本島近くの小島・久高島で12年ごとの午年に行われる女たちだけの祭祀で、1970年代まで、多分古代からの形をそのまま残していた大変に稀な例である。

映画『イザイホウ・神の島・久高島の祭祀』(監督野村岳夫 海燕社)は1966年の記録で(12年後の1978年にも最後のイザイホーが行われた)、野村たちは特に学術的興味もなく島に渡り、最初の1か月はカメラを廻さず島民に同化した後にイザイホーを撮ったもので、彼らは「撮影で満足した」そうだ。翌年、島で行われた試写で、島民から「公開しないでほしい」との強い要請があり、以後一切公開しなかった。だが、40年後の現在、映画のなかの島民も多くが亡くなられ、フィルムも劣化したので今回DVD化され、全国で初めて上映されている。映画『イザイホー・1990・久高島の女たち』は、1990年に姫田忠義監督(民俗文化映像研究所)が久高島に赴いたが、すでに実施できなくなっていたイザイホーの記録である。『イザイホウ』と『イザイホー』の違いは、近年は沖縄でも長母音を「-」と表記するためで、中身は同一である。

『イザイホウ』より「七つ橋を渡る」©海燕社

イザイホーは、30から41歳までの主婦のみが参加できるが、比嘉康雄の『日本人の魂の原郷・沖縄久高島』(集英社新書)によれば、これは久高島では女は島内で農耕に従事するが、男は漁労で外洋に出て不在なので、日常生活や伝統も女たちによって継承されてきたからだという。久高では、孫は祖父母の生まれ変りとの世界観があり、子供は祖母と母の膝で育まれるので、女が伝統を伝えるとの実感から来ているのだそうだ。島の神職者の頂点には二人のノロがいて、その下に家ごとに70から31歳までの主婦の神人がいるが、イザイホーは簡単に言えば、その神人を新たに補う行事である。折口信夫は『琉球の宗教』(全集第二巻『古代研究』)で次のように書いている。

處が、唯の神人は、そうした偶然に委せることが出来きない程、人数が多い。それで選定試験が行われる。大體に於いて、久高島で今も行われるいざいほふという儀式が、古風を止めてゐるものであろう。

また、2本の映画には出てこないが、イザイホーでは低い七つの板の橋を渡る儀式もあり、姦通している女は橋から落ちて死ぬというユーモラスな言い伝えもあると加えている。初日、聖泉に行った女たちは、禊をして髪を洗い、夕刻に白装束で集まり、島の聖地である篭り小屋「七ツ屋」に入っていく。そこは、ノロとイザイホーとなる女たち以外に誰も入ることは許されず、映画『イザイホウ』にも、この中の映像はない。その中で、女たちは、祖母の霊と逢い、「夜篭り」を経て神人となって翌日外界に登場する。恐らくは、ノロによって憑依が行われ、それで新しい女は守護力を得て神人になるのである。

島の広場での、新たに神人となった女たちの集団の唄には、一種異様な迫力があり、それは、私たちの祖先たちに会った瞬間とでも言おうか。現在、私たちがテレビなどで日々目にする今風の女性は、極限までに細く痩せて柔らかさを誇るのに対し、その対極にある体つきである。女たちの白装束姿は、一様に鈍重で硬く、ぎこちなく鈍い動きだが、地を踏みしめる足音と声には、地底から沸いてくるような迫力があり、私たちの祖形にほかならない。「ああ、昔のわれわれはこうだったなあ」と思い、私は大いに感動した。

これに対して、1990年の映画『イザイホー』では、祭祀を司るべきノロの一人がすでに亡くなり、もう一人も病気で、祭祀は実行不可能になっていて、撮影隊は、島の諸所で他の祭祀を記録するが、それによって浮かび上がってくるのは、喪ったものの意味であり、イザイホーの大きさである。『イザイホウ』と『イザイホー』との間、そこには、言うまでもなく1972年5月の沖縄の米国から日本への施政権の返還があり、急速に「本土化した沖縄」の現実があったことは言うまでもない。その意味で、最後のイザイホーが沖縄返還6年後の1978年に行われたのは、非常に象徴的で、この辺から沖縄の本土化が本格的に進んだのだろうと思う。

その意味で、この初めて公開された映画『イザイホウ』は極めて貴重な映像であり、私たちが、近代化の中で喪失してきたものを見ることができると思う。

『イザイホー 1990年 -久高島の女たち-』©民族文化映像研究所 

【映画情報】

『イザイホウ 神の島・久高島の祭祀』
(1966年/ドキュメンタリー/モノクロ/スタンダード/モノラル/デジタル上映/49分)
監督:野村岳也(海燕社)

渋谷アップリンク、名古屋・シネマスコーレ、沖縄・桜坂劇場等でメモリアル上映中
(詳細は海燕社公式サイトを参照ください http://www.kaiensha.jp

『イザイホー 1990年 -久高島の女たち-』(民族文化映像研究所 映画作品86)
ドキュメンタリー(30分/1991年)
制作:民族文化映像研究所
※スタッフ/姫田忠義・伊藤碩男、他

【執筆者プロフィール】

指田文夫(さしだ・ふみお)
大衆文化評論家。1980年代から『ミュージック・マガジン』で映画、演劇を批評、2013年4月の『黒澤明の十字架』(現代企画室)は、「従来にない黒澤論」として高い評価を受ける。