開拓者(フロンティア)たちの肖像
〜中野理惠 すきな映画を仕事にして〜
第4話 映画との出会い
<前回(第3話)はこちら>
このあたりで映画との出会いを記しておきたい。
最も幼い映画についての記憶は、村の日枝神社のお祭りの際に、境内で見た映画である。
夏だったと思う。1950年代だ。『黄金孔雀城』などの東映や大映のチャンバラ映画が多く、中村錦之助(のちの萬屋錦之介)や大川橋蔵、里見浩太郎などのスターが登場する。中でも『赤胴鈴之助』は忘れられない。
「けぇーんをとぉっては日本一の ゆ~ぅめは大きな少年剣士 お~やは~いないが元気な笑顔 よ~わいも~のには味方するっ おぉおっ がんばぁ~れ、つぅよいぞ 僕らの仲間 あっかっどぉおお すずのすけ」
今でも歌える。
<笑顔>なのか、<素顔>なのかは定かでないが、「お~やはい~ないが」を、しょっちゅう「お~やはい~ないな」と間違えながら、近所の子どもたちと大声で歌った。伊豆半島の片田舎、静岡県田方郡伊豆長岡町の温泉街から離れた農村地帯。育った家は道のどん詰まりにあり、裏庭はそのまま山に続く。登りきると左手、北の方に大きく富士山がみおろす。
子どもの頃に見た映画
小学校に入学すると、講堂で床に座り定期的に映画を見た。中でも『綴り方兄妹』(久松静児/1958年)と『にあんちゃん』(今村昌平/1959年)はよく覚えている。『にあんちゃん』では、炭鉱町の風景が珍しかったことと、兄妹の仲の良さが記憶に残り、原作者、安本末子の名を今でも覚えているほどだから、よほど、驚いたのだと思う。
『風と共に去りぬ』(ビクター・フレミング/1939年・日本公開は1952年)は、姉と共に母に連れられて、ほこりの舞う沼津街道を、一時間近くバスに揺られ、沼津スカラ座(だったと思う)の長蛇の列に並び、スクリーンの後ろから入って見た。小学校3年生だったと思う。母が姉と私の手を握り、背後にあるスクリーンを見ていた。『十戒』(セシル・B・デビル/1956年)『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー/1959年)も同じころに見た。
『釈迦』(三隅研次/1961年)を見た祖父は、北林谷栄が自分の髪を切って寄進する場面で、「ハサミを使っていたのはオカシイ。あの時代にハサミはなかったはずだ」と口にしていたのを覚えている。弟は横綱朝潮の出演していた『日本誕生』(稲垣浩/1959年)を、ブンちゃんというウチの畑仕事を手伝っていたおじさんに連れられて、三島の映画館で見てきた。姉と弟は、時折、誰に連れられて行ったのかは知らないが、東映のチャンバラ映画を見ていた。一緒に行ったのは父だったのかもしれない。
祖父母や大人たちの会話にしょっちゅう出ていた<ゴシさん>が、五所平之助監督の事と、ずっと後で知った。古川ロッパが、家のどこかに座っていたのを見たぼんやりとした記憶がある。だが、お二人共との付き合いのいわれは、断片でしか知らない。
映画を好きになったのは、育った環境にあると思っている。
『ウエスト・サイド・ストーリー』と『風と共に去りぬ』
『ウエスト・サイド・ストーリー』(ロバート・ワイズ/1961年)を姉と見た時は、中学一年生の時だった。ジョージ・チャキリスのまっすぐ長く延びた足、ナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーのラブシーン。音楽も画面も、ずっと長く、ほんとうにいつまでも記憶に残るほど、素敵だった。他にも、沼津の映画館で見た映画はあるのだが、作品の題名は覚えていない。中学校でも年に数回、体育館に座って映画を見た。『風と共に去りぬ』もその中にあったので、12歳にしてすでに2回見たことになる。高校生になると、バスと電車を乗り継いで、隣町の高校に通う。正式名称は静岡県立韮山高等学校、略称ニラコウ。
伊豆箱根鉄道線<韮山駅>に降りると、美しい裾を引きデンと座る富士山と並行して、田圃の間をまっすぐ走る道を、朝は高校生の列が延々と続く。あるのは田圃と畑だけ、いるのはお百姓さんと高校生だけで、映画館などはない。でも、図書館には「キネマ旬報」があった。校歌の中の「男子の気噴吹きあかれ」の「オノコ」だけは歌わなかったりなど、他愛もなかったのだが、楽しい三年間だった。高校時代のことを書き始めると延々と終わらないので、いずれかの機会に譲ることにしたい。
名画座通い
大学入学で一人暮らしを始めてから、ロックアウトで授業のない日も多く、名画座に通った。一人で映画館に行ってはならないとの親の禁止というか、監視がなくなったからでもある。それは大企業OL期間も続いた。高田馬場パール座を筆頭に、新宿文化や蠍座、西口パレス座、池袋文芸坐、渋谷全線座、飯田橋佳作座。『肉弾』(岡本喜八監督/68)は新鮮だった。自己表現としての映画を知った驚き、とでも表現したらいいのだろうか。『肉弾』を見なかったら、映画を仕事にしようとは、考えなかっただろう。『エロス+虐殺』(吉田喜重/69)では映像もそうだが、一柳慧の音楽が強く印象に残った。蠍座で見た『修羅』(松本俊夫/71)にはひたすら驚き、『儀式』(大島渚/72)を見た後は、監督の著書を読んだ(注)。その中に書かれていた言葉の一つは衝撃で、長く記憶に残っている。
「何でもいいから一流になりたかった」
そんなことは考えたこともなかったからだ。
(つづく。次は3月15日に掲載します。)
注:70年代当時読んだ大島渚監督の著書には、「魔と残酷の発想」(芳賀書店/66)「青春:闇を犯し続ける葬儀人に一切の権力を!」(大光社/70)などがあった。