東京・ユーロスペースで絶賛公開中の映画「みんなの学校」。ふつうの子供も障害のある子供もみんなが同じ教室で学ぶ大阪市の「大空小学校」の1年間に密着した作品だ。もともと関西テレビの番組として放送され、再編集のうえ劇場公開された。
今日的な問題を孕んでいても、子供たち起こす小さな“事件”に、クラスメイトや先生、親や地域の大人たちが対処する構図は昔と変わらず、ほっとする。イマドキの小学校の一断面をリアルに描いた本作は、教育について何かを語るより「まずは見て!」とエールを送りたくなる1本だ。しかし、さりげなく撮られたこの日常の記録は、学校における子供の長期取材、テレビ放送、映画化と、様々な制約を見事にクリアし届けられた、とても貴重なドキュメンタリーでもある。
予測のつかない撮影現場や、テレビ局という組織の中で、どのような課題と向き合いながら「みんなの学校」は作られたのか。本作がドキュメンタリーの初演出となる真鍋俊永監督に、“つくりかた”の話をうかがった。
(取材・構成 佐藤寛朗)
夫婦で引き継いだ企画
——まず感想として、教育論の本なんかよりも、よっぽど子供たちや先生の「生の姿」が見られて面白かったんですけど、小学校そのものが映画の舞台になる、というのは非常に貴重だと思いました。どういった経緯で取材をすることになったのですか?
真鍋 実はこの「大空小学校」は、迫川緑という僕の妻が、2011年に取材をしたんです。彼女は障害者問題に関心があって、自立支援法が作られる時にも『カイカクの国~自立支援という名の法律』という、障害を自己責任にするような法整備の意味を問うドキュメンタリーを作っています。
特別支援学級がある学校でも、そこの子が普通学級でいっしょにいる時には、よりいい表情をしている。それなのになぜ特別支援学級に戻されるのかを取材していくと、結局その子たちに手がかかるからとか、学習の邪魔だからとか、排除の理屈でしか説明できない。それはちょっと違うんじゃないの?という彼女なりの疑問があった中で、こんな学校があるよ、と紹介されたのが大空小学校だったんですね。
彼女が作ったニュースの特集には、大空小学校の3年生の女の子が、通常なら2年生で習う九九の4の段をはじめて言えた時に、教室中が拍手に包まれる、という場面がありました。いろんな子たちが一緒の教室にいることは、手間はかかるけど、ある友達がほかの友達に教えることで理解が深まったり、それぞれの発達段階で伸びていくことを素直に賞賛できる空気があったりして、ある種、学力とは違う、別に身に付く力があるんだ、ということを伝えるものでした。
一方で大空小学校の教育が、学力をつけることにも相反することは無い、という事実もつきつけました。その当時もすでに、大空小学校の学力調査は大阪市の平均を大きく上回っていましたので、特集の〆のコメントにはそういうことも言いました。学習障害の子どもを排除する要因に、その子たちがいることでみんなの勉強が遅れるんじゃないか、という親の心配があるので、それは違う、ということを伝えなくてはいけないと。ただ、僕の番組や映画では直接的には大空小学校の学力が高い話はしていません。
大空小学校のあるエリアは、塾に通う子は少なく、生活保護の子もいるような、大阪市の平均から見ても、やや貧しい地域に入るんです。成績と経済力はリンクするって言われていますが、ここの学校はちゃんと力をつけている。橋下徹市長があれだけ「大阪市の子供たちの成績」が悪いことを言いたてて、何かを変えようとするツールに「成績」を使っている中で、「学力」だけじゃない、大空小学校のいったい何が良いのかを、今度は1年かけて追ってみようという話になって、校長先生にも許可をいただけたんですね。
迫川にも、こんな学校が1年間撮れるなら、きっと面白いことがあるはずだ、という確信があったようですが、社内的には企画は通っていても誰がやるねん?みたいな話になって、彼女が諸事情でやれなくなって、企画自体がつぶれそうになっていたんですよ。
僕自身、学校の取材は興味があるし、やりたい気持ちもあったので、夫婦で引き継ぐのもなんだかなあ、とは思いながらも、僕がやりますと手を上げて、夫である僕が取材をすることになったんです。ただし、あくまで普段のニュースの仕事もちゃんとやってね、というのが条件でした。
——真鍋さんは、関西テレビでは普段はどういうお仕事をされているのですか?
真鍋 今もあまり変わらないのですが、夕方のニュースで「アンカーズアイ」という名前のコーナーの責任者をしていました。週に1回、10分程度のVTRをメインにしたコーナーで、VTRは主に外部のディレクターに発注します。その題材を選んだり、内容を構成したりしながら、放送までの日程管理なども行う、プロデューサー的な役割をこなすポジションです。『みんなの学校』の撮影を始めた時は月曜日にそのコーナーがあって、金曜日や土曜日に準備をして、月曜日は1日会社にいてVTRの仕上げや、スーパー(字幕)を出す内容の打ち合わせをやって、放送中はディレクターの卓に座って、指示を出したりしていました。
そんなわけで、月曜日はダメだけど他の日は比較的動けたので、もし月曜日に重要なことがあったらカメラマンに一人で行ってもらう、というかたちで撮影がはじまったんです。ところが大空小学校では、全校道徳という重要なイベントが月曜日にあるんです。たまたま5月の連休後、月曜日が休みで火曜日に道徳があって、それが映画のオープニングに使っている映像なんですが、ああ、この日にこなければダメじゃん!って思いました(笑)。その後は、月曜日も朝8時に学校に行って、11時頃にカメラマンだけ残して会社に戻る、というような、あくまで普段の仕事をこなしながらの撮影を続けていました。
途中で火曜日に僕のコーナーが移って、月曜日にも学校に行けるようになったんですが、その頃から、日々のニュースはやらなくていいから、コーナーだけはちゃんと回してね、という話になりました。とはいえ、木曜日に学校の取材をしたらそのまま企画会議に突入、という状態で、ラッシュも見られずに撮った素材がどんどん溜まっていって、まずいまずいとハラハラしながら生活していました。
▼Page2 大空小学校、という現場 につづく