【Interview】 『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』 長谷川三郎監督インタビュー text 若木康輔

広島の被爆者、安保闘争、三里塚、祝島、公害、昭和の戦争責任……そして福島。

報道写真家・福島菊次郎の生きざま。半世紀にわたって怒り、屈せず撮り続けてきた写真の凄み。それがどんなものか知りたければ、この映画である。

スタッフは黒子に徹し、見る人に福島菊次郎という存在の大きさをまっすぐ伝える。長谷川三郎の劇場作品デビュー作『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』は、そこのみに向けて全力傾注しているといっていい作品だ。かえって、監督インタビューの席で「福島菊次郎さんって凄い人ですねー」とわざわざ繰り返しても仕方ない気持ちになった。映画を見れば言わずもがなではないか。そう正直に話すことから、インタビューを始めた。

(取材・構成=若木康輔)

 

福島菊次郎に直撃されてほしい

長谷川 今言われたことが、実は作り手としては全てに近いです。『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』は福島さんとの距離感をゼロにして作りましたから。

僕がふだん仕事にしているテレビドキュメンタリーでは、客観的なナレーションをあてたり時代背景の説明を入れたりして、ある程度の距離感を保ちながら取材対象を描きます。『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』の制作中は、その距離感をどうするかにいちばん悩みました。

福島さんが話す言葉はどれもが強い主張、メッセージです。中立性が重んじられる世の中では、なかなか万人は受け入れ難い考え方、表現ですよね。生半可な客観性は通用しない。だったら逆に距離感をとらず“福島菊次郎の一人称”でいこうと。そう腹を決めるまでに時間がかかりました。

 

― それは撮影中ですか、編集に入ってからですか。

 

長谷川 はっきり決めたのは編集中です。ただ、福島さんの家に通って撮影している間から、撮影の山崎裕とそういう方向性に向けた話はしていました。

何年何月、こういう激しい時代の動きがあったと説明した上で福島さんの写真をバンッと見せるのがオーソドックスな作り方です。それを今回はやめようじゃないかと。

簡単に語り切れるものではないし、その時に生きてきた人の数だけの時代、見てきた戦後がある。説明ナレーションを中途半端に入れるよりは、福島菊次郎がレンズを通して見てきた日本の戦後を、そのまま見る人に追体験してもらおう。初期の段階から山崎やスタッフとそう話し合っていたんです。

その上で、大量に撮れた貴重なものをどう構成していくか、編集に入った段階でもかなり議論を重ねました。

編集の吉岡雅春さんは、NHKスペシャルやETV特集、映画では『延安の娘』などを数々手掛けてきたトップレベルの名手です。取材対象者とどういう距離感を持ちながら表現していくか、一番バランスが求められるポジションの第一線で長年闘ってこられた人です。この吉岡さんに「今回は距離感ゼロだな。それで勝負してみようか」と言われました。それで本当に腹が決まったんです。

だから作り手の存在を意識することなく、福島菊次郎という存在や写真に直に触れて直撃される。そういう感想をもらえるのが一番嬉しいです。

今回の福島さんと僕の距離感は、いうなれば「書生」です(笑)。

原一男監督や田原総一朗さんのように、相手を挑発して化学反応を引き出す、能動的に取材対象者と関わることで自分を表現するドキュメンタリーの作り方がありますが、今回は最初からそれは考えませんでした。到底敵う人ではありませんし。

でも、それが結果的には良かったと自分では思っているんですよ。福島さんが生きてきた時代を当然リアルタイムで知りませんから、そのぶん「ほんとにそんな時代があったんですか」と福島さんの話を素直に聞ける。ドキュメンタリーをやっている人間として、福島さんの仕事を前からリスペクトしていましたしね。

「福島菊次郎をそのまま出しているだけ、と言われてもいいじゃないか。なぜなら長谷川が今この時代に福島菊次郎を取材相手に選んだ、それが最大の表現でありメッセージなんだから。自信を持て。ヘンに作り手の意志云々を考えてブレる必要は無い」 これは山崎から言われたことです。

 

                                                                                        ©2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会

 ― 現在の福島さんを撮りながら、戦後の歩みを語ってもらう展開。90歳の静かな日常と数々の写真が対置されていく構成です。撮りながら、どれも重たい熱をはらんだ写真の数々に現在の部分が対峙できず、負けてしまうのでは。そんな不安を持つことはありませんでしたか。

 

長谷川 いえ、それは思いませんでしたよ。福島さんはいつも穏やかでしたけれど、映画を見てもらえれば分かるように、戦後を語る時の表情はとても魅力的で豊かです。そして、時にキッと鋭い、こっちに挑みかかるような目線になる。このバストショットだけで充分に見せられるな、と確信していました。

むしろ、福島さんのほうが心配していたぐらいです。自分が座って話しているところばかり撮って、本当に作品になるのかって(笑)。そのたび、「大丈夫です」と答えました。

 

― 監督は何年生まれですか?

 

長谷川 1970年です。福島さんがそろそろ日本のマスメディアに絶望し始めた頃に生まれて(笑)、繁栄を謳歌した時代に育ったわけです。

僕の世代から見ると、福島さんが闘ってきた時代の日本人ってかっこいいんですよ。三里塚の人達のように、時代に対して怒りの声を上げていた姿を見ると、とにかく打たれます。涙が出そうになります。その感覚は、団塊世代の先輩方とはまた違うものでしょうね。戦後の傷跡をブルドーザーが排除して、なにごとも無かったように綺麗にした後に生まれた世代ですから、福島さんが撮ってきた日本人の姿、闘っているさまを、素直に受け入れて凄いと感じます。だからこそ映画にして残さなきゃいけないなと。

 

― 監督と年齢が近いから聞くのですが、時代と切り結んで生きた凄さ、あこがれに近い気持ちは、コンプレックスにもつながりませんか? それこそ我々は若い時、団塊の先輩に「おまえらはのっぺらぼうだ」なんて頭ごなしに言われた世代でしょう。

 

長谷川 確かに「俺たちは闘ってきた。それに比べてお前らは」的な言われ方には、僕も思うところがありましたが(笑)、福島さんの話を素直に聞けたのは、そういうものとは語り方が違うんでしょうね。

福島さんは60年代の学生運動で闘った若者に共感し、「尊敬する」とおっしゃっていたんですよ。戦時中に自分は国策に命じられるままに生きてきたけど、彼らは闘ったと。

福島さんの戦後はいろいろな人と出会い、いろいろなものを貰うことでカメラマンとして成長していったあゆみです。息子のような世代がやっている学生運動も、福島さんにとっては皮相ではなくて生きた学校のひとつだったんですよ。学生運動に限らず、闘っている人達になにか根源的なものを共通して見ていたんじゃないですかね。

福島さんのほうが、言葉自体が素直で強い。そこはストンと落ちてきました。

 

 

 

テレビは出会ってもらう、映画は考えてもらう

― 感想を、まとめて言わせてください。

福島さんが学生への講義(DAYS JAPANフォトジャーナリスト学校)に向かう冒頭、2度目に見て気付いたのですが、福島さんをおぶってビルの階段を上る男性は監督ですね。

取材対象者を監督が背負う姿をまず見せ、この映画はそういう敬意をもって福島さんを紹介すると示す、ユニークなアヴァンです。

その後は、監督のOFF(フレーム外の声)さえほとんど聞こえないのに、タイトルになった「ニッポンの嘘」という言葉を福島さん自身から引き出した対話だけは、監督のやや挑発した質問の音声を活かしている。

作り手の存在を消していく作りでありつつ、実はみごとに関係劇の構造です。

 

長谷川 そうなっていると僕も気付いたのは、やりながらですね。編集バージョンでいうと20回ぐらい、何度も編集しましたから。最初は5時間で、それを刈込んでいって。2011年3月11日以降は追加撮影をしてまた変えて、の繰り返しでした。

冒頭、福島さんを僕が背負い、階段を上がってジャーナリスト志望者の講義の場まで運ぶ場面は、期せずして自分の立ち位置を表わすことができました。初見では、これだけバリバリに現役でもさすがに高齢だから、という印象が強いと思いますが、僕等スタッフの気持ちとしては、これから福島菊次郎を若い人達に届けさせてもらう、という想いです。階段をのぼっていく姿は、他にも節目節目で見せたかったです。福島さんの生き方を象徴しているのではないかと。

それに冒頭は、僕の顔が出る手前でカット可能なのですが、出しておきたかった。『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』は内容が過激だからです。“福島菊次郎の一人称”でいくぶん、福島さんだけを矢面にさらして自分は安全地帯に逃げていることになったら申し訳ない。自己満足かもしれないけど、自分の納得として顔をさらしておきたかったんです。

 自分のOFFに関しては、話を聞いている時にかなり入れた合いの手をことごとく潰しています。テレビでは制作者はあまり前面に出ません。視聴者にその人や時代、瞬間に直接出会ってもらうものだという意識が骨の髄まで染み込んでいますから、基本的には入れません。

ただ、「ニッポンの嘘」という言葉で福島さんが信念を語る場面だけは、凄みをさらに引き出したいために、見る人に申し訳ないなと思いつつ自分の問い掛けを残しました。福島さんの気持ちは分かっているけど、あえて問いかけた。福島さん自身の口から聞きたかったからです。

 福島さんの話が多少聞き取りにくい場合もテロップを入れていない。ナレーションは(俳優・大杉漣による)福島さんの自著の朗読に絞っている。これも同様に、テレビでふだんやっている手法は、ギリギリまで抑えました。

「ガイアの夜明け」など、多くのビジネスマンの方に見てもらうプライムタイム、視聴率激戦区の番組で演出させて頂いてきたので、テロップによるコメントフォローをいかに丁寧にして、お伝えするかは、かなり勉強させてもらっています。

でも、福島さんの話しぶりは味があるし、魅力的なんですよね。何より、福島さんの表情にテロップを入れるのが失礼な気がして。映画なら絶対にコメントフォローしなくても伝わる、そこは観客となってくれる方を信じよう、と考えました。

 映画を見る人は、暗闇のなかで画面に映るものと出会っていろいろなものを想像するでしょう。その想像力に委ねたい。

福島菊次郎の戦後と出会ってなにを感じるかが面白いので、こちらの解釈から逸脱するようなものを受け取ってくれたらいいなあ、と願っています。

 

― それでもベースとなっているのは、テレビでやってきた経験ですか。

 

長谷川 はい。今回はドキュメンタリー映画だからドキュメンタリー映画の枠で、ではなく、劇映画が他にもあるなかでこの映画を選んでくれたひとに、絶対に2時間楽しんでもらうぞと。そういう気持ちで、今までテレビの現場で培ってきたものを総動員しました。スタッフもテレビドキュメンタリーを作ってきた人間が集まっていますから。

見る人にどうやって福島菊次郎の戦後と向き合ってもらうか。どれぐらいの時間までなら、写真を集中して、飽きずに見て頂けるのか。写真と日常を対置する構成に関しては、編集マンとかなり試行錯誤しました。

写真はもっとじっくり見ることができたかもしれない。答えはありませんが、2年間の編集期間で、最終的に現在のイン点とアウト点になりました。

 取材対象者との付き合い方は、テレビでも映画でも、僕のなかでは全く変わらないですし、変えられないですね。違ったのは、アウトプットして表現する時の意識です。

そこは映画も多く経験している山崎に「観客の想像力を信じろ。考えてもらえばいいんだよ」とアドバイスを貰いながら、でした。僕は安保闘争や学生運動について、時代背景をもっと説明したくなるんですよ。でも、「ああいう表情で闘った若者達がいる。それが心に残った人は、自分で調べ出す。映画はそこが面白いんだよ」と。

テレビをやっていて秒単位の感覚が染みついていますから、僕が「このワンカット、長いけど……」と早めにアウトしたくなると、「もっと見たいし、見れる。信じろ」。山崎や先輩方に言われながら学びましたね。ああそうか、映画は観客を信じることなんだなって。

 

― テレビはフォーマットや枠が大前提で、そのパッケージにドキュメント要素を落とし込んでいく作りです。映画とのアウトプットの違いは、体質が変わるぐらいに大きいでしょう。

 

長谷川 『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』では確かに、フォーマットのないところで形にする産みの苦しみはメチャメチャありましたね。今までにあまり無いタイプのドキュメンタリー作品にしたいと望んでいましたから。

最初に漠然と構想したのは、福島さんの写真と話だけの、シンプルな作りだったんです。でも福島さんは現在形で、昔を振り返るところに留まっていてくれない。僕らに半生を語る時間とは別の、老いと向き合いつつ前を見ている素敵な姿がある。これは入れたいな、などいろいろなことを考えて、今の形になりました。

答えになっているかどうか分かりませんが、大変な分やりがいがありましたし、楽しかったですよ。

 もちろんテレビにも映画とはまた違う、たまたまチャンネルを合わせたら出会ってしまう、という豊かさがあります。僕の中では映画とどっちが上かという気持ちは全くありません。両方で培ったものをフィードバックしあって、自分にとってのドキュメンタリーになればいいと思っています。

 

カメラマン 山崎裕は「距離感の天才」

― 『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』の、もうひとつドキッとした場面を。ずっと寄り添うように関係劇を醸成していたカメラが、ある重要な場面、福島さんがひとりで階段を下りる場面で、一緒に下りずに……、

 

長谷川 止まりますよね。

ドキュメンタリーっておそらくああいう風に、引ける関係になれるかどうかです。引き絵が撮れるようにまでなれるかどうか、じゃないですか。

カメラが引く、近寄れないということは、相手に対する畏怖です。僕等は取材対象者の現実に何も関われないけれど、その現実の中で耐えている姿を、ある種の畏怖を持って見つめる。それが役割だと思っています。

 

― 山崎裕さんの撮影で、僕が個人的に印象深いのは是枝裕和監督『大丈夫であるように -Cocco 終わらない旅-』(08)です。ずっとCoccoに密着していたカメラが、やはり重要な場面でトーンと廊下の端まで引いたのが鮮烈でした。

 

長谷川 福島さんとの距離感はゼロ、と制作の態度として申し上げましたが、映画としては、山崎のカメラによってあるべき距離感が生まれたと思います。

日常を撮る場合でも、常に山崎はカメラポジションを気にしていました。現在独居している福島さんのさびしさ、孤独、しかし老いてもなお誇り高くある姿を表現したい。そのために、インタビューするたびに微妙に位置を変えていましたから。被写体深度を狭くして背景をボカすようなことを、会話の内容によって絶妙に使い分けるんです。

 

取材対象者に迫りたい、迫れると思ったときに近づいたり、これ以上はまだ私たちはあなたに近寄れない、心に踏み込めない、というときに離れたり。それが、我々がよく言う距離感です。山崎裕はその「距離感の天才」だと思っています。その場の取材対象者の感情をくみ取り、正しいポジションにいる能力は、生まれついてのものでしょうね。

近づいたり離れたりの判断は、人間性や人生観が出るものです。テクニックよりも人に対する気持ちが勝ります。

 その距離感が顕著なのは終盤、福島さんが福島県に行ったシークエンスだと思います。

例を挙げれば、墓石を撮っている福島さんの背中だけを見る。「フクシマ」ではなく、「フクシマを撮りに行き、フクシマと出会った福島菊次郎」を撮っている。カメラにはずいぶん助けられました。

 山崎とは駆け出しの時に1本、『ザ・スクープ~1999 釜ヶ崎、無情~』という番組で組ませてもらって以来です。2人で釜ヶ崎のドヤに住み込みながら撮ったんですよ。

現場では山崎さんという大先輩を信じていますから、ポジションを僕から指定は一切していません。それより、なにを撮るのかをよく話し合いました。

福島さんに自分の戦後を語ってもらう撮影が終わった後は、居酒屋で“山崎裕が見てきた戦後”が始まるんです(笑)。それはすごく面白かったし、スタッフも交えて自分の戦後観を互いにぶつけ合いました。なぜオレたちは今、福島さんを撮るのか。福島さんが撮った時代にどう向き合うのか。意思統一のためのディスカッションは何度もやりました。こっちの戦後がないと、福島さんと対峙できませんから。

 

― 後半、福島さんが1982年からしばらく住んだ無人島を再訪する。いったんメディアから離れて女性と暮らした日々を振り返る、あのシークエンスだけ福島さんがセンチメンタルです。島に行くよう監督から働きかけたのですか。

 

長谷川 人間味が出ていていいですよね、あの時の福島さんは。紗英子さんという女性と別れて、すぐ後悔してしまう。

福島さんの人生を知りたいとストレートに思っていたら、あの無人島に当然ぶつかる。まずは僕が見に行っておきたくなったんです。でもどこにあるのかよく分からない。なにしろ無人島だから(笑)。それで、ご負担じゃなければ案内してもらえますかと聞いてみたんです。

僕らは福島さんが住んでいた家、福島さんが見た海を撮りたかっただけですが、福島さんも「行きたい。(亡くなった紗英子さんに)献花しておきたいから連れて行ってくれ」と。こっちが仕掛けたというより、お互いの希望が合致して生まれたシークエンスです。

 福島さんの人生は今までいろいろと紹介されていますが、紗英子さんの存在はあまり出てこなかった。福島菊次郎を「反骨の報道写真家」という文脈で語ろうとしたら、あの恋愛は入れにくいのだろうと思います。理解はとてもできるんです。僕ももしもテレビなら、省こうと考えたかもしれません。

すぐに呑みこみにくい、はみ出した要素なんですよ。時代と闘ってきた孤高のカメラマンがカメラを捨てて無人島へ。でも実は(奥さんと別れた後ですが)女性が一緒だった、となると、なんなんだとなっちゃうでしょう(笑)。

でも、そこが面白いんですよね。東京とマスメディアに絶望したと言う一方、その東京で紗英子さんのような若くてきれいな女性が近くにいた。近寄り難いようなイメージを外されて、人間くさいなあと。それも福島さんの魅力のうちですからね。

そして福島さんは自著で、報道写真家としての信念と矜持ゆえに紗英子さんと別れることになったといきさつを書いてある(映画でも朗読されます)。自分の筋を通したという話ですから、これなら、福島さんのブレない生きざまとして組み込めると思いました。

 

©2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会

 

凄い人と出会って揺さぶられたい

― ここでいったん、監督のプロフィールを。キャリアの最初は円谷プロダクションの特撮スタッフで、96年から制作プロダクションのドキュメンタリージャパンへ。異色のプロフィールです。

 

長谷川 よく言われます。もともとはフィクションが好きでした。まあ、ドキュメンタリーを意識するという発想は、子どもの時にはあまり無いですよね(笑)。円谷プロに入ったのは、直接的には大学時代に制作のアルバイトをしてかわいがってもらった縁からです。

特撮マニアでは無かったけれど、特撮のように夢の世界をつくる人たちへのあこがれはありました。虚構を一から創ることでは、フィクションのなかでも一番とんがった場所じゃないかと。実相時昭雄監督の本やTBSドラマ『ウルトラマンを作った男たち』(89)を読んだり見たりして、かっこいいなあと思っていました。

第一制作部の制作進行に配属されて、弁当の手配やセットの掃除から始めました。なにも無いところから、監督や特撮監督のイメージに向かって職人達がひとつひとつ作り上げていく。その面白さにはハマりました。

一方でたまたま見たドキュメンタリーが、すごく面白かった。それがドキュメンタリージャパン制作の番組でした。台本も無しに現実や人と出会いながら作っていき、作っている自分の心が揺さぶられることが表現になる世界なんだろうな、と素人ながらに感じ、そういう体験もしてみたいと思ったんです。他に見て良かった番組も、エンドロールにドキュメンタリージャパンの名前がでてくることが多かった。ここに飛び込んだら面白いことがあるんじゃないかと、手紙を出したり企画書を送ったりして、リサーチから使ってもらうことになったんです。

 

― 特撮からドキュメンタリーへ。両極端なジャンルに飛び込んだようですが、自分のなかではつながっていた、必然性みたいなものはなんでしょう。

 

長谷川 そうだなあ……。僕は、考えるのが好きなんでしょうね。自分の理解不能なものと出会った時に、これは一体どういうことなんだろうと考えることが。

ドキュメンタリーなら、そういう現実や人と出会い、こういうことかもしれない、いやこうかも、と考え、だったらいつもと違う時間に会いに行ってみようとか、探っていきながら自分なりに発見していくプロセスが好きなんだと思います。

 

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』だと、福島菊次郎の戦後ってなんなのか、この人が生涯をかけて撮ろうとしたものはなんだったのか。漠然とした問いや仮説が自分にあるんです。それを知りたいから会いに行くんですね。ドキュメンタリーをやっている方はみなさんそうでしょうけど。

そうやって自分が揺れ動いていくさまが映像になる。とてつもなく面白いことだと思います。

 

― 一方でドキュメンタリーには、作り手が確固たる思想を持って対象とぶつかり、切り結ぶ作り方もあります。

 

長谷川 僕はおそらく、そういう作り方はできないですね。まだ何者でもない、と本心から思っているから。

だから福島さんと出会い、撮ることができたんだとも思っています。凄い生き方をしてきた人に会いたい。会って何かを貰いたい。そして貰ったものを見てくれる人に届けたい、に尽きますね。強烈な作家性みたいなものは、多分僕の中には無いんじゃないかな。

でも、それが強みでもあります。何者でもないから、凄い現実や人に引きつけられる自分がいる。そういう揺さぶられる対象と出会って、ちっぽけな自分を壊したいのかもしれません。

 

― 少しイジワルな聞き方になりますが、本当に内面に核のない人が凄い人に取材すれば、多くは距離感ゼロどころか心酔の関係になります。監督は福島さんに惚れ込みつつも、その惚れた相手をどう見せるか常に引いて考えていたわけでしょう。

 

長谷川 うーん……。自分から認めるのは申し訳ない気がしますが、そういう生き物ですよね、ドキュメンタリーのディレクターは。ハートは熱くなきゃいけないんだけど、どこかでクールな部分を保ち、人に見せるかたちにすることを考えなきゃいけない。テレビをやっていくなかで、徹底的に鍛えられた部分です。

クセみたいなものですよね。人と出会っていても、これはどういうことかな、と常に仮説を立て解釈しようとしている自分がいる。でも、やはりその上で人と熱く接し、惚れ込めるハートが無いとダメだと思っていますよ。

出会った人のことを好きになれるように育ててくれた両親には、感謝していますね。父は教師で、母は保育園の先生をしていました。世の中は捨てたもんじゃないぞ、という両親の考え方が根っこで沁みついていますから。だから僕の場合は、取材対象者を好きになる、または、なろうとして懐に飛び込むところから始めます。

 ただ、懐に飛び込みたくても飛び込めない人は過去にいましたよ(笑)。それは僕の器の問題だと思っています。好きな人だけ撮りたいというのは、ドキュメンタリーを作る人間としてはちょっと幅が狭い気がします。じゃあ誰でもオッケーなドキュメンタリストはいるかと言えば、それもいないんじゃないですかね。逆にその人自身がないってことになる。苦手だと思っている人を撮っていたら自分の表情もそんなに明るくはないし、それはカメラに確実に出ますから。

だから、この人のいいな、と思える部分を見つける。そこは大事にしています。そのためには自分がもっと豊かになって幅を持たないと、ですね。

 

 

ヒロシマからフクシマへ

― 『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』の話に戻ります。制作プロダクションのドキュメンタリージャパンが製作。もともと番組の企画として立ち上がったのですか。

 

長谷川 それが、うちでは今まで例のないケースなんです。2009年に、まずプロデューサーの橋本佳子と一緒に福島さんに話を聞きに行ったのが最初です。とにかく一度お会いしておきたいというだけの理由でした。

そこですぐに、この人が語る戦後は証言として残さなくちゃいけないなと感じました。帰りの新幹線の車中では、もう橋本と「これはやらなきゃね」と誓い合い、出先をどうするか全く決まらないまま撮影をスタートさせた。だから、ドキュメンタリージャパンの自主製作だったんですよ。

ただ、福島さんの生き方、伝えたかったことを、制約を加えずに表わすには、テレビは難しいかな、とは正直、当初から思っていました。

これは一概にテレビだから無理だという話ではありません。テレビでもタブーに挑戦している作り手の方はいますし、番組があります。

しかし、テレビでやる場合は、プロデューサーをはじめ局側の方も一緒に作り、共有するスタッフとなります。苦労も共有してもらうことになるわけですから、その人が受け止めるリスクも考えなくてはいけない。我々の自主製作で始めたものですから、リスクや責任は我々だけで受け止めたかった。

なので、テレビはダメというより、映画がいい、ということです。出先を決めずに作りながら、そういう結論になりました。

 

― 取材対象者を好きになる、好きなひとを撮る、という監督の“流儀”。福島さんとも、最初からそうでしたか。

 

長谷川 そうです。会った時から人柄に魅かれて、この人と付き合いたい、一緒に時間を過ごしたいと思いました。

もちろん写真は凄いんですけど、究極的にはそれを撮った福島菊次郎が凄い。この存在感は絶対に多くのひとを引き付けるはずだという予感は、すぐにありました。僕はその嗅覚だけで生きているようなものですから。出会った時に感じるファーストインプレッションは、すごく大事にしています。

福島さんは魅力的ですよ。男っぽくて、色気があるんですよ。男の僕から見ても。

 

― 福島さんからも、すぐに信頼を?

 

長谷川 初日の撮影が勝負だと思っていました。我々がどこでどう回すか、福島さんは絶対に見ているから。

福島さんはいったん話し出すと2時間、3時間を一気に、だったのですが、山崎はその間、手持ちのカメラを一度も落としませんでした。こういう姿勢で我々はあなたに向き合いますよ、と撮影の姿で示した。そしたら、合鍵を渡されたんです。

でも合鍵をくれて、いつでも入ってきていい、なんでも撮ってもいい、というのはかなりプレッシャーでもありましたよ(笑)。あれは福島さんなりの挑発だったと思います。

 

― 撮影中から、スタッフと何度もディスカッションを重ねた。編集も相当に時間をかけ、テレビと映画のアウトプットの違いを学んだ。そのなかで、具体的にここの扱いに最も苦労した、脳みそが溶けそうになるぐらいだった、というところは。

 

長谷川 ……広島ですね。広島が、深かった。

福島さんは、1951年から中村杉松さんという広島の原爆症患者を10年にわたって撮影し、写真集「ピカドン ある原爆被災者の記録」が高く評価されたのを機にプロのカメラマンになりました。福島さんの報道写真家としての出発点であり、社会のよどみや矛盾に告発の眼を向ける戦後の生き方の原点でもあります。

だから、ものすごく重い、劇薬なんですよ。福島さんに戦後を語ってもらったら当然、「撮って俺の仇をとってくれ」と杉松さんが求め、福島さんが10年にわたって応えた関係と「ピカドン」がアタマになる。しかし、こんなに烈しい、重いものから始まって、見る人が付いてきてくれるかな。それが一番心配でした。テレビではいかに前半の構成で開放感やワクワクを味わってもらうかでやっていますから。

 「ピカドン」は、今は見るチャンスのない、そのぶん衝撃度の高い作品ですし、福島さん自身も途中で精神に変調をきたすほどだった暗黒時代の記録です。でも、戦後間もない時の被爆者の姿、今ではすっかり見えにくくなったヒロシマに付き合ってもらえないと、福島菊次郎と出会ってもらうことにもならない。

付き合ってもらえるようになるために、どうやって構成していくかに悩みましたね。何回つなげても「重いなあ……」「でもがんばろう、もうちょっと……」。先ほど話した、山崎や先輩方に「映画を信じろ」と言われたのは、特にここです。「ピカドン」のシークエンスが終わって、現在の福島さんが犬を連れて散歩に出かける姿になる。この塩梅が見えて、ようやくでしたね。

試写では「広島のあたりからのめりこんで見た」という感想を多く頂けて、ああ、そうかこれが映画なのかと。今までやってきたテレビドキュメンタリーとは全く違う世界を自分なりに作れたんだな、と少し安心することができました。

 「ピカドン」で苦しんだ後、福島さんはまさに疾走するように戦後を撮り続け、3.11後の福島県を訪ねることになります。

ヒロシマからフクシマへ。これは福島さんにとってすごく、ものすごく無念なことです。その福島さんの姿に、僕自身、かなり突きつけられるものがありました。だから僕も作り手として、多くの人に、福島さんの姿に突きつめられてほしい、メッセージを受け止めてほしいと願っています。

 

                                                                           ©2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会
 

公開情報

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』

(2012年 日本 デジタル 114分)

監督:長谷川三郎 朗読:大杉漣 撮影:山崎裕 録音:富野舞 編集:吉岡雅春

スチール:那須圭子 プロデューサー:橋本佳子・山崎裕

製作:Documentary Japan,104 co ltd

配給:ビターズエンド

 8月4日(土)より、銀座シネパトス、新宿K’s cinema、広島八丁座ほか全国順次ロードショー!

公式サイト http://bitters.co.jp/nipponnouso/

監督プロフィール

長谷川三郎 はせがわ・さぶろう

1970年生まれ。法政大学卒業後、円谷プロダクション入社。ドラマ、CMなどの特撮スタッフとして制作に関わる。1996年ドキュメンタリージャパン参加。「TIME OF LIFE・青春~右翼青年22歳~」の演出でデビュー。以降、NHKや民放を舞台にディレクターとして活躍。

「ザ・スクープ~1999釜ヶ崎、無情~」「真剣10代しゃべり場」「課外授業ようこそ先輩」「素敵な宇宙船地球号」「ガイアの夜明け」「NNNドキュメント’05~ゲームのなかの戦争~」「NONFIXシリーズ憲法~第24条・男女平等『僕たちの“男女平等”』」「ザ・ノンフィクション~弁護士たちの街角シリーズ~」「旅のチカラ~医師ゲバラの夢を追う~」など、ドキュメンタリー番組を多数演出している。