【Review】映画と現実の間の裂け目を歩く-ソ・ヒョンソク『From the Sea』(後編)text 夏目深雪

『From the Sea』©青木司

映画と現実の間の裂け目を歩く-ソ・ヒョンソク『From the Sea』(後編)
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映画の自動性

『タツノオトシゴ』(1934年)や『ミジンコ』(1929年)といった科学映画のパイオニアである映画作家パンルヴェを扱うにあたって、三浦はまず「映画は世界の認識を変える」という、リュミエール兄弟が1895年にシネマトグラフを公開して以来、フランスで囁かれていた命題を挙げる。そして黎明期に実際に人々に与えた反応を拾うとともに、パンルヴェの作品を解析していく。小さな海中動物がまるでスカートをはためかせながら一斉に群舞するかのようだという『アセラ、あるいは魔術師たちの舞踏会』(1972年)など、パンルヴェの作品は記述だけ読んでも充分にそそられる。三浦はパンルヴェの作品の面白さや脅威は「「不可視」であったものが新しい技術によって「可視化」され、人間のまなざしのもとに届けられる」(『映画とは何か フランス映画思想史』37頁)発見の営みに存在すると述べる。新しい技術の可視化とは、一言で言って「尺度の調整」ということである。人間の身体という尺度によって規定されていた「見えるものの範囲」を、拡大したり縮小したりして見えるようにすること。しかも見られる状態にあるものは運動状態にあったままで。映画の新しさはここにあった、と三浦は述べる。「映画が映し出す極小の世界または極大の世界は、ひるがえって、人間の視覚の相対性と有限性を示す。」(同41頁)

さらに、空間的な尺度の変化よりも観客に驚きを与えたものがあった。時間的な尺度の変化、つまりスローモーションとクイックモーションの使用である。10分足らずの『宇宙旅行』(1937年)という作品はミニチュアと特殊効果、そしとスーパークイックモーションによって宇宙の運動を可視化した作品だという。天動説時代の人間中心の宇宙観が科学的知見によって相対化されるコペルニクス的転回を可視化したというこの作品で、パンルヴェ自身のナレーションによって述べられたことを三浦は以下のように要約する。「映画認識もまた同様にコペルニクス的と呼ぶべき認識上の革命であるということだった。宇宙の中心が地球でないのと同様に、見えるものの中心も、必ずしも人間の身体ではない」(同43頁)

パンルヴェが映画で行う空間的・時間的な尺度の調整は、視覚を人間の身体という尺度から解放させ、無生物、植物、動物といったカテゴリーすらも動揺させる。科学映画のみならず、人形を主題にしたフィクションにも執心したというパンルヴェ映画の「自動性」とは何か。それは以下のように言えるだろう。「認識の尺度を様々な意味で相対化し尽くした先で、これ以上、ほかの何ものにも還元できぬ純粋な「自動運動」が見出される。(中略)なにより「意識」に依存しないという意味においてそれは「自動的」であり、したがって非人称的で、主観でも客観でもなく――あるいはどちらでもありえ、生物も無生物も構成することができる」(同48頁)

パンルヴェの映画が観客に与えた驚きを想像する時、私は『From the Sea』にてゴーグルをつけ、初めて黄色く塗られた長方形のガラス越しに品川の商店街を見た時の驚きを想起する。また、歩行中閉じられていたゴーグルの蓋が開けられ、川の美観が目の前に現れた時の驚きも対比させることができる。もちろんパンルヴェの映画のように、尺度が自在に変えられ、スローモーションやクイックモーションによって動きが早まったり遅くなったりするわけではない。だが、私が息を呑んだのは、むしろ「そうならない」ことによってだったのではないか。川のショットがクローズアップやロングショットにならないことに驚いたのではないか。そこには確かに「映画の残像」があった。私たちは、私たちの視覚が既に映画によって浸食され、変化してしまっていることを思い知らされたのではないだろうか。

三浦哲哉著『映画とは何か』  (筑摩書房)

続いて三浦が取り上げるのは、ヌーヴェル・ヴァーグの核となった映画批評家、アンドレ・バザンである。三浦は、バザンのリアリズム論を再考するために、バザンが映画をめぐる思索を開始した40年代の影響関係に遡り、彼のイメージ論が前提とする概念を今一度捉え直す。

三浦はこうまとめる。「バザンは、人間の手を介さずにイメージをかたどる、その自動転写能力という一点に賭けることで、映画を『空間の美術館』からも『想像力の問題』からも異なる何かとして捉えようとした。すなわち、自動転写能力によって「想像的なもの」は自律する。自律とは、「主観性」や「意識」からの自律のことである」(傍点をゴチックに変更、同82頁)


そして、この問題の最も重要な分野の一つが俳優論であるとし、バザンが、現代のスターはオイディプスらと同列の神話的存在であるという着想で書いたという俳優論に着目する。俳優論においても、フィルムという自動記憶装置の力によって、例えばチャップリンが「ただ単にそれ自体として成立している」と、その自律性が強調されている。バザンが映画に見たのは、「「神話的イメージ」が映画において「自動性」を帯び、「現実」から自律するという途方もない事態だったのではないか」(同14頁)と三浦は問いかける。

アンドレ・バザンの俳優論については、『From the Sea』で最初に連れて行かれた小部屋での、パートナーとの出逢いのシーンを対比させることができる。ベッドの脇の椅子に座らされて、ゴーグルの蓋が閉まり、視界が塞がれた。しばらく経ち、ゴーグルの蓋が開けられると、今まで誰もいなかったベッドに男性が横たわっていた。彼はしばらく寝ていたあと寝返りをうち、目を開け、私と目を合わせた。そして起き上がって、私に語りかけた。「あなたですね…また…変な夢です。夢であなたと…別れました。私は…離れなければならなかったのです。もしくは…離れていくのはあなただったのでしょうか? 涙のしずくのようなものが…川に落ちました。」(※5)

今書いていてもおかしな気分になってくるが、これでパートナーに恋愛感情を持つなという方が無理であろう。ゴーグルの蓋を開けるとそこに寝ている、というのがまず強烈だし、寝顔と寝姿をしばらく見ることは明らかに映画の持つ強い快楽の一つである「窃視」と重なるであろう。そして彼は、明らかに「私」と目を合わせ、「私」に語りかけた。不特定多数の観客がいる演劇で、このような仕掛けはむしろ「客いじり」のようなお遊びとして行われる以外は、「演劇的空間」を損なわないために避けられるものであろう。

その俳優然とした佇まいや芝居じみた言い回しから、彼が「俳優」であることは明らかである。バザンが主張するように現代において神話と化している「俳優」が、私だけに私的なことをまるで旧来の友人のように語りかけてくるのだ。キャサリン・ヘップバーンが、ケイリ―・グラントがスクリーンから出てきてくれないかと願った映画ファンにとっては天にも昇る心地ではないだろうか。俳優を神話化させる演出はもうこの時点で完成していて、その「神話的イメージ」が演目の時間中ずっとよほどの失敗をしない限り消えることはない。バザンの「「神話的イメージ」が映画において「自動性」を帯び、「現実」から自律する」というのも確かに途方もないビジョンだが、この演目で起きているのは、現実の人間が「神話的イメージ」になり、現実の街を「私と」歩く、という、もっととんでもない事態だったのではないか。

▼page2 映画の秘蹟 に続く