映画の秘蹟
続いて登場するのは映画作家ロベール・ブレッソンだ。その孤高の美学とでも言える作風が日本でも映画ファンを中心に人気が高く、著作『シネマトグラフ覚書――映画監督の覚書』(筑摩書房)が現在でも入手可能なので、4人の中では一番知名度があるかもしれない。特に彼の映画を観たことのある人にとっては、「自動性」といえば『スリ』(1959年)の、財布を掏る手のみがクローズアップになり、その「手の運動」の美しさにただ見惚れる、あの至福の経験が思い起こされることだろう。
プロの俳優を嫌い、素人俳優も二度使うことはほとんどなく、ショット毎に20から75回ものテイクを重ねたという彼の独特の手法も、前述の著作があることもあって有名な話である。プロの俳優を使わないのはスターたちが必然的に随伴させる「自己」の幻影のため、素人俳優を二度使わないのは観客の過去の役柄の幻影を見てしまうから。そのように徹底的に「自己」を排除し、さらに何テイクも重ねるのは俳優たちを身体的に憔悴させ、自動運動を引き出すためであった。そこまでであれば、彼の映画を観たことがある映画ファンであれば、知見があるか想像がつくことであろう。
三浦は彼の宗教性に着目し、パスカルの宗教的イメージ論を参照しながら、ブレッソン映画にもっと深いレベルで近づいていく。キーワードになるのは「自己放棄」と「可変性」だ。三浦は『罪の天使たち』(1943年)の、アンヌ=マリーとテレーズが宗教的な転回を経験するラストシーンを例にあげる。
上流階級出身のアンヌ=マリーは、人生に絶望した犯罪者のテレーズの魂を救済しようとするのだが、人間が人間を救うことの無理を知るに至る。ラストシーンで、疲労困憊から病床に伏したアンヌ=マリーの最後の願いを叶えてあげようと、修道院長はこの施設への正式な入会を許す。誓願の章句を唱え始めたアンヌ=マリーだが、力尽き、警察に追われていたが彼女を見捨てられず横で見守っていたテレーズに、自分の代わりに誓願して欲しいと頼む。テレーズが誓願の章句を唱え終わると、アンヌ=マリーは死に、テレーズは階下で待ち伏せていた警察に自らの手を差し出す。
三浦はこのラストシーンをこのように分析する。「見事なのは、一つの言葉(入会の誓願)が二つの肉体を通過するという出来事に絞り込んでこの場面が構成されていることである。頑なだったテレーズがはじめて他者の意志を受け入れたことを観客が納得するのは、アンヌ=マリーのものだった言葉が、いまやすすんで差し出された彼女の肉体の中へ入り、通過してゆくからにほかならない。自己を放棄して空になった身体のなかへ、外部からある別の感覚が入り込む。「自己放棄」によって、彼女たちはメディウム(媒体/霊媒)になるのだ」(同134頁)
三浦の解説するラストシーンを読んでいて、浮かんだのは『From the Sea』でのパートナーと自分の姿であった。「一つの言葉が二つの肉体を通過する」という一文以上に、その時の二人を的確に現しているものはない気がするのだ。二番目に連れて行かれたさびれた何もない部屋でパートナーがする話は、見た夢のこと、仲の良い友達が失踪したこと、幼少期に秘密基地で遊んだことなど、誰もが共有しやすいものがほとんどである。そして、喪失感を「ガラス」と名付けたこと、その最初の具体物が「自分が過失で足を折ってしまったガラス細工の鹿」であることが語られる。その後、パートナーは私の方に向き直って、「あなたにも「ガラス」がありますか?」と聞くのだ。
まともに答えなければ話は別だが、答えてしまった場合、観客とパートナーは「自己放棄」と「可変性」の相関関係に陥ることになる。その後もパートナーは進行表によって、観客は視覚の制限によって拘束され、「自己を放棄して空になった身体のなかへ、外部からある別の感覚が入り込む。「自己放棄」によって、彼女たちはメディウム(媒体/霊媒)になるのだ」と三浦が表現したことが起きる。
三浦はブレッソンにおいては宗教性と官能性はその本質において両立すると結論付ける。「ブレッソンの宗教性は、イメージの可変性をその条件とするからである。固定的な「自己」を捨て可変性を持ち得たとき、或るイメージは時間の中で在るがままに、他のイメージとの交換関係に入る。或る人間は、他者の身振りや声が個体性を超えてその身体の中を通過してゆく、そのような動的な場に置かれることになる。それは観念でなく、感覚に与えられるイメージの水準で起こる秘蹟なのである」(同136頁)
『From the Sea』で起こり得ることでもあることではないか。私の場合は起こったからこそ、まるで終わったあと、一本の良質な映画を観た後のように、胸が震えたのではないか。
映画なき世界で――結びにかえて
そして『From the Sea』の最も素晴らしくかつ重要な点は、映画の残像を響かせるにあたって、映画らしさの核とも言える「自動性」が失われなかったところであろう。現実の世界に「映画の自律性」のみが移植されたとでもいうべきか、その異様な「自動性」は私たちを驚嘆させるに十分である。視覚をゴーグルでコントロールし、タイミングを計り、観客に見せる風景。そこに見えるのはあくまで現実の川で、流れていて、その運動はクローズアップにされなくても、スローモーションにならなくても、十二分に美しい。その運動を、美しさを黄色いガラス越しに感じさせること。俳優を神話化させる演出を行うが、その神話的イメージはスクリーンの中のコントロールされた俳優ではなく、現実にそこにいる俳優に付帯するものなので、自ずと自動性と自律性を帯びることになる。神話的イメージと、実際に手をつながせること。体温を持ち、触れることができる神話。パートナーと観客の「自己放棄」と「可変性」の相関関係も、台本によってきっかけや流れを形づくられるだけで、あとは二人の個性や相性、そしてタイミングによって川の流れのように変化していくだろう。そこにも自動性と自律性は息づいている。実際に、自らが映画的な可変性を生きること。
ヒョンソクがこの演目で表現したかったのは、映画そのものでも、演劇そのものでもなく、その間にある裂け目であろう。見る風景が映画技法に浸食され、映画俳優の神話的イメージが自律する現代。一方で、良質の映画ではメディウム(媒体/霊媒)となった二人の身体を、一つの言葉が通過するイメージの秘蹟が起き、人びとの心を震わせる。それら「映画の残像」は、緻密な演出があれば映画という装置を使うことなく、「現実の世界」にも起こり得ることを、ヒョンソクは証明してしまった。映画が与えた社会への影響の甚大さはそこに現れている。
『映画とは何か フランス映画思想史』の最終章を飾るのは哲学者ジル・ドゥルーズである。三浦は冒頭で彼のことをこんな風に簡潔に紹介する。「彼の書物『シネマ』の核心には「自動性」の概念があり、またそれが現代社会においてなかば失われてしまった「世界への信」を再開させる力があるとドゥルーズは述べている。」(同15頁)
だが、映画だけが「世界への信」を再開させる扉なのであろうか。スクリーンの中でしかそれは起きず、スクリーンを眺めることによってしかわれわれは救われないのであろうか。もう現実では、秘蹟は起きないのであろうか。ヒョンソクはわれわれに「人々の感覚が時間の経過とともに変わってしまった」場所、うち捨てられたような場所を訪れさせ、過去と現在、映画と現実の境目を歩かせ、映画が作った裂け目を見せ、そう問うているように見える。
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『From the Sea』(品川区にて上演、2014年11月3日~7日)
コンセプト・演出:ソ・ヒョンソク
出演: 秋本ふせん、李そじん、内田悠一、大石英史、亀山浩史、木下毅人、木皮 成、北村美岬、佐藤 茜、高.o.k.a.崎 拓郎、千尋、富松 悠、野崎聡史、福田 毅、藤倉めぐみ、村上聡一、むらさきしゅう、八重尾 恵、弓井茉那
演出助手: 菅井新菜
共催: 国際交流基金(国際交流基金 東アジア共同制作シリーズ vol.2)
後援: 駐日韓国大使館 韓国文化院
協力:大井競馬場、立会川駅前通り繁栄会、株式会社相幸、酒井理髪店、急な坂スタジオ
製作・主催: フェスティバル/トーキョー
【執筆者プロフィール】
夏目深雪(なつめ・みゆき)
批評家、編集者。雑誌やWEB、書籍に映画評、劇評、インタビュー等を寄稿。共編書に『アジア映画の森 新世紀の映画地図』、『アジア映画で<世界>を見る 越境する映画、グローバルな文化』(ともに作品社)。「反スペクタクルに踊ろう/踊らなかったりしよう−『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』評」で2011年F/T劇評コンペ優秀賞受賞。