【Review】私たちはいかに「敵」と向きあうか―鎌仲ひとみ監督『小さき声のカノン』に寄せて text若林良

東日本大震災、またそれに端を発した東京電力福島第一原子力発電所事故をうけて、2015年3月現在に至るまで「原発」をテーマとした数々の映画が制作された。

たとえば、放射線の影響に焦点をあてた劇映画『おだやかな日常』(2012、内田伸輝)や『希望の国』(2012、園子温)、県外への自治体避難を題材としたドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』(第一部・第二部 2012~、舩橋淳)などがそれに該当する。これらの作品は映画としては玉石混淆あったものの、いずれも一定の注目を受け、「原発映画」はジャンルとしての確かな定着をみるようになった。

ただそれ以前に、原発を主題とした作品がなかったわけではない。事故以前にも原発に強い警鐘を鳴らした、『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985、森崎東)『東京原発』(2003、山川元)などの劇映画の秀作や力作、土本典昭の『原発切抜帖』(1982)など優れたドキュメンタリーは存在している。ただ、これらの作品は原発が容認されていた当時の日本において、「反原発」の方向に舵をとらせるような、社会的な訴求力は極めて限定されたものであった。原発を題材とした作品がひとつのジャンルとして前景化するのは、皮肉にも「原発安全神話」の虚偽性が明らかになった、3.11を経てからのことであったのである。

本稿で「原発映画」の系譜を詳細に説明することはできないが、鎌仲ひとみの新作『小さき声のカノン』を理解するうえで、こうした作品群の流れを踏まえることには確かな意義が存在する。なぜなら、鎌仲ひとみは原発事故以前から「核」の問題を追求しつづけてきたドキュメンタリー作家であり、近年の「観客に訴えかける」原発を主題とした映画の、まさに先駆的な存在と呼べる人物であるからだ。たとえば、『ヒバクシャ 世界の終わりに』でイラクに取材し、現在進行形としての「ヒバクシャ」を克明に描き出したこと、『六ヶ所村ラプソディー』で青森県六ヶ所村がかかえる核燃料再処理施設の問題を、賛成派・中立派・否定派それぞれの住民を登場させることで複合的に描き出したこと、『ミツバチの羽音と地球の回転』でスウェーデンのエネルギー事情に光をあて、核に頼らない「持続可能な社会」を観客に訴えかけたことなどは、震災を経た日本人にとって、卓越した先見性に満ちたものであった。また、観客の心理や行動に確かな影響をあたえうる「メディアとしての映画」を改めて考えるうえでも、その今後にとっての大きな里程標となる作品を鎌仲は制作しえたのだといえるだろう。

ただ原発事故を経たことで、その作品の持つ意味合いが微妙に変化を遂げたこともまた否定できない。これはソビエト連邦(現・ロシア)映画の『ストーカー』(1979、アンドレイ・タルコフスキー)が、チェルノブイリ後に「核時代の黙示録」といった形容を付与されたことともつながるもので、いわば「3.11の黙示録」といった刻印が、事故以前の鎌仲作品にあらたに刻まれることとなったのである。

2015年に発表された『小さき声のカノン』は、原発事故以前⇔以後という歴史的な分断が行われたことを受けて、以前の諸作品とは確かな変貌を遂げたテクストである。(2012年に発表された『内部被ばくを生き抜く』はDVD作品であるため、本稿では除外する)それはまず、作品における制作動機の変化にあるだろう。鎌仲はインタビューで、「原発が少なくなれば日本の核物質も減ると思って脱原発の映画を撮っていたけれど、福島で原発が爆発して大勢が被ばくしてしまった。ではこの放射能に汚染されてしまった世界の中で、どうやって子どもを守るか。そこで子どもを守るために動き出したお母さんたちを撮ることにした」(「ふぇみん」2015年3月5日号)と語っている。つまり、鎌仲の主眼は「原発を(未然に)阻止する」から、「どのように放射能の影響と向き合うか」へと明らかな移動をとげたのだ。ドキュメンタリーの同時代的な意義を考えるうえでは、これは自然な流れということができるが、では映画においては、この動機はどのように作用したのだろうか。

本作においては、日本とベラルーシの、ふたつの「被ばく国」における母親たちが登場する。彼女たちはそれぞれの言葉で放射能への危機感、子どもたちへの愛情、自分たちが現在できることについて語るが、監督としての鎌仲は基本的に、「彼女たちに寄り添う」立場にある。被写体となる母親たちには鎌仲が直接インタビューをおこなうのだが、その口調はやわらかで、ドキュメンタリー監督というよりも「近所の面倒見のいいおばちゃん」のようにすら感じられる。ときおり鎌仲自身が被写体として画面に登場することからも、彼女は一定の距離を保ちつつ客観的に問題をとらえることよりも、自身も被写体となる母親たちと同じ目線で考えるという、いっぽ間違えれば過度な感傷ともとられる手法をあえて選択したのだといえるだろう。結果的にはそれが功を奏し、この映画は以前の作品よりもさらに情愛に満ちた、あたたかみが強く感じられる作品となっている。

また、母親たちの保養―健康な体を取り戻すための地方での静養という選択が具体的に描かれることで、今後の子どもたちを守るための行動は、私たち観客には明確に見えてくる。「保養」という選択肢にはその効果への疑問視や、結果的に福島への差別につながりうるという意見も存在するものの、誰も放射能への「正しい」対処法がわからない現在にあえてひとつの選択肢を“信じる”姿勢をみせたことは、国民の主体性を喚起する契機に―国民一人ひとりが自身の問題として原発問題を考える、その確かなきっかけづくりになりえている。「プロパガンダにすぎない」という批判は恐らくはまぬがれえないものの、客観性を捨ててまで「子どもを守る」という目的を一貫させようとする鎌仲の姿勢は、映画人として「自分になにができるか」を問いつづける、まっすぐな倫理観がひしひしと感じられるものである。前述のように、ほとんど原発の危険性が表面化しなかった3.11以前から「核」を自身のテーマとしてきたことも含めて、この映画は「なぜ映画を撮るのか」という原初的な問いに対する、鎌仲の明確な回答ともなっている。なぜ作られなければならなかったのか、その存在意義を疑うような映画が氾濫した現在において、鎌仲がこうした姿勢を見せたことをこそ私は高く評価したい。グラフィックや字幕の多用がうみだしたわかりやすさからも、「子どもを守るための一助」としてのこの映画の意図は、少なくとも一定以上の成果をあげたといえるだろう。

しかし、この映画において「事故以後」という刻印があらたに定着したことと同時に、「事故以前」の鎌仲監督の特色が薄れてしまったこともまた事実である。それは“黙示録”がついに現実となってしまったことが招いた皮肉な結果でもあるのだが、これまで「反原発」という明確な社会への提言を持っていた鎌仲映画は、そうした立脚点をもはや見失ってしまっている。もちろん、母親たちの行動から原発に対する反対意識も生まれてくるには違いないが、それはあくまで副次的なテーマにとどまり、この映画のもつ訴求力は、これまでの作品よりも明らかに後退しているのだ。それは「原発映画のインフレ化」にともなう題材そのものの特異性の低下というだけではなく、あまりに母親たちに「意識を集中させすぎた」ことにあるかもしれない。母親たちの「子どもを守りたい」という感情は確かに伝わってくるのだが、その一人ひとりの描写に力点を置きすぎたために、彼女たちの行動の根底にある「原発」という存在は、ほとんど立体的な存在としての像を結んではこない。また、画面に母親たちの「敵」―たとえば施設を管理する側の人間があらわれないことからも、ナンシー・フレイザーが提唱する「対抗的公共圏」―それは土本典昭や小川紳介の作品に常にみられるものであるが―としての母親たちの像も、また浮かびあがらないままになってしまうのである。このことからも、映画全体における躍動感は薄れてしまい、画面そのものが弛緩してしまったことは否定できないだろう。

画面としての弛緩は、題名ともなっている「小さき声」が個をもって浮かびあがらないことにもまた起因している。舞台は日本とベラルーシがほぼ半々ぐらいの比率となっているのだが、ベラルーシの人物たちの発言は、すべて吹き替えという形で処理されている。これはドキュメンタリーにおいては珍しいことではなく、事実、鎌仲の過去作にも同様の傾向がみられることではあるのだが、母親たちの自身の経験、感情に根差した言葉がほとんど無機質な吹き替えに変えられることで、「小さき声」を伝えるというこの作品のテーマには明らかな矛盾が生じてしまう。たとえば、成人した娘が「いつまでたっても心配性なんだから」と母親に微笑を交えながらつげる声には、意味自体は伝わらないとはいえ、その音質には確かな感情の揺れ動きが刻まれるはずだ。しかし、こうした聴覚的な「個」が吹き替えによって削がれることで、それは全体における「個」の剥奪にもそのままつながってしまうのである。「小さき声」という題名には、政府をはじめとした「大きな存在」へのアンチテーゼというニュアンスもまた含まれているに違いないが、こうした対立構造はしかし、本フィルムの内部にもそのまま当てはまるものである。このような矛盾に対する無自覚性が、本作の映画的強度を決定的に弱めているといわざるをえない。

 3.11以前の鎌仲映画は、いわば核という「見えざる敵」への対立概念として成り立つという側面が強かった。やがて敵の存在が前景化するとともに、以前の作品がもつ魅力が希薄化したことは、ある意味当然であるかもしれない。『小さき声のカノン』は今後の日本人がとるべき行動を、視覚的なわかりやすさをもって伝えたという意味では意義のあるフィルムであるが、今後の「原発映画」の礎となるには、残念ながらまだ発展途上の作品である。さらに巨大化して迫りくる「敵」-それは原発の是非というよりも、「核」の恐怖に対して無自覚に、または思考停止となることであるが-に対して、今後はどのような闘いが必要となるか。こうした問いは鎌仲をはじめとした映画作家のみならず、“核にさらされた”私たち日本人にもまた相通ずるものである。映画作家たちがさらなる闘いを繰りひろげると同時に、画面へと向かう私たち一人ひとりも、さらなる気概を持って「敵」に対峙していかなければならないだろう。

【映画情報】

『小さき声のカノン』
(2014年/カラー/デジタル/119分)

渋谷シアター・イメージフォーラム、フォーラム福島ほかにて全国順次公開

写真は全て©ぶんぶんフィルムズ

出演者:佐々木るり 佐々木道範 佐藤晴美 菅谷昭 野呂美加 亀山ののこ ヴァレンチナ・スモルニコワ ユーリ・デミッチク ほか  
監督:鎌仲ひとみ プロデューサー:小泉修吉 
音楽:Shing02 撮影:岩田まきこ 録音:河崎宏一 
編集:青木亮 助監督:宮島裕

エンディング・テーマ:「うまれてきたから」(NUU)

製作・配給 ぶんぶんフィルムズ

【執筆者プロフィール】

若林良 (わかばやし・りょう)
1990年生まれ。映画批評・現代日本文学批評。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程在籍。太平洋戦争を題材とした日本映画に特に強い関心を持つ。