【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜中野理惠 すきな映画を仕事にして 〜 第7話 text 中野理惠

開拓者(フロンティア)たちの肖像
〜中野理惠 すきな映画を仕事にして〜

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7話 田中美津の『いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論』

前回の最終章の流れで、詩集ではないが、一冊だけ触れておきたい本がある。転職から2,3年後だったと思うのだが、20代半ばを過ぎたある日、新宿御苑近くの模索舎で偶然見つけて、一気に読み終えた「いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論」(田中美津著/田畑書店/1972年/現在はパンドラで増補改訂版を発行)の事である。全く予備知識なく読んだのだが、それまで表現できずにいたやり場のない思いに言葉が与えられ、ひとつひとつの言葉、一行一行の文章に「こういうことよ!そうよ、それそれ」と頷いた。自己肯定の大切さ。背骨が形作られるような思いがした。マスコミでしか知らなかったウーマン・リブ運動が、急に身近なものになっていった。

映画『女ならやってみな』(デンマーク/1975年)の上映活動に短期間だが参加。同じ言葉を話す女性たちと初めて出会った。どれほど嬉しかったことか。以後は、「新しい女性の創造」(ベティ・フリーダン著/三浦富美子訳/大和書房刊/1965年)を始め、手当たり次第に女性解放などに関する本を読んだ。 


「いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論 」(田中美津著/田畑書店/1972年刊)

「性と文化の革命」(W.ライヒ著/中尾ハジメ訳/勁草書房/1969年)

「闘いとエロス」(森崎和江著/三一書房/1970年)

「最後の植民地」(ブノワット・グルー著/有吉佐和子・カトリーヌ・カドゥ訳/新潮社/1979年)

映画配給の精神(エッセンス

ここで、やっと第3話の続きになる。

転職した外国映画配給会社の社長は、「良質な観客が良質な映画をつくる」と、観客育成の重要さを口にしていた。山のような資料を読み、時には自分で字幕を翻訳し、日本の観客に届けようとしていた。机の上にとどまらず、会社中に資料が溢れ、その映画の持つ魅力を可能な限り引き出すことに腐心していた。全てを自分で担うことの是非は別として、大袈裟に言えば、仕事への哲学を持ち、誠実に取り組んでいた。

就社初期の頃はしょっちゅう、不満をぶちまけ、大喧嘩もした。なにしろ飛び交う映画の題名や映画人の多くは未知で、それだけでも疎外感を抱くのだが、宣伝担当者が試写の後は、新聞記者や著名人、評論家などを連れて会社に戻ると、一杯が始まり、酒場に繰り出す。誰一人紹介されることも、同席の声をかけられることもなく(ずっと後になり、ひとりだけお願いして紹介していただいた)、決して広いとは言えない事務所の片隅で机に向かっていた。・・・疎外感と羨望。だが、突然、4年ほどたった28歳の時、「今の仕事をきちっと遂行することこそ責務だ」と気づいた。それ以後は、気持ちがラクになり、担当者のいない業務に気づくたびに工夫をして処理するように心がけた。傍らで酒盛りをしようが気にもならず、楽しい仕事の日々が続いた。


社長への感謝

いわば、ドブさらいのような業務が多かっただけではなく、数限りない仕事量。終電で帰る日も多かったが、それらは一本の映画が世に出るまでのシャドウワークでもあった。おかげで、アベレージ、アジャストなど理不尽なこの業界の現実を、体験を通して知ることになり、現在、大いに役立っている。つい先日、大学で映画演出を教える方から「映画が産業として成立してない」との言葉を聞き、「えっ、そんなの40年も前からなのに!」と応えようと思ったが、言葉を呑んだものだ。

また、70年代から80年代にかけて、数本の映画が小さいながらもヒットを続けた際、それらを公開した劇場の支配人が、「ヒットの仕掛け人」とマスコミで、数回、紹介されたことがあった。契約から公開に至るまでの社長の苦労を傍らで見ていたので、ある晩、

「ひどいですよ、文句を言ってやりましょう」

と言ったところ、

「ボクはこういう時は、嵐がすぎるまでじっとしているんだ」

と、珍しくはっきり応えられたのを覚えている。

社長の姿勢から受けた影響の大きさと深さを、実感する。その会社は、今はもう営業をしていないが、どれほどの言葉を尽くしても、伝えられないほど感謝の気持でいっぱいだ。


退社するためにニューヨークに行く

前述したように、20歳代後半(1970年代後半)からウーマン・リブ運動に関わり始めていた。その中で、強姦を告発した映画『声なき叫び』(※)の自主上映活動や、生理を記録できる女性用の手帳作成グループに参加。仕事とリブが生活の大部分を占め(それだけではなく、20代後半から30代始めごろまで短期間だが結婚をし、映画産業の労働組合活動に参加し、学士入学した二つ目の大学に夜は通い、時によると一日8時間図書館で勉強した。人生で最も勉強した時期でもある)、それなりに毎日が充実していた。

だが、1985年夏、ニューヨークからの帰りの便で、突然「もしかすると別の人生があるのかもしれない」と思ったのである。そして三か月ほど考えた末、その年の終わりごろ、社長に「辞めたい」と申し出た。理由を問われたので、前述の通りを正直に伝えたのだが、「ダメだ。アメリカに行く、とか言うのならいい」との返事だった。私は、ただ、気分転換して、のんびりしたかっただけで、退社した後の確固たる人生設計など持っていなかった。話し合いはいつも平行線で終わっていた。そして、翌年5月だったと思う。突然、「アメリカに行けばいいのだ」と気づき、6月、銀座伊東屋の裏手の喫茶店<ルノアール>で「アメリカに行くとかいうのならいい、とのことでしたので、アメリカに行きます」と伝えたのである。記憶では1986年10月に退社し、ニューヨーク行きのノースウエスト機に乗ったのが、その年の12月10日だったと思う。ひとりで向かった成田空港に、予想もしない人が見送りに来ていた。

※『声なき叫び』
(1978年/カナダ映画/96分/第32回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品/アンヌ・クレール・ポワリエ監督)
真正面から強姦を告発した映画である。日本では東京で自主公開された後、全国500か所以上で上映された。地上波でテレビ放映もされている。
https://pandorafilms.wordpress.com/seihanzai/#koenaki

『声なき叫び』のチラシ

つづく。次は5月1日に掲載します。)