<はじめに>
いま『沖縄 うりずんの雨』(ジャン・ユンカーマン監督)『戦場ぬ止み』(三上智恵監督)という、沖縄に関する二つのドキュメンタリー映画が劇場公開されています。
住民が戦闘に巻き込まれた沖縄戦の惨禍から70年、今なお「戦争」の問題に強く揺さぶられる島の姿と、そこに生きる人々の声を、それぞれのスタイルで記録したこの2つの映画から伺いしれるのは、「基地の島」「戦場の島」の常套句には収まらない、多様な沖縄の姿です。
この話題の2本の映画を軸に、あらためて沖縄関連のドキュメンタリー作品の奥深い世界を、できる限り紹介したいと思っています。
まずは、この2作はどのような問題を提示しているでしょうか。沖縄出身の若き研究者、松田潤さんに論じてもらいました。
(neoneo編集室 佐藤寛朗)
1996年の普天間基地返還を合意したSACO合意から19年が経つ。この「合意」は、95年の米兵少女暴行事件に対する広範な抗議と反基地運動が巧妙に利用される形で、「沖縄県民の負担軽減」というスローガンが掲げられた。しかし実体は冷戦以降の米軍の世界的再編の流れの中での日米同盟関係再強化のための計画であり、老朽化した基地施設の「新設」と北部地域への移転であった。名護市辺野古は大規模な海上基地予定地として浮上し(建築家の真喜志好一が明らかにしたように米軍は1966年以来30年余も辺野古への基地新設構想をあたため続けていた)、東村高江では北部訓練場の「過半」返還がヘリコプター着地帯(ヘリパッド)の訓練場残存地域への移設を条件に計画された。計画発表から19年経ち、辺野古沖では工事に向けた海底ボーリング調査が「粛々と」始まり、高江では建設予定の6つのヘリパッドのうち完成した2つが米軍に先行提供されオスプレイの配備が確認されている。それでも、辺野古と高江ともに未だに工事が完了していないのは、ひとえに現場での途方もない年月に及ぶ座り込みをはじめとする非暴力不服従の抵抗運動が継続しているからである。このことは、強調してもし過ぎることはない。
なぜ抵抗運動がここまで長期にわたって不屈に継続しているのか。それはこの抵抗の根っこに、戦後沖縄の人々が戦争体験の継承によって「命どぅ宝」の思想を涵養し、反戦意識を形成してきたことがあるのは間違いないだろう。この沖縄の戦後を歴史化し、現在の抵抗の正当性を明かしだす作品として、ジャン・ユンカーマン監督『沖縄 うりずんの雨』と、三上智恵監督『戦場ぬ止み』の二つのドキュメンタリーは、併せて鑑賞されるべきだと思われる。
『沖縄 うりずんの雨』は、沖縄の現代史を輻輳的な証言と米軍の記録映像で描き出した。全4部からなり、第1部「沖縄戦」、第2部「占領」、第3部「陵辱」、第4部「明日へ」で構成されている。「うりずん」とは潤い初め(うるおいぞめ)が語源とされ、春分から沖縄が梅雨入りする5月頃までの時期を指す言葉。このうりずんの季節になると、4月1日から始まった沖縄地上戦の記憶が甦り、心身に不調を来す人たちがいる。出演者で歌人の玉城洋子氏もその一人だ。草木の新緑が芽吹き、デイゴの花が美しく開く沖縄のもっとも過ごしやすい時期、戦争体験者たちは戦場に連れ戻されるような時間を生きている。『うりずんの雨』というタイトルには、このようなトラウマの不可避の回帰の時間を生きざるを得ない人びとへの視線が込められているのである。
上述したように本作の証言が「輻輳的」であるのは、戦後から現在までに及ぶ証言の幅もさることながら、元米軍兵士の証言が加わったことで、沖縄戦、米軍占領史を複数の現実の重なりあいにおいて描き出しているからだ。元米兵たちは黙してきた沖縄戦での住民虐殺や、ベトナムとは対極にあった占領下沖縄の楽園的イメージ、そして「大したことだとはされていなかった」日常的なレイプの記憶などを、後悔や逡巡を湛え、あるいは淡々と、ときには懐かしい思い出話でもするように証言している。むろん本作は安易な相対主義が陥る「客観」や「中立」といった偽装的な立ち位置からはかけ離れたところから、批評的意識をもって元兵士たちの証言を引き出している。それは政治学や国際関係論を専攻する米国人の学者たちの批判的言辞が、元兵士たちの証言の前後に補足・介入のような形で挟み込まれていることからも明らかである。
また95年の米兵少女暴行事件の犯人の一人の証言は、事件を語る言葉そのものが法廷におけるセカンドレイプの言説と酷似しており非常に危ういが、一方で軍隊という構造的に性暴力を制度化した組織において「軍事化されたレイプ」(シンシア・エンロー)に加担した加害者が、その罪を認め被害者に謝罪し教会に通いながら許しを請う日々を過ごしていると証言したように、兵士という身体の「脱軍事化」のプロセスもまたそこに認めることは可能であるように思われる。
さらに本作では、戦中の慰安所の存在、戦後の米兵による性暴力被害者の「声」を可視化する「女性たちの戦争と平和資料館」の試み、軍隊内の女性米兵への性暴力被害の実態と彼女らが起こした抵抗のアクションが取りあげられており、共同体の結束のためにシンボル化され犠牲化された「少女」という被害者の形象には止まらない性暴力の被害者の複数性が明示されている。この複数性へと想像力を巡らすことは、沖縄という時空間には限定されないあらゆる場所や時間で起きた、起きている、これから起こりうる性暴力の被害者たちの存在を感受することであり、未だ証言されていない――しかし本作に通底音のように響いている――「輻輳する声」を聞く耳を養う実践でもあるだろう。
『沖縄 うりずんの雨』が複数の現実の折り重なりを描いていたのなら、辺野古新基地建設をめぐる現場の闘争を撮った『戦場ぬ止み』は複数の現実の攻防を描いていると言ってよい。現場に常に張り巡らされた複数のカメラは、抗議する市民、報道メディア、映画スタッフ、沖縄防衛局、県警、海保それぞれの現実を切り取り、複数の真実が映像によって加工=仮構されていく様子を映し出す。またこのような現場においてはもはや誰もがカメラを意識せずにはいれないために、対立している人びとの立ち振る舞いがいきおい演技性を帯びてくる(ように見える)。この「切り取られた複数の現実」における「演技」の攻防が繰り広げられるという意味において、本作は非常に「映画的」な佇まいとなっている。
たとえば、「危ないですよ!」「安全確保!」と言いながら無抵抗の市民を暴力的に拘束する海保の下手な演技の映像は、海保側のカメラでは暴力的で危険な市民を取り押さえる映像に巧妙に掏り替わっているのだろう。市民の非暴力不服従の抵抗も、現実の切り取り方が変わればたちまち犯罪の証拠としてスラップ訴訟の恫喝に利用されてしまう。市民の側では、非暴力直接行動を最大限効果的なものにするために、トラックの前に立ちふさがってタイヤの下に潜り込んだり、フェンスに自らを括り付けるなどして、非常に「絵になる」抗議の方法を創造的に生み出しカメラに撮らせている。いわば身体をメディア化しスペクタクルなものとして提示することで、身体を補足する複数のカメラの暴力的なまなざしを巧みに利用することに成功していると言えよう。
しかしながら、本作が複数のカメラとの攻防の中で切り取り映し出すドキュメンタリー的「現実」には還元できない「アクチュアリティー」こそ、見出されるべき必要があるのではないだろうか。阿部宏慈は、ドキュメンタリー映画の語りの形式は本質的に、「ドキュメンタリー的映像の本来有していたはずの〈傷〉を隠蔽する一種の物語として、ある種の〈隠蔽記憶〉として機能することになる」とし、「ドキュメンタリー映画における〈アクチュアリティー〉とは、そのような遮蔽幕としてのスクリーンを引き裂いて、映像的〈傷〉の衝撃が露呈してくる瞬間の現実性以外の何であろう」[i]と述べている。つまり、スクリーンの向こう側に映像には補足されない〈傷〉を有した身体が顕現する瞬間のアクチュアリティーこそ、私たちは見逃すことなく凝視しなければならないはずである。
それは例えば、主人公の一人である島袋文子氏が、血の混じった泥水を飲んで沖縄戦を生き延びたことを、戦地を歩いて思い出しながら語るシーン。泥水を赤く濁らせる傷だらけの死者たちが、その血を取り込んだ彼女の身体の向こう側に張り付いて離れない。この瞬間のアクチュアリティーにおいて、死者が回帰するとともに、彼女に「全部苦しみ」だったと語られる「戦後」という時間のあまりにも無惨な様が可視化されている。それは死者がいまだ鮮血を流し続ける「戦後」なき時間のことである。
本作と『沖縄 うりずんの雨』が交差するのはこの地点ではないだろうか。すなわち、この二つのドキュメンタリーは、スクリーンの向こう側の沖縄戦の死者たち、性暴力の被害者たちを顕現させることによって、不在の他者と共にあることのアクチュアリティーの地平を開示しているのである。この瞬間のアクチュアリティーから眼差しをそらさない限りにおいて、ようやく「戦後」なき沖縄の戦後の歴史化がはじまり、正義を求める「私たち」の抵抗がどこまでも正当であることが明かしだされるに違いない。
[i] 阿部宏滋「ドキュメンタリー映画における〈アクチュアル〉の問題に関する一試論」『山形大学人文学部研究年報』第8号、2011年3月、88頁。
【映画情報】
『沖縄 うりずんの雨』
(2時間28分/2015年/日本/カラー/DCP・BD/ステレオ5.1ch)監督:ジャン・ユンカーマン
企画・製作:山上徹二郎 製作:前澤哲爾 前澤眞理子
撮影:加藤孝信 東谷麗奈 Chuck France Stephen McCarthy Brett Wiley
音楽:小室等
配給:シグロ
公式サイト:http://okinawa-urizun.com
東京・岩波ホール、沖縄・桜坂劇場にて公開中、ほか全国順次公開
『戦場ぬ止み』(いくさばぬとどぅみ)
(2015 年/日本/DCP・BD/129 分)
監督:三上智恵 音楽:小室等 ナレーション:Cocco プロデューサー:橋本佳子/木下繁貴
撮影:大久保千津奈 編集:青木孝文 撮影協力:平田守/宜野座盛克/中村健勇 水中撮影:長田勇
監督補:桃原英樹 構成協力:松石泉 題字:書浪人善隆 制作協力:シネマ沖縄
協力:沖縄タイムス社/琉球新報社 製作協力:三上智恵監督・沖縄記録映画を応援する会
製作:DOCUMENTARY JAPAN/東風/三上智恵
配給・宣伝:東風
公式サイト:http://ikusaba.com
東京・ポレポレ東中野にて緊急先行上映中
【本上映】
7月18日(土)より東京・ポレポレ東中野、大阪・第七藝術劇場
7月11日(土)より沖縄・桜坂劇場
ほか全国順次公開
【執筆者プロフィール】
松田潤 (まつだ・じゅん)
1987年、沖縄県生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程在学中。専攻は沖縄文学・思想史。論文に「非人間的なものたちの生命線:阿嘉誠一郎『世の中や(ゆんなかや)』論」(『言語社会』9号、2015年3月。)