2002年の夏、私はバルセロナのサグラダ・ファミリアを訪れた。海外旅行初体験の浮かれ気分と緊張感を抱きながら、複雑な彫刻に覆われた巨大な教会を見上げて、友人たちと「いつ完成するのかな」などと話したものだった。
そのサグラダ・ファミリアは、1882年に建設が始まり、完成までに300年かかると言われていた。だが、公式発表によると11年後の2026年に完成するという。そんな情報に驚きつつ、映画『創造と神秘のサグラダ・ファミリア』で大聖堂と再会した。本作は、建設現場などの映像や建設関係者のインタビューを通じて、現代のサグラダ・ファミリアの姿を描き、さらに「創造」とは何かを見る者に問いかける。
アントニ・ガウディはサグラダ・ファミリアをはじめとして、カサ・ミラ、グエル公園など、バルセロナに残る数々の作品を設計した建築家だ。言うなれば彼は創造者である。彼の創作への姿勢について、ガウディ王立研究室のジョアン・バセゴダはインタビューの中でこう語る。「ガウディは“今までにないものを”と力んだりはしない。既存のものを活用すべきであり、神の創造した自然を手本としていた」のだと。ガウディが訪れたバルセロナ近郊のモンセラ山には、人間の指のような岩山と鋭い尖塔のような樹木が真上に伸びている。一方のサグラダ・ファミリアには、モンセラ山を模したかのように、空に向けて円錐形の塔が何本もそびえている。また、教会を支える白い柱は人骨のように湾曲した形状である。映画に映し出された風景やバセゴダの言葉が示すように、ガウディは自然を模倣することにより創造をしたのである。
スペイン内戦により、彼の残したスケッチや模型は失われてしまった。また、サグラダ・ファミリアのうち、ガウディの存命中に建てられたのは生誕のファサードだけであった。ガウディが唯一残したこのファサードは、ガウディが後進世代への方針として残したものだという。ガウディの遺志をいかに具現化するか。このことがサグラダ・ファミリアの創造の道筋となる。本作に登場する二人の彫刻家、外尾悦郎とジョゼップ・マリア・スビラックスに現代の「創造」の例が表現されている。
主任彫刻家の外尾悦郎は「ガウディを見るのではなく、ガウディの見たものを見るべき」と考え、仏教からカトリックに改宗した。そしてガウディの残した模型の断片を手掛かりに、ガウディの求めたものを追求している。外尾にとって創造とはガウディの模倣から始まるのだ。あたかも、ガウディの作品だけでなく、自然の模倣から創造をしたガウディの姿勢をも模範としているかのようだ。
一方、受難のファサードを担当したスビラックスは、現代に根ざした表現を求めており、ガウディの考えに忠実になるのではなく、ガウディから離れて考えるのだという。その結果、抽象彫刻を得意とする彼は、曲線が特徴的なガウディの造形とはかけ離れた、ゴツゴツとした直線的なフォルムの彫刻を作り上げた。スビラックスの作品には賛否両論あるとのことだが、これも一つの創造であることは間違いない。先達のガウディに近づこうとする外尾、遠ざかろうとするスビラックス、二人の彫刻家は対照的なルートをたどってはいるが、ガウディの遺志を受け継ぎ、創造を行っている。
映画のところどころに、ジョルディ・サヴァルの指揮するバッハの『ミサ曲ロ短調』の演奏シーンが挿入される。サヴァルは「曲の完璧な解釈は不可能だ。分からないからこそ、人は解釈に挑み続ける」と語る。サヴァルの言葉通り、ガウディの後継者たちにとってサグラダ・ファミリアの建設とはガウディのアイデアの解釈に挑み続けることであり、そのことが創造になるのだ。
スビラックスの言葉と作品が示すように、サグラダ・ファミリアも時の流れと無関係ではいられない。前述のように、ガウディの作った模型等は、1936年に勃発したスペイン内戦によって失われてしまった。また、スペインの民主化の際には建設反対運動が起こり、教会の前庭になるはずだった土地が住宅地になったとのことだ。作中の空撮映像には、教会の栄光のファサードと大通りとの間に、2ブロックの住宅街が立ちふさがっていることが映し出されている。さらに2006年には、サグラダ・ファミリアの近くに高速鉄道のトンネルを開通する計画が立てられた。現在、そのトンネル工事が行われており、教会に与えるダメージが懸念されている。
一方で、時間の経過とともに建設への追い風も吹いている。完成までの期間の短縮は、2005年の世界遺産登録などにより観光客が急増し、資金が集まるようになったことも一因であるという。また作中には、2010年にローマ法王ベネディクト16世がサグラダ・ファミリアにおいて行った聖別式のシーンがある。法王の姿を一目見ようと集まった人々の中、法王の四方をガラスで囲んだ特別製の自動車が教会に入っていく。式典の最中、群衆は屋外に設置された大型ビジョンで法王の姿を眺める。長い伝統を誇るカトリック教会も、現代のテクノロジーを駆使しているのだ。このことは、宗教建築であるサグラダ・ファミリアも同様である。サグラダ・ファミリアは特徴的な形状の石の建築に見えるが、実は鉄筋コンクリートの骨組みを使用していることが作中の映像やインタビューから明らかになる。建築家のマーク・バーリーはパソコンの設計ソフトを使用し、サグラダ・ファミリアを3D画像として解析しているところを見せる。工事に使用されている、塔よりも高くそびえるL字型のクレーンも、ガウディの時代のものではないだろう。さらに、クレーンに沿って上下に移動して風景を捉えるカメラ、教会もバルセロナ市街も見下ろす空撮。サグラダ・ファミリアそのもの、そしてそれを被写体とした本作もテクノロジーの産物である。以上のように、130年以上という建設期間の間に社会も技術も変わり、サグラダ・ファミリアもその影響を受けているのだ。
宗教学者のライモン・パニッカーは、「神秘は常に開かれている。神秘のありかは示せない。神秘が神秘たり得るのは、何も内包しないから」と述べる。各自のガウディ解釈や社会的・技術的な環境に開かれているサグラダ・ファミリアは、バニッカーの語る神秘を体現した存在であろう。彩り豊かなステングラスから光が射し込み、人骨のような柱がうねる教会の内部。そこはキリスト教の聖堂であるとともに、人々の創造力を受け容れる神秘の器だ。
このようにサグラダ・ファミリアは創造と神秘を体現しているのだが、私はここに「生命」も付け加えたい。無論のこと、カサ・ミラのように曲線を多用したガウディの作品が生命感を表現していることはすでに知られており、私も実物を見てそのことを実感した。だが、この映画から想起される「生命」とは造形上の問題ではない。
前述したジョルディ・サヴァル指揮の『ミサ曲ロ短調』の演奏シーンにおいて、楽器や合唱隊から発せられた音は空気を伝搬し、減衰して、やがて消滅する。すなわち、創造されると同時に消え去るのだ。一方、建設開始から130年以上が過ぎたサグラダ・ファミリアでは、建設途上でありながら、既存部分の修復も行われているという。サグラダ・ファミリアもまた、作られるとともに朽ちてゆき、再生していく。音にせよ建築にせよ、人間の創造物は生と死を繰り返す。
人間も同じであろう。ガウディの死後、彼の仕事を受け継ぐ者が現れ、本作に登場する外尾やスビラックスなど、多くの人々が現代における後継者となっている。死者から生者への創造のバトンタッチ。創造物と同じく、人類の創造行為も生と死の入れ替わりの過程である。人体を構成する数十兆個の細胞は、新陳代謝しており、日々入れ替わっているという。一個の人間も生と死の周期を繰り返す。すなわち生きることもまた創造であり、サグラダ・ファミリアは生命の生と死を象徴する存在でもあるのだ。
さて、バルセロナへの旅行から13年が経過し、私の細胞も入れ替わったことだろう。本作を鑑賞した今、私はサグラダ・ファミリアを再訪したいとの思いを強くした。一人の創造者として、創造と神秘と生命の殿堂を。
【映画情報】
『創造と神秘のサグラダ・ファミリア』
(2012年/スイス/スペイン語、カタルーニャ語、ドイツ語、英語、フランス語/94分/16:9/カラー)
原題:SAGRADA: El misteri de la creació
監督:ステファン・ハウプト
出演:ジャウマ・トーレギタル、外尾悦郎、ジョルディ・ボネット、ジョアン・リゴール、ジョアン・バセゴダ、ライモン・パニッカー、ルイス・ボネット
配給・宣伝:アップリンク
公式サイト→http://www.uplink.co.jp/sagrada/
画像はすべて© Fontana Film GmbH, 2012
2015年12月12日(土)よりYEBISU GARDEN CINEMAほか、全国順次公開
【執筆者プロフィール】
高橋雄太(たかはし・ゆうた)
1980年北海道生。北海道大学大学院理学研究科物理学専攻修了。会社員であり、かつ映画冊子『ことばの映画館』のライター。