©SION PRODUCTION
2010年10月、彼は死んだ。
だから彼は、「あの日」を知らない。
あの日を知らない彼を私は愛していた。
誰よりもやさしく繊細で控えめで、時にひょうきんな人だった。
けれど、彼はあの日を知らない。
あの日、私は東武東上線の池袋行きに乗り、まぶたを閉じていた。春の穏やかな陽気の中にありながら、その季節特有の新しい生活への不安が私を強烈な眠気へと導いていた。車内がカタカタといつもより大振りに揺れたのでふと目をあけると、アナウンスが急停止を告げた。電車を挟むようにして立つ電信柱がやけに大きく、そしていまにも地中から抜け出していくかのように見えたので、自分はいよいよ正気を失ったのかと戸惑っていたところ、隣に座っていた女性が「地震ですね」と声をかけてきた。しかしながら私は、今まで体感したことのない揺れを瞬時に「地震だ」と認識することができず。「ええ」とだけそっけなく答えた。しばらくすると、向かいにいたサラリーマンらしき人々が携帯電話に映し出されたテレビ中継を覗きこんでいた。「地震だ」という声のあとしばらくしてから「宮城に津波がきたらしい」という声が聞こえてきた。
「私の実家、宮城なんです」隣にいた女性が不安気につぶやいた。
私は何も答えなかった。
あの日の記憶を誰もが鮮明に覚えている。「私」という身体に在り続けるあの日の記憶。けれど同時に、私の中にはそれ以前のもっとずっと昔の「私」という記憶もある。そのずっと昔に過ぎ去った日々の中には彼もいる。
けれどもやっぱり、彼はあの日を知らない。
そして更にいえば、あの日を知る私を彼は知らない。
あの日から生きる私たちを知ることが、彼には出来ない。
このことが、今を生きるわれわれに「思い出」としてしばしば、なだれこんでくる。
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映画『ひそひそ星』は水が滴る音から始まる。シンクの中を深く響く一粒一粒の雫が、時を刻む。この映画に描かれているのは距離と時間、そしてそこから導きだされる記憶、生きるものに寄り添う死である。記憶は時と関係する。また記憶は記録とは違い、均一性を求められない。ただそこにあるのは私とあなたの関係から生まれる<ときめき>と呼ばれるものである。だから、この映画における時の刻みは一定ではない。シンクを打つ水、誰もいなくなった街にそよぐ風、靴に食い込んだ空き缶…これらの刻む音が鼓動となり、彼らは生きる。『ひそひそ星』において登場する未来の地球には人の背よりも高い草が生え、道の脇には大きな電信柱が並んでいる。誰にも手を加えられることのない、方々に生えた草花と電信柱は懐かしさに加えて奇妙な美しさを放っている。この今にも歩き出しそうな隊列を組んだ柱を見ていると、いつの日か読んだ宮沢賢治のあの詩が頭をよぎる。
ドッテテドッテテ、ドッテテド
歩み行く柱の隊列は、死んだものたちの魂の葬列だ。彼らが生み出す情景が死を含んでいること、更にはそれが美しさの中心にあることにこの作品の映し出した儚さを想う。「あの日」のトウキョウで私がみた電信柱たちはまだここにあるのだ。
果てしない宇宙の中で、いつ届くかもわからない記憶の配達を待ち続ける。
時をかけて目の当たりにする記憶を、もしも私自身が受け取るとき私はそれをしっかりと受け止めることが出来るだろうか。その記憶の配達物はもはや受け取った時点で記憶ではなく、今を生きる私に対して大切な何かと決別する、或は支配するものとなりうるのではないだろうか。記憶は風化する。しかしながらこの映画に描かれた配達物はあの日に生きていたこと、そしてずっと忘れることのなかった生を蘇らせる。
「3.11」、「フクシマ」現在では、日本はおろか世界中で知られているこの言葉。あの日から時をかけることで、私たちはより一層、記憶というものと向き合うこととなった。記憶とは何か…?震災があり、社会が思わぬ方向へと向かう(退行しているとも言える)中で、しばしばジョージ・オーウェルの『一九八四年』が話題に持ち上げられている。この『一九八四年』の主人公、ウィンストンが拷問を受けるシーンにおいて以下のようなやりとりがなされている。
「今の今まで、存在が何を意味するのか、考えたことがなかったわけだ。もっと正確な言い方をしよう。過去は具体的なものとして存在するかね、空間の中に?確固としてできた場所、世界のどこか–どこでもいい–にあって、過去は今でも生起していると思うかね?」
「いいえ」
「それなら過去はどこに存在するのだ?存在すると仮定した場合だが」
「記録のなかに。過去は書き留められています」
「記録のなかにね、それから….?」
「頭のなかに、人の記憶のなかに」
(ジョージ・オーウェル、『一九八四年』[新訳版]、高橋和久訳、早川書房、383-384頁。)
——中略—
「われわれが人生をコントロールしているのだよ、ウィンストン。君は人間性と呼ばれるような何かが存在し、それがわれわれがやることすべてに憤慨して、われわれに敵対するだろうと思っている。だが我々が人間性を作っているのだ。(略)」
「いいえ。わたしが信じているだけです。あなた方が失敗すると分かっているのです。宇宙には何かーわたしには分かりませんが、精神とか原理とかいったものでーあなた方が絶対に打ち勝つことの出来ないものがあるんです」
「神の存在を信じているのかね、ウィンストン?」
「いいえ」
「それならわれわれを打ち破るというその原理とは、いったい何なのだ?」
「分かりません。『人間』の精神です」
(『一九八四年』[新訳版]、418頁。)
『一九八四年』で描かれるのは人間の思考がコントロールされた世界だ。思考や思想の抑制は人間性そのものを奪う。一方で園監督が描く『ひそひそ星』の未来は、この思考や記憶が幾年もかけて運ばれる配達物として、宝物のように扱われている。アンドロイドには今ひとつ理解できない記憶を含む物とそれらの配達。しかしながら受け取る人間にとって、またその記憶を綴じた人間にとって時間をかけて送られる配達物は今という生へと結びついている。
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明るい未来をもたらすはずだった、そして、確かに多くの人々に灯りを点し続けていた桃源郷が大爆発を起こして、もう5年が経つ。園監督は震災後と呼ばれるこの地において3本の映画を撮った。しかしながら彼にとって、この残された土地を背景におくことは「震災」を描くこととは違うだろう。
『ひそひそ星』について園監督は以下のように記している。
風化しかけた記憶に対しての
小さな詩を作りたい。
そして今日も
常に死と隣り合わせに生きる
全ての人間に対しての祈りの映画にしようと思っている
(『ひそひそ星』パンフレットより抜粋)
園監督にとって『ひそひそ星』は死とともにある生への祈りである。またそれは「人間」として生きることへの力強い宣言でもある。配達される記憶はごく少数となった人間たちの身体の一部であり、時をかけて守られる自由だ。そしてこの物語は、記憶が誰の手においても決して覆されることがなく、操作されることのない未来へ結ばれているという強い希望を表している。
©2016「園子温という生きもの」製作委員会
『園子温という生きもの』の中で、ひそひそ星の登場人物として出演する農家の男性は目の前に咲き誇る美しく黄色い花を咲かせた植物を「セイタカアワダチソウ」であると園監督に知らせる。泡立草とは荒れ地に群生し、根から化学物質を出すことで他の植物を死なせ、また他の植物がなくなると自らをも攻撃する特殊な植物である。男性が語る言葉から、野に咲き誇る美こそが、その土地を彼らから奪いさろうとする象徴であることがわかる。だからこそこの場面は、それまで純粋に感じとっていた草花への自分自身の共感に、憎悪を覚える瞬間でもある。男性の語る事実は美しさが時に残酷であることをいかにも正確にわれわれに伝えるものであり、そこには不謹慎ながらも気味の悪さまで感じてしまう。誰もいないこの土地は、物語のように「忘れられた街」として悲哀の対象へと向かおうとしているのだ。
そして、控えめで美しい黄色い花々がまがまがしく問いかける。このままでいいのか?と。目の前に広がるこの色彩は事実、今現在もここにある世界の一部なのである。その色を目にした今をわれわれは生きているのであり、これらの現実は作り物ではなく、たしかにそこに存在している。私はあまりにもその土地を偶像化しすぎてはいないだろうか?自問自答の末に、美しく残酷な世界に感傷を抱くことが大きな間違いであると気づかされる。
このようにして『園子温という生きもの』は園監督の表現活動を追うと同時に園子温という人物の過ごした一年を通して、人間として生きることを問われる作品でもある。しかしながら、この作品も園監督自身も決して誰かに答えを求めることはない。非常に穏やかで静かに自然と人間に対峙することの清さが満ちている。
©2016「園子温という生きもの」製作委員会
ドキュメンタリーの中心となっていく言葉がある。
芸術は良し悪しではない、書いて、表現して、生きること!
園監督が清々しいまでに言い切るこの言葉を、家財道具をいっさいなくし、家族をなくし、親しんだ風景をもなくした人々はどのように受け取るだろうか。また、なんらかの病や困窮によって死を身近に感じざるを得ない人々は芸術というものにたいしてどのような感情を抱くのだろうか。
園監督にとって芸術とは、則ち生きることに直結している。大部分の人々が死と隣接するとき、芸術という言葉は存在しないだろう。しかしながら、ここで園監督の語る「芸術」そして「表現すること」は、われわれが想起する絵画や映画などのいわゆる造形物として、対象として完成されたものとは違う。われわれ自身が個々の人間として歩み、話し、そして何より感覚していくこと、その日々こそが人間に許された生の実感でありその諸処の軌道こそが芸術である。
このようにして芸術は「生きる」ことと深く結びついている。では、生きることとは何か。園監督にとって生と死の関係と共に重要なものの一つで在り続けるのが性ではないだろうか。このことはドキュメンタリーの中で園監督がバイブルとして紹介するヘンリ・ミラーの作品『北回帰線』に描かれている。
『北回帰線』には自由で奔放な性の描写がなされる。その中で語られる一節に、園監督自身を見た気がした。
何よりも、決して絶望することなかれだ。決して絶望してはならない。
(ヘンリ・ミラー『北回帰線』大久保康夫訳、新潮文庫、261頁。)
物語の中で彼らが貪る性は、そのままで生きることへの渇望を示している。
この渇望への気付きは尊い日常のふとした瞬間に降りてくる。例えば、とある病院に見舞いにいった帰りだ。坂の上に建つ病院から駅へと下っていくとそこには簡素なホテル街がある。死と常に向き合う場の麓には性の営みが毎夜行われている。病院からはその街をみることは出来ない。その代わり坂の上から見渡す景色の中に飛びこんでくるのは、蓮の浮かぶ池である。このような情景を目にしたとき、性と死の淵が地続きであること、そしてその最上にこそ生と死の闘いの場があることの崇高さに気がつく。
われわれの日常は乱痴気騒ぎの延長の中で終焉を迎える。人生において至極全うで純白なものは、おそらくほとんどあり得ないだろう。人間は決して美しくはなり得ない。誰もが皆あらゆる場面で実際に、或はその心の内で、夜を徘徊するくそったれなのだ。そのようにしてのたうち回りながら日常を生きるという行為は誠実さへと繫がっている。誠実であろうとすることは、正しさとは違う。時に哀しく、儚く、身悶えするような激昂がわれわれ人間を形作る。そんなわれわれが生きるために、そして生きているという健やかさの集積として記憶はある。
あの日を知らない彼の最後の日記は、たわいもないもので終わっている。
何を食べてどんな映画をみたのか、誰が見舞いにきたか、もう綴られることのない彼の文字のひとつひとつに私はあの頃へと引き戻される。しかしながら、その想いの外側にある今を私は生きている。彼の記憶はもうすでに私の一部でありながら、その記憶が封じられた時とは全く違った私がここにいる。記憶を含むものとの対峙は時に暴力的な感情を引き寄せる。何故私だけがここにいるのか、最も愛おしいと想える人の中にいない「私」として進むことに何の意味があるのか。けれど、私はそれでも生き続けたいと願う。いつか時間をかけて届く彼の記憶を抱くために。この想いが救いと呼ばれるものなのだろう。
記憶を含んだ「私」と共に導かれていく未来へ祈ろう。
誰かのために時をかける記憶がこの先も続くように。
くそったれの「人間」という自由が永遠に損なわれぬように。
生きるということについて、あなたへ。
©2016「園子温という生きもの」製作委員会
【映画情報】
『ひそひそ星』
(2015年/日本/モノクロ(パートカラー)/ビスタ/100分)
監督・脚本・プロデュース:園子温
プロデューサー:鈴木剛、園いづみ 企画・制作:シオンプロダクション
出演:神楽坂恵、遠藤賢司、池田優斗、森康子、福島県双葉郡浪江町の皆様、福島県双葉郡富岡町の皆様、福島県南相馬市の皆様
撮影:山本英夫 照明:小野晃 美術:清水剛 整音:小宮元 編集:伊藤潤一
衣装:澤田石和寛 制作:山内遊 助監督:綾部真弥 キャスティング:杉山麻衣
ラインプロデューサー:船木光 配給:日活 宣伝:ミラクルヴォイス
© SION PRODUCTION
公式HP:hisohisoboshi.jp
5月14日(土)新宿シネマカリテほかロードショー
※大島新監督ドキュメンタリー映画『園子温という生きもの』と同時期ロードショー
『園子温という生きもの』
(2016/日本/カラー/ビスタ/97分)
監督:大島新
出演:園子温 染谷将太 二階堂ふみ 田野邉尚人 安岡卓治 エリイ(Chim↑Pom) 神楽坂恵
プロデューサー:小室直子、前田亜紀 撮影:髙橋秀典 編集:大川義弘 整音・効果:高木 創 音楽プロデュース:菊地智敦
企画・製作:ネツゲン 日活 制作プロダクション:ネツゲン 配給:日活 宣伝:ミラクルヴォイス
©2016「園子温という生きもの」製作委員会
公式HP http://sonosion-ikimono.jp/
5月14日(土)新宿シネマカリテほかロードショー
※園子温監督作品『ひそひそ星』と同時期ロードショー
【執筆者プロフィール】
小松 いつか(こまつ いつか)
多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科卒業、立教大学現代心理学研究科映像身体学専攻博士後期課程在籍中。芸術における身体、生命身体論を中心に研究中のほか映像(フィルム)・短歌・詩などの制作を行う。