【Interview】ジョルジュ・モリヴァー(元メドヴェトキン集団)独占インタビュー text 東志保

『また、近いうちに』(67)より

クリス・マルケルとマリオ・マレの共同監督作品、『また、近いうちに』(1967)は、フランスの東部の都市、ブザンソンのロディアセタ工場で1967年に起きた大規模なストライキを題材にしたドキュメンタリー映画である。映画の冒頭と結末を飾ったロディアセタ工場の労働者、ジョルジュ・モリヴァー(通称:ヨーヨー)に2015年8月、インタビューを行った。五月革命の先駆け的出来事となったロディアセタ工場でのストライキ、労働者たちの文化活動グループCCPPO(Centre Culturel Populaire de Palente-Orchamps:パラント−オルシャン地域の民衆文化センター)、そして、『また、近いうちに』が契機となって結成された労働者による映画制作集団の「メドヴェトキン集団」について詳しく語っていただいた。メドヴェトキン集団の名前の由来は、ソ連の映画監督のアレクサンドル・メドヴェトキンにオマージュを捧げたものである。

(取材・構成=東志保)

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1967年3月、ブザンソン・ロディアセタ工場でのストライキ

東 ストライキに学生が関わったこと、そして学生とロディアの労働者の連帯についてお聞かせください。

モリヴァー 政治化された学生たちが特に関わっていたね。集まったのは共産主義者だったり、左翼の学生たちで、労働者の世界を少し目の当たりにした人達だった。なぜかというと、大学の学部が民主化されたからで、彼らは教育の現場からやってきたんだね。だから、彼らには強い存在感があったよ。それにベトナム戦争もあったからね。混ざり合っていたね。工場に大きな食堂があったから一緒に食事をするために来たよ。都市を民衆のものにすることを手伝ってくれた。

 すごいことだと思います。

モリヴァー 五月革命より少し前のことだよ。五月革命もこういったような感じだったからね。

 67年の出来事ですよね?

モリヴァー そう、67年だよ。67年の3月。

 その前は、そういった連帯はなかったのですか。

モリヴァー なかったね。ただ、共産党に入党していたような、強く政治化されていた人達は少しはいた。共産党の青年支部や党の組織の一員だったような学生たちとかね。

 つまり、大規模な連帯は67年になって起こったのですね。

モリヴァー そう、67年に、ブザンソンで。でも、それは文学部でしか起こらなかった。

 そうですか。文学部以外の学生はあまり政治参加しなかったのですね。

モリヴァー してなかったね。

 そうですか…。今でもこうした連帯は、少しは続いていますか。

モリヴァー いや、ただ、68年以降も、いくつか動きはあったよ。RIPでの運動もあったからね。

 RIP工場のストライキですね。

モリヴァー みんな関わっていた。他の運動もあったよ。工場が全て閉鎖してからは67年のようではなくなった。今さっき言ったことは全て68年以降のことだよ。

 67年には、ロディアセタの工場があり、運動もあった。

モリヴァー 当初は、労働者階級と学生運動に協定が結ばれたような感じだった。多様だったね。

 ソショーでも映画が作られましたよね?

モリヴァー プジョーの自動車工場のことだね。でもソショーには大学はなかった。ブザンソンとは同じ状況ではなかった。

 ロディアセタ工場のストライキの後で、メドヴェトキン集団が映画を撮ったのですね。そしてその後は、ソショーでも映画を作ったのではないですか?

モリヴァー ポール・セブは、そうしたこと全ての先導者だった。活動に身を捧げていたけど、その後、彼は働かなくてはならなかった。子供たちのためにね。ソショーで仕事を見つけて、そこでメドヴェトキン集団を再結成したが(ブザンソンのものとは)違うものだ。劇団と一緒に演じて、労働者階級にはどんな問題があるのかを問いかけたりした。68年に作った映画とは同じものではないが、つながっている。ソショーのメドヴェトキン集団ではブリュノ・ミュエルが多く活動していたよ。ただ、マリオ・マレはソショーにはいなかった。

『また、近いうちに』より

 わかりました。では、ソショーとブザンソンのメドヴェトキン集団は別物と考えていいのでしょうか。繋がってはいるのですよね。

モリヴァー そう、繋がっているよ。ポール・セブや、他のメドヴェトキン集団のメンバーもいた。メドヴェトキン周辺の人々だよ。私はアレクサンドル・メドヴェトキン本人にも会ったよ。メドヴェトキンはパリに来たんだ。

 そうですよね。『動き出す列車』という映画があります。

モリヴァー その通り。

 映画は見ましたか?

モリヴァー もちろん。よく覚えているよ。パソコンを替えたので、その時の写真が見つからないのだけど…。


映画『また、近いうちに』について

 別の質問をしてもいいですか?『また、近いうちに』について、マルケルが書いた文章を読みました。マルケルは『また、近いうちに』で、撮影者と被写体の間に平等な関係を築きたいと書いていました。あなたの意見では、それは成功していますか?映画を撮られていて、そのように感じましたか?

モリヴァー そう感じたよ。メドヴェトキン集団は、まさにそれを目指していたんだ。実際、マリオ・マレは、人々へのインタビューを容易にしてくれた。マレはよく労働者階級のことを知っていた。他の映画作家たちもそうだった。彼らはみな、全く気取らない人達だった。若い録音技師も労働者たちとの出会いに興味を持ってボランティアで映画を撮ったんだ。いきなりやってきた人達だったけど、とても感じがよくてみんな打ち解けていた。

東 映画制作者たちも政治参加していたのですね。

モリヴァー そう、政治参加した映画作家たちばかりだった。それに、『ベトナムから遠く離れて』という映画があるね。マルケルもそれに参加していた。『ベトナムから遠く離れて』を見たかい?

東 はい、日本では比較的知られている映画です。日本でもベトナム反戦運動がありましたから。それに、成田国際空港建設の反対運動もありました。その運動では学生と農民が連帯しました。

モリヴァー フランスでも農民と学生の連帯はあったよ。ラルザックの運動はLIPと同時期に起きた。あなたがラルザックの闘争を知っているかわからないけど、そこでは農民が多く参加したんだ。セヴェンヌというところに政府が弾薬工場を建設しようとして、そこで反対運動が起きた。すごく重要な出来事だよ。ラルザックの闘争もとても興味深いものだよ。

 つまり、全て繋がっているのですね。

モリヴァー そう、繋がっているね。LIP工場の運動と同時期に農民も立ち上がった。ただ、ラルザックは、南部の影響が大きかったね。

 次の質問です。クリス・マルケルは1967年3月のロディアセタの大規模ストライキにブザンソンに来たとおっしゃいました。マルケルは映画を67年の終わり頃に見せたのですか?

モリヴァー まず、マルケルはやって来て、それから映画制作チームをブザンソンに送ったんだ。ストライキの最中のことだった。彼はパリに帰り、ストライキを撮影するためチームを送り込んだ。ブリュノ・ミュエルとカメラマンがいた。カメラマンの名前は思い出せないが…。

 カメラマンは、ピエール・ロムではないですか?

モリヴァー ピエール・ロムもいたが、他に女性のカメラマンも数人いたんだよ。マルケルは同時に「ベトナムから遠く離れて」も作っていた。同じ年に。「ベトナムから遠く離れて」を公開して、ロディアセタ工場にも来たんだ。67年の終わりにまた戻って来た。

 そうですか、67年ですね。マルケルは「人民と文化」の一員でしたよね。

モリヴァー そうだね。マルケルは「人民と文化」の一員だった。CCPPOも少し関わっていた。違う組織だけれど。CCPPOの歴史はとても興味深いよ。

 CCPPOはいつからあるのですか?

モリヴァー 59年からあるよ。少し挑発的な意味が込められている。フランス語では、ソビエト連邦の略(CCCP)を思わせるからね(笑)CCPPOのほとんどのメンバーは共産主義者ではなかったんだけど(笑)

 クリス・マルケルは「人民と文化」を通してロディアセタの労働者たちとコンタクトを取ったのですか?

モリヴァー いや、ベルシュがマルケルに連絡したんだ。ベルシュはCCPPOの責任者で、「人民と文化」の活動家からマルケルの住所を教えてもらった。そして、ブザンソンのロディアセタ工場で面白い出来事が起きているので来てほしいと伝えたんだ。すると4ページにわたって返事が返って来た。すぐにブザンソンに来てくれたよ。そして、彼はブザンソンでの出来事に引きつけられたんだ。

 新しいことが起きていることを知ったからですね。

モリヴァー そうだね、彼が知らなかったことだからね。新しいことだった。そしてCCPPOの経験を撮りたいと思ってくれた。それにベルシュは素晴らしい人間だったからね。

▼page2 ブザンソンでの、クリス・マルケルの印象 につづく