先日までのリオデジャネイロ・オリンピックに関して、連日、日本人選手のメダル獲得が報じられるなか、日本の獲得したメダルの数が過去最高となったということが、否がおうにも耳に飛び込んできたはずだ。これらの過熱化する報道の仕方をめぐっても、近代オリンピックというものが、きわめてナショナリズムを昂揚させる装置であることがわかる。だが、そのいっぽうでスポーツとナショナリズムのかかわりにおけるネガティヴな例として、時系列をさかのぼってみれば、とあるJリーグの試合では「JAPANESE ONLY」という横断幕による人種差別が問題となり、その後の1試合が無観客試合という処分が下されたことも記憶に新しい。これは近年、つとに過熱化する反韓デモの一端にあるものと考えてよいだろうが、はたして「日本人」という言葉がスポーツにおいて強調されるとき、いかなる性質において前景化されるのかは、人種/民族をめぐる問題として根深い。ともあれ、スポーツとナショナリズムの問題は、人種問題を考えるにあたって、それらを照射する鏡のようなものとして、批評的なテクストとなる可能性があるといえるはずだ。スポーツを手掛かりに人種問題を考えること、またスポーツをめぐる事象を手掛かりに異文化を眺めなおすことはいかにして可能なのだろうか。ここでは『海峡を越えた野球少年』という1本のフィルムを取り上げて、そのサンプルとして提出してみよう。
『海峡を越えた野球少年』は、かつて夏の甲子園に出場できなかった在日韓国人の高校生を集めて「祖国」韓国で試合を行う、いわゆる「在日僑胞学生野球団母国訪問試合」にスポットライトを当てたものだ。この取り組みは、朝鮮戦争後の1956年からアジア通貨危機が起こる1997年まで続いたが、この母国訪問試合は、「在日」の高校球児にとっての甲子園に匹敵するものとなっていた。1958年には、日本通産の最多安打記録を誇る張本勲も遠征に参加するなど、かつての名プレイヤーたちが数多く名を連ねている。1971年からは、韓国すべての高校野球チームが参加する鳳凰大旗全国高校野球大会に参加するかたちで継続される。この大会は、たとえば1979年に関していえば、東大門野球場で16日間にわたり開催され、累計入場者数は49万人、1日平均では3万人が足を運んだことになる。そんな韓国の野球人気に一役買ったのが、在日韓国人たちであったというわけだ。本作は、その野球団の1982年の代表メンバーを集め、再び玄界灘を越えて「祖国」である韓国で、プロ野球公式戦の始球式を行うまでを追ったドキュメンタリーである。1982年とは、韓国プロ野球が発足した年、つまりは韓国野球が次なるステップへと踏み出した年である。この年の在日同胞の野球チームは、惜しくも決勝戦で惜敗を喫した。始球式を行う場面までが、好感のもてる淡々としたタッチで綴られてゆく。
本作では、在日僑胞学生野球団の資料的な映像と監督ほかスタッフの取材風景などが織り込まれる。主としては、残された名簿などの限られた資料や人的な伝手を使って探し出した、かつての在日僑胞学生野球団のメンバーへのインタビューと当時の映像で構成されるが、彼らの口から発せられるのは、「祖国」に感じた文化的な違和感、言語による壁、そして、前言語的なレベルでの祖国への共感である。祖国・韓国に訪れ、毎食口にするキムチに辟易としたことをハングルと日本語の混じった言葉で発せられるとき、いかなる属性にも還元不可能な人間臭さが感じられる。そして、訪れたことのなかった祖国への説明不可能な共感を示す個所などは、同調や共感すらもを容易に求めない潔さがある。「祖国」でありながら、同時に「外国」であるという葛藤を実直に語る彼らのすがたは、在日韓国人・朝鮮人をこれまで縛りつけてきたステレオタイプを通して理解してきた者からすれば、それだけで新鮮な驚きを提供してくれるはずだ。より原題の意に近いであろう英題「フィールドの異人たち」はそのことを端的に表している。
彼らの等身大の言動だけでなく、この映画は全編を通して、在日韓国人・朝鮮人の問題を扱いながらも、驚くほど政治的なニュアンスが排除された印象を受ける。実際には、1か所だけ日本での過激な反韓デモの様子が挿入されるのだが、そのフッテージは本編からいささか浮いた印象を受ける。デモに関するナレーションも解説も施されず、異物感が強調されるかのようであり、おそらくこの感覚こそが、彼ら「在日」の抱える政治的な言説への違和感なのではないかと、画面を見続けているうちに感じられてくる。一人の個人として、野球を続けたいと願った彼らが、「在日」として何らかのリアクションを求められることへの困惑……。挿入された政治デモの映像はその効果を十全に発揮している。
また、邦題において参照されたであろう関川夏生の『海峡を越えたホームラン 祖国という名の異文化』(朝日新聞社、1988年)を手に取るとき、「在日」へのアプローチに同種の手触りが感じられる。韓国プロ野球の草創期に身を投じた福士明夫、新浦壽夫ら在日僑胞出身選手を取材したこのノンフィクションの達成は、「祖国」との関係を規定できずにもがき、そこに異文化を見出してしまう対立感情が入り混じるすがたを、政治的なステレオタイプとは無関係の地平で描ききったところにある。おそらくそのステレオタイプのひとつには、在日韓国人・朝鮮人は祖国と深く繫がっており、その強い思いを支えにして、異文化における差別や抑圧と戦っているという「在日」像があるだろう。『海峡を越えた野球少年』にも、このセンチメンタルな偶像は不在である。よりリアリティのある、実態に即したすがたが描かれているといってよい。ふたつの「祖国」のあいだで揺れる野球を愛した/ているかつての「少年」たち――。
さて、少し視点を変えて、日韓の野球の交流について考えてみよう。韓国がなぜ日本に野球を求めたのかということを考えると、日本に求められたのは、野球における「近代」とでもいうべきものだった。それは具体的には、原題において確立されている野球のスタイルである。投球における細かい配球、サインプレー、そして先進的な野球用具などが、日本から韓国へと伝わった。もちろん野球という文化を発展させるためには、理想のモデルとすべきなのはアメリカである。アメリカを文化的なモデルに仰ぐ点は日本も同様だが、韓国の場合、さまざまな側面ですぐ近くの日本の影響を受けてきたことは、野球においても例外ではない。関川が述べるように、「北アメリカ大陸も日本を通して眺められることが多い。日本は韓国にとって海中に横たわる大きなレンズである。そしてそのレンズは日本の色素、または曇りを帯びている」のだ。そして、両国の文化的な影響関係の構図に、プロ野球ももちろん一例として加わるというわけだ。ドキュメンタリーで、在日韓国人として大会に参加した一人が韓国において初めてコカ・コーラを飲んだと語るエピソードは、それを比喩として解釈するとはいえ、ここで投影されているのはアメリカのイメージなのである。
近年ではWBCにおける韓国チームの躍進やMLBでの韓国人選手の活躍は著しいものがあるのは、周知のとおりだろう。そこへ至る、先進的な野球の技術を導入することが要請されるとき、「日本は憎いが、アメリカは遠い」――そんな感情が渦巻くなか、在日同胞たちはその思いを叶えてくれた。在日韓国人たちとの交流のなかで、韓国野球は成熟してゆく。韓国野球において、「在日」という人材は不可欠なものであったのだ。(その交流史については、ドキュメンタリーにも登場する大島裕史の『韓国野球の源流 玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス』(新幹社、2006年)に詳しい)。
韓国の日本への感情は複雑なものがあった。野球文化/技術の発展において招聘されたのが、在日僑胞学生というわけだが、たしかに日韓の関係は野球を通して眺めるとクリアに見える部分がある。そして、そこにある「在日」の問題もしかりである。野球が両者の関係を照射し、そして「在日」たちの心情を等身大に描き出すことを可能にする。それは韓国にとって日本がアメリカにとってのレンズであるのと同様に、野球が日韓の相互関係におけるレンズとして機能しているということだ。そのレンズを曇らせてしまうのか、あるいは鮮明な視野を獲得するのかは、私たちの認識しだいであるということになるのだろう。在日僑胞学生という鏡で辿る現代韓国史と呼ぶにはいささか大仰かもしれないが、そのための理解への端緒として、この作品があるのだということはできるだろう。これからの在日韓国人・朝鮮人の問題を考えるのに必要なのは、感情に左右されるのではない、生産的な議論の土壌づくりにほかならない。たとえば「強制連行」などの歴史的な事柄のみに縛られてしまっていては、捉えられない問題もあるはずだろう。
この作品でもっとも印象的な場面のひとつは、彼ら在日僑胞学生野球団が破顔一笑して思い出を語りあう「同窓会」のシーンである。当時から30年近くたってからの再会は、遅すぎた、という印象と同時に、このタイミングだからこそ清算できる感情があることを、私たち観客に教えてくれるだろう。記憶を頼りにかつての様子を身振り手振りで再現する彼らは、これまでの複雑な感情や思想を、饒舌に、そして柔和に語っている。
批評という行いは、必ず遅延をはらんでしまうものだ。政治や社会にアクチュアルに反応できるように一見感じられるのは、デモなどの実際の行動なのかもしれない。しかしながら、『海峡を越えた野球少年』には、先送りにされてきた問題をひもとく、批評の可能性を感じさせる。『海峡を越えた野球少年』というテクストがようやく用意された今、「在日」の問題を再検討する端緒へと辿りついた。ひとまずは、そのようにいうことができるはずだ。
【映画情報】
『海峡を越えた野球少年』
(2014年/韓国/103分/16.9/カラー・モノクロ/ドキュメンタリー)
監督:キム・ミョンジュン(『ウリハッキョ』)
出演:李孝範 姜孝雄 権仁志 金勤 裵俊漢 梁視鉄 張基浩
ナレーション:クォン・ヘヒョ(「冬のソナタ」「私の名前はキム・サンスン」他)
製作:クァク・ヨンス プロデューサー:チョ・ウンソン(『60万回のトライ』)
日本プロデューサー:力武俊行
撮影:キム・ミョンジュン、チョ・ウンソン 編集:キム・ミョンジュン 音楽:カン・サング
原題:그라운드의 이방인 英題:Strangers on the Field
© 2014 INDIESTORY Inc.
配給:スプリングハズカム
配給協力・宣伝:太秦
ポレポレ東中野にて 2016年8月20日よりロードショー!
公式サイト→https://www.facebook.com/yakyusyonen/
【執筆者プロフィール】
大内 啓輔(おおうち けいすけ)
早稲田大学大学院修士課程修了。論文に「リヴェット的反復 『セリーヌとジュリーは舟でゆく』をめぐって」、「ウディ・アレン『アニー・ホール』におけるオートフィクションの様相」など。