【Review】戦場の真実を撮る/録ることの(不)可能性―トビアス・リンホルム監督『ある戦争』text 安里和哲

© 2015 NORDISK FILM PRODUCTION A/S

かつての西部劇を思わせるようなアフガニスタンの荒野をパトロールしている兵士たちが、突然の爆音に見舞われる。兵士のひとりが地雷を踏んだのだ。彼は両足を吹き飛ばされそのまま死んでしまう。死にゆく仲間を見てパニックに陥ったり、危険な任務への不満をぶちまける兵士たちを見かねた部隊長クラウス(ピルー・アスベック)は、自らも巡回に同行することで部隊の士気を高めようとする……。

フィクション映画『ある戦争』はオープニングで、紛争続くアフガニスタンに派兵されたデンマーク軍兵士たちの置かれる極限状況を映し出す。
戦場において部隊長クラウスは、すべての判断を誤るだろう。
彼は、本来べースに留まって指揮を行うべきポジションであるにも関わらずパトロールに執心し、助けを乞うて基地にやってきた市民を自宅に帰すことで結果的に見殺しにし、そして部隊を守るために行ったPID(敵兵の存在確認)なしの爆撃要請によって11名の民間人を亡き者にしてしまうのだ。
PIDなしの攻撃は戦争犯罪として問題視され、クラウスは起訴され軍事裁判にかけられてしまう。西部劇を想起させる地とはいえそこは無法地帯ではない。兵士の行為は法によって縛られている。

このストーリーから思い出されるのは、ヤヌス・メッツ『アルマジロ アフガン戦争最前線基地』(2010 以下、『アルマジロ』)だ。
本作はアフガンの最前線基地アルマジロに派遣されたデンマーク兵士たちに密着したドキュメンタリー作品であり、兵士たちが被るヘルメットに装着されたカメラや、彼らのかたわらにいるカメラマンによって撮影されたタリバンとの戦闘が生なましく記録している。

戦場に自らの意志で赴く若者たちの動機は単純だ。「仲間と団結したい」、「大きなチャレンジであり冒険」、「人生経験を積みたい」などなど。そんな想いを家族に告げて6ヶ月間の任務に就くためアフガンに向かう青年の訓練期間は、わずか10日である。

戦場は常に戦闘状況にあるわけではないから、単調なトレーニングや退屈なパトロールに飽き飽きした彼らは、部屋でFPSの戦争ゲームに熱中したりインターネットに転がるポルノムービーを見て憂さ晴らしをする。

ある日のパトロール中、突然の銃撃音が鳴ると、伏せたカメラは一瞬空を映したあと、銃を撃つデンマーク兵士を視界に収める。

溝に隠れたタリバン兵を手榴弾で戦闘不能にした後の青年と通信兵のやりとりが衝撃的だ。

「死ね クソども」

「死んでるよ」

「上等だ」

そして銃声が轟く。
既に動かない敵兵に銃弾を何発も撃ち込む行為自体に閉口すると同時に、その音声を収録した映画が公開された事実に驚く。戦争犯罪の疑いがあるにも関わらずこの映像が我々観客のもとに届いてるからだ。
戦闘後のブリーフィング中、「4人が溝で呻いてるのを見ていたたまれなくなった。だから最も苦痛の少ない方法で4人を始末した」と報告する金髪の青年のにやけた顔と他の隊員の笑い声が不気味だ。

© 2015 NORDISK FILM PRODUCTION A/S

実は、『ある戦争』でも不気味な笑い声が荒野に響くシーンがある。射殺したタリバン兵らしき人物の顔写真をデジタルカメラで撮影しながらデンマーク兵たちは笑うのだ。戦場において、死が身近となった彼らの倫理観は著しく麻痺しており、ゆえにこの笑いは、異常者たちのそれではなく、極めて人間的な反応だと言える。

さて、『アルマジロ』ではほのめかされるに留まっていた戦争犯罪が、『ある戦争』ではひとつのテーマとして描かれている。

戦闘中に負傷した部下を守るために、PIDなしの爆撃要請を行うにあたってクラウスは、「敵の確認など不要だ!」と通信兵に告げてしまう。このやり取りは兵士のヘルメットに装着された音声機器によって録音されており、軍事法廷ではこの音声が証拠として提出されるのだが、『アルマジロ』での映像と音声が戦争犯罪を「疑わせる」程度に留まるように、『ある戦争』における音声記録も決定的な証拠とはならない。

裁判開始前、罪のない人々を死に追いやったことに責任を感じているクラウスは、裁判で無罪を主張するのをためらう。しかし弁護を担当するマーティン(ソーレン・マリン)は、「私の仕事は無罪を勝ち取ることだ。倫理観は二の次だ」と言って説得する。また、クラウスの妻マリア(ツヴァ・ノヴォトニー)も、懲役刑を受けて牢屋に入ったら子供たちへの責任はどうなるの、と彼に訴える。

ここで起こっている事態は、倫理と責任の対決だ。倫理的には、クラウスの行いは咎められるものだが、部下の命を守るという上司としての、そして子供たちを守る親としての責任を尊重したとき、裁判で無罪を訴えるのは賢明な選択になる。

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本作を特徴づけるのは、戦争における「音」の描写である。

PIDなしで行われた爆撃の音はその只中にいるような臨場感で持って迫ってくるから観客は誰もが驚くだろうし、爆撃後救出される際のヘリコプターのモーター音や、銃声も迫力がある。
しかし一方で我々の注意を引くのは問題の爆撃シーンにおいて爆撃機がスクリーンに「映らない」ことだ。
デンマークでは、ラース・フォン・トリアーやトマス・ウィンターベアらが中心となって立ち上げたアンチ・ハリウッド・プロジェクト「ドグマ95」が機能している。映画を製作するにあたって立てられた「純潔の誓い」である「ドグマ95」は映画を救うために10個の重要なルールを製作者に課す。セットを使わないこと、手持ちカメラで撮影すること、人工的な照明の使用禁止などだ。ウィンターベア作品で脚本執筆を重ねているリンホルム監督が撮った本作も「ドグマ95」の影響下にあることは明らかである。実際にアフガン駐留経験のある兵士をキャスティングしたり、つねにかすかに揺れながら兵士を追うカメラなどがその証左だ。

本作はトルコロケが行われている。おそらく爆撃シーンもトルコで撮影されており、それゆえに爆撃機を撮ることは様々な制約があり難しかったのかもしれない。そこでリンホルムは爆撃シーンを飛行音や爆撃音、すさまじい砂埃などで表現するという選択を取った。

この選択は間違っておらず、単にスクリーンに戦闘機が映る以上に、爆撃の只中にある恐怖を観客に与えることに成功している。『アメリカン・スナイパー』(2014)における砂嵐のなかの不可視性や、『プライベート・ライアン』(1999)で体のすぐ横を弾丸が通過したように感じさせた音響が、観客を不安にさせたのに通じる表現だ。

しかし一方で、観客の欲望はやはり「見る」ことであった。戦闘機から爆弾の落ちるさまをどうしても観客は期待してしまう。それを映さなかったこと、映せなかったことに対する評価は、それぞれの判断に委ねられることだろう。

ただひとつ確かなのは、戦争をパーフェクトに撮/録るのは不可能である、ということだ。かつてクロード・ランズマンが格闘した(つもりである)「ホロコーストの表象不可能性」と同様の事態は、戦争映画においても起こっている。

しかし、『サウルの息子』(2015)における「見せない」ことで想像絶する残虐なできごとを表象しようとした試みがあったように、『ある戦争』の爆撃シーンも、見せないことで表現の幅を広げている。凄惨な光景に目をつむることはできても、凄惨さをもたらす音は、耳を塞いでも聞こえてくる。どんなに性能の良い耳栓を入れたところで、爆撃機のエンジン音と投下する爆弾の炸裂音は、体を震わせる。

『ある戦争』はひとつの解答を提示することをしない。クラウスの決断や裁判の結果に是非を問うことはない。ここにはパーフェクトな解答も、戦争の全てを俯瞰する「神の視点」もありえない。ひとつ確かなのは、炸裂する爆弾の音が、劇場に座る者の鼓膜と体を激烈に震わせたということだ。

© 2015 NORDISK FILM PRODUCTION A/S

【映画情報】
『ある戦争』(原題『Krigen』)
(2015年/デンマーク/デンマーク語、アラビア語/115分/カラー)

監督・脚本:トビアス・リンホルム
プロデューサー:ルネ・エズラ、トマス・ラドアー
撮影:マウヌス・ノアンホフ・ヨング
編集:アダム・ニールセン
音響:モルテン・グリーン
音楽:スネ・ローゼ・ワグナー
配給:トランスフォーマー

公式サイト→http://www.transformer.co.jp/m/arusensou/

10月8日(土)より新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー

【執筆者プロフィール】

安里和哲(あさとかずあき)
1990年沖縄県生まれ。フリーライター。共著に『ウチナーあるある』(TOブックス、2014年)がある。批評家・佐々木敦が主宰の、「映画美学校批評家養成ギブス第二期」修了生有志+αによる総合批評誌、「スピラレ Vol.5」副編集長。