【Review】DDS2012特集『テレビに挑戦した男・牛山純一』 text 吉田孝行


『テレビに挑戦した男・牛山純一』(畠山容平監督)は、牛山純一(1930〜1997)というかつてテレビ界で活躍したあるプロデューサーの軌跡と業績について、関係者22人のインタビューと彼が制作したドキュメンタリー番組の映像引用を中心に構成した作品である。牛山純一は、1960年代に土本典昭や大島渚など個性的な映画人が活躍した『ノンフィクション劇場』(1962〜1968)や世界の文化や民族を紹介する『すばらしい世界旅行』(1966〜1990)などのプロデューサーとして、日本のテレビドキュメンタリーの歴史に一時代を築いた人物である。

この作品を企画したのは、映画監督の佐藤真であり、2001年に彼が講師をしていた映画美学校の授業で、牛山純一が制作したドキュメンタリー番組を上映したり関係者を招いて講義を行ったりしたことから制作はスタートしている。「牛山純一研究」のゼミを立ち上げ、牛山純一が残した膨大な数の作品や資料を読み解き、関係者のインタビューを交えて、「牛山純一を通じてテレビメディアの変容と時代相を映し出すようなドキュメンタリー映画」を構想したという(1)。しかしその後、佐藤真自身は、かつて牛山純一がそうであったように、この作品のプロデューサー的な役割に回り、実際の制作は受講生達が主体となって行われた。佐藤真が海外派遣で長期間日本を不在にしたことや、何よりもその突然の死によって、さらにはテレビ番組からの映像引用という著作権の問題などもあり、制作は度々困難に直面したが、当初から制作に関わっていた受講生達を中心に、10年間の歳月を経て完成させられた労作である。

牛山純一は、初期の報道から晩年の映像作品のアーカイブに至るまで、映像文化に多様な側面から関わっており、その生涯を通じて無数のテレビ番組を制作しているが、その中でも本作品が焦点を当てるのは、彼のテレビドキュメンタリーに関するエピソードである。とりわけ1960年代に、土本典昭や大島渚など若手の映画監督を多く起用して制作した『ノンフィクション劇場』は、作家の主体性を全面に出した野心的で実験的な作品を多数生み出している。本作品で引用されている映像も『ノンフィクション劇場』で放送された作品からのものが一番多い。何よりも人間を描くという姿勢、作家の主体性を重視し制作者の名前を出した署名入りの番組にするという方針、映画人との積極的な交流によるテレビと映画の横断、「ベトナム海兵大隊戦記」の放送中止事件に象徴される表現の自由の問題など、現在のドキュメンタリーの制作についてのみならず、映像表現そのものについても示唆するものが多いであろう。

本作品では、牛山純一というあるプロデューサーの軌跡と業績を通じて、創造性豊かなテレビ草創期の時代が描かれているものの、映画としての表現のあり方について感じたことを幾つか指摘しておきたいと思う。

本作品は、佐藤真が行っていた牛山純一研究からその企画が出発しているが、人物であれ、事象であれ、ある対象について研究を行うということと、映画を撮るということは、異質な行為であり、異質な態度である。むろん、ある対象について映画を撮ろうとする場合、その対象についてある程度のリサーチは必要だと思われるが、この作品は、その構想の段階から、その二つの行為、二つの態度が曖昧にされているように思われる。佐藤真は、優れた映画作家であったと同時に、優れた映画研究者でもあったわけであるが、牛山純一に対する佐藤真の当初の関心は、映画の対象というよりも、研究の対象という印象が拭えないのである。そのため、佐藤真が作家として探求した「不在の人物をどのように描くのか」といった映画的な問いがこの作品に継承されているとは言い難く、作り手の関心も、不在であれ、実在であれ、牛山純一という人物の存在に向けられているというよりも、牛山純一という人物に関する観念的なものに向けられているように思われるのである。したがって、作り手が映像的な表現と言語的な表現の狭間で揺れ動いていたことは容易に想像がつく。なぜなら、観念的なものを映像で表現することは非常に困難であり、必然的に言葉に頼らざるを得ないからである。

実際、この作品では、ショットの連鎖によってある事柄を表現するという映画の古典的な方法よりも、インタビュー、ナレーション、テロップなど、言葉で表現するという方法がとられており、視覚的な映像は言葉に従属してしまっている。作り手の意識は、ショットとショットの組み合わせによって意味を生み出して行くということよりも、すでに意味として存在する言葉をどのように繋げて行くか、ということに収斂されてしまう傾向にあり、画面に視覚を集中させる映画というよりも、言葉に耳を傾ける映画、言葉に視線を注ぐ映画に留まっているように思われる。全体として、言葉の量が多く、また質的にも異なる言葉が混在しているため、一つ一つの言葉を受け止め、一つ一つの言葉を咀嚼し、一つ一つの言葉に浸るという、自由と余裕が観客には十分に与えられていないのではなかろうか。

本作品の中心となっているのはインタビューであり、それらは「貴重な証言」という言葉で度々評されるが、この「証言」という言葉について注意深く考えてみたい。確かに、この作品の中で語られている関係者の言葉は、広義の意味で、牛山純一という人物に関する証言と言えるであろうが、例えば、戦争被害者が自らの戦争体験について語る「証言」や震災被災者が自らの被災体験について語る「証言」とは異質なものである。なぜなら、前者は基本的に、自己を語る言葉ではなく、他者についてのものであり、自己の存在を背後に背負ったような言葉ではないこと、また後者は、その言葉の背後にある歴史性や社会性をともなったある記憶やある体験と深く結びついているからである。「証言」とは、生身の人間の生身の記憶や生身の体験に基づいており、語ることによるリスクや痛みがともなうこともあるため、語り手と聞き手の長い時間をかけた共同作業や信頼関係の結果として初めて可能となるものである。しかし、この作品で語られている関係者の言葉の多くは、語り手と聞き手の関係性が構築された結果として吐露されるような言葉とは異質なものとなっており、「証言」というよりは「回想」に近いものに留まっているように思われる。

映画においては、語られる意味や情報としての言葉そのものよりも、沈黙、心の震え、息づかい、戸惑い、呼吸の乱れ、思いがけない喜び、といった言葉の背後に表出される表情や感情、さらには身振りや動作のほうが重要である場合があり、それらはまさに映画でしか表現し得ないものである。この作品に登場する関係者の人々は、基本的に、牛山純一という人物やテレビ草創期の時代について知識や歴史を伝達するインフォーマットの役割を担っており、キャメラのほうに向かって語るという姿でしか登場しない場合が多いこともあり、その表情や感情、身振りや動作は、映画的な身体というよりも語る身体の内部に留まっているように思われる。語り手の存在は、椅子に座ったバストショットで表現されることが多く、映像的に制約されているため、語る身体を越えて、映画的な身体をともなった映画的な存在として、その姿が観るものの前に十分に提示されているとは言い難いのではなかろうか。

現代のドキュメンタリー映画では、語り手に椅子に座ってもらい撮影を行うインタビューにせよ、手持ちキャメラの背後から被写体に語りかけるインタビューにせよ、インタビューのシーンがない作品はほとんど見かけられない。しかし、映画はもともと無声映画としてその表現を発展させてきた経緯があり、俳優の台詞であれ、生身の人間が発する言葉であれ、発話された言葉とは相容れない側面を持っていた。現代的な意味でのインタビューという手法も、もともと映画には存在しなかったのである。映像と言葉の同期が可能となり、映画の効果的な手法としてインタビューのシーンが日本のドキュメンタリー映画、とりわけ小川紳介や土本典昭の作品に表れてくるようになったのは1970年代以降である。そして、現在のようにインタビューのシーンが一般的な光景となったのは、撮影時間としても金銭的にも制限のあったフィルムの時代から、何時間でも無制限に撮影可能となったデジタルの時代へと移行してからである。現代においてビデオキャメラは、映像を撮る機械というよりも、スピーチにせよ、インタビューにせよ、誰かが何かを話すその言葉を記録する録音機として扱われることが多くなり、それは映画という表現において必ずしもプラスではないであろう。

また、本作品の特徴として、「一回性」や「場所性」に根ざしたショットが不在であるということも指摘しておきたい。例えば、『水俣 患者さんとその世界』(土本典昭監督1971)におけるチッソの株主総会のシーンや、『三里塚 辺田部落』(小川紳介監督1974)で逮捕された村の青年達が釈放されて村に帰って来るシーンなどは、「その時、その場所」でしか撮れない「一回性」のものである。それらのシーンは、出来事として一回性のものであり、演出によって再現できるものではない。また、偶然性とも異なるものである。「一回性」という概念は、「記録性」という概念に置き換えることもできるかもしれないが、ドキュメンタリーという表現は、「その時、その場所」でしか撮れない「一回性」のものを、いかにして撮るかということに苦心を重ねて発展してきた歴史がある。その一回性に根ざしたショットこそが、ドキュメンタリーという表現の醍醐味の一つでもあるのだが、この作品では、「その時、その場所」でしか撮れない一回性のショットは、インタビューのシーンを除けば、ほとんど皆無なのである。言い換えれば、写真や記事の物撮りにせよ、風景や建物のショットにせよ、インタビューと映像引用以外のほぼ全てのショットが撮り直し可能と思われるのである。

また、三里塚、水俣、沖縄、福島、釜ヶ崎といった地理的な空間にせよ、学校、職場、施設、公園、路上といった社会的な空間にせよ、自宅や部屋などの生活的な空間にせよ、定点観測的にせよ、旅や移動をともなうにせよ、ドキュメンタリー映画は何らかの形で場所性と深く結びついた表現形態である。言い換えれば、それは映画の舞台とも言えるのであるが、この作品には、場所性を感じさせるショットがほとんどないのである。確かに、龍ヶ崎市の図書館であれ、川崎市市民ミュージアムであれ、那須塩原市の収蔵庫であれ、建物の外観や内観を撮影したシーンは登場してくるが、それらはあくまで牛山純一に関する資料が保管されている場所であって、牛山純一が実際に生きた場所と結びついているとは言い難いのではなかろうか。

また、本作品の出演者のインタビューにおいても、その多くは、教室であれ、自宅であれ、その場所で語られる必然性は特にないと思われる。しかし、先述の「証言」においては、それを語る場所と深く結びついている場合が度々ある。例えば、被災者が避難先の避難所で自らの被災体験について語るのと、実際に被災した場所で自らの被災体験について語るのとでは、仮にその内容が類似のものであったとしても、その意味合いは全く異なるものになるであろう。実際に体験をした場所でまさにその体験を語るという行為は、その体験についての記憶をより深く喚起させるものだからであり、その行為は実際に語られる意味や情報としての言葉以上のものを語るからである。そして、その記憶を喚起させ、語られる言葉以上のものを生み出すのは、作り手の役割であり、それは度々「演出」と呼ばれるが、この作品には「演出」というものが不足しているように思われるのである。

最後に、この作品の最後のほうに挿入されているジャン・ルーシュの短いショットについて言及しておきたい。佐藤真と諏訪敦彦は、牛山純一についてのインタビュー撮影を行うために、パリにジャン・ルーシュを尋ねるが、待ち合わせのカフェに現れたのは、怪我をして顔に白いガーゼを付けた痛々しい姿の人物であった。インタビューを行ったのは佐藤真であり、キャメラを廻したのは諏訪敦彦である。仮にこれがジャン・ルーシュの遺影の撮影だったとしたら、彼らはジャン・ルーシュの前でキャメラを廻したであろうか。映画においてある人物を撮るということは、その人物の遺影を撮るということにも等しい行為であるということを、すでに私たちは土本典昭から学んでいる。あるいは、これが劇映画の撮影で、俳優であるジャン・ルーシュがそのような姿で現場に現れたとしたら、果たして撮影は行われていただろうか。海外での撮影であり、様々な事情や制約はあったと思われるが、撮影を行わないという選択肢や、怪我が治るまで待つという選択肢はなかったのであろうか。確かに、牛山純一に対して最大限の賛辞を送るジャン・ルーシュのこの短いショットは、その存在感において観るものの印象に残るのであるが、このショットが言葉以上に語るものに関して作り手の意識はやや希薄なように思われる。このショットを観るものの視線は、まず何よりもその白いガーゼに向けられてしまい、語られる言葉に集中することの妨げとなってしまうのであるが、それ以上に、ある人物を撮るということに関わる根源的な疑問が生じると同時に、映像的な表現と言語的な表現の狭間で揺れ動いた作り手の困難も感じ取らずにはいられない。

(1)佐藤真「テレビドキュメンタリー研究会と牛山純一全仕事」、佐藤真(2002)『映画が始まるところ』(凱風社)所収、174頁。

【作品情報】
『テレビに挑戦した男・牛山純一』
日本語/カラー/DVCAM/日本/82分/2012年/ドキュメンタリー
企画:佐藤真 監督:畠山容平 製作:藤本美津子 編集:秦岳志
撮影:大津幸四郎、牛山純一ゼミ生 整音:小川武 音楽:スガダイロー
配給・宣伝・お問い合わせ:牛山純一研究会(株式会社シグロ内)
電話03-5343-3103
http://www.facebook.com/ushiyamaTV

【執筆者プロフィール】
吉田孝行(よしだ・たかゆき)
1972年北海道生まれ。一橋大学大学院修了。民間企業に勤務する傍ら、映画美学校でドキュメンタリー映画の制作を学ぶ。『まなざしの旅―土本典昭と大津幸四郎』(代島治彦監督)などの制作に携わる。2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、ヤマガタ映画批評ワークショップに参加した。