【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜 中野理惠 すきな映画を仕事にして 第39話/第40話


『不思議惑星キン・ザ・ザ!』のチラシ。
裏面はこちら(.pdfファイル)

開拓者(フロンティア)たちの肖像〜
中野理惠 すきな映画を仕事にして

第40話『不思議惑星 キン・ザ・ザ』


第39話はこちら>

キン、何とかいう映画

「キン、何とかいう映画」と北條さんは首を傾げて言う。

では、と今度はモスクワに行くことにした。モスフィルムに連絡を取ると、スタジオの前にモスフィルムホテルがあるから、と予約を入れてくれる。この頃は、2月のベルリン国際映画祭に行く前後にモスクワに立ち寄っていたのだが、「キン、何とか」の時には、モスフィルムに行くためだけで、ロシアに向かった。夏だった。

モスクワ国際線専用空港

この頃のモスクワの国際線専用空港シェレメーツェボ空港はジゴクのようだった。入国審査場ではさまざまな人種の人々が列をつくらず、押し合いへし合いしていて、さながら、おしくら饅頭でもしているかのような混雑のため、空港を出るだけで一仕事だった。やっとの思いで出ると、今度はタクシーの客引きが待っている。帰国便では別の出来事が起きる。トランジットの乗客が床に寝ている事もあり、踏まないように歩かなければならない。また、ゲートが変更されることもあったので、ゲートの前で待っている乗客が減り始めると赤信号である。

ロシアは広い

それも半端な広さではない。まさに広大な大地そのものであるのを目の当たりにした。ある時、空港からモスクワ市内に入るバスで日本の大学生の一団と一緒になると、ひとりの男子学生が窓に額を擦りつけて

「ひろいなあ、ひろいなあ」

とずっと何度も何度も呟いていたことがある。

また、モスクワ市内の信号を渡るのに時間がかかるので、車線を数えたらところ片側八車線だった。記憶なので、再度行くことがあったら、確認しなければならない。

『不思議惑星キン・ザ・ザ』

モスフィルムホテルは、広大な敷地に建物が点在するモスフィルムの正面から道路を隔てたところにあった。「キン、何とかいう映画」を伝えると、すぐに笑いながら、担当の50歳代くらいの男性のサーシャさんが、

「キン・ザ・ザだ」と答え、試写をしてくれた。

言葉が分らなくても、たらーんとした雰囲気の伝わるヘンなSFだった。すると彼は、

「イギリスの業者が短い版を勝手に作ったようだから、そちらを使うのはどうか」

と言うではないか。

「いや、ちゃんとした方を日本では上映したい」

それで、現在の135分の長い『不思議惑星キン・ザ・ザ』(1986年製作/ゲオルギー・ダネリヤ監督/.ソ連・グルジア共和国共同製作/原題:KIN=DZA=DZA)を配給することになった。

今、考えると短い方にしておけばよかったのかもしれない。

http://www.kin-dza-dza-kuu.com/

15分も歩いて<近いレストラン>でランチ

いい機会だからと、『不思議惑星キン・ザ・ザ』以外にも、記録映画を中心にたっぷり試写をしてもらったところ、米ソの宇宙開発競争時代には、ずいぶん多くの記録映像が撮られていたことを知った。

ある時、サーシャさんが、モスフィルム内のレストランで昼食をとろう、と言う。

「ここから近い方と遠い方のどちらのレストランがいいか」

と聞くので、どちらも知らないからお任せしたい、と答えると

「では、近い方に行こう」

となったが、辿り着くのに所内を15分も歩いたのである。

ソ連の終焉を予感させる

ところで、字幕をつけると『不思議惑星キン・ザ・ザ』には、ソ連体制末期を感じさせる政治的メッセージが込められているではないか!それも、真正面から反体制を叫ぶのではなく、よく練られた脚本と奇抜な造形とを駆使して完成させた前代未聞ともいえるようなSF映画を通して、ぼそっと、呟くように表現しているのだ。ダネリア監督の才能は半端なものではない。もしかすると、それだけ、グルジア出身だった監督の思いが溜まっていたのかもしれない、とも思う。

日本では、翌2001年7月にユーロスペースで公開した。公開初日には<クー割引>(モギリで「クー」と言った人には当日料金を割り引く)などをして、楽しんだ。その後も、『キン・ザ・ザ』は途切れることなくパンドラで配給を続け、今年の夏には、久しぶりに新宿シネマカリテで再ロードショー(キングレコードさんと共同配給)をした。


父の介護

個人的なことになるが、2000年の手帳の年初に、御殿場高原病院の電話番号が書いてある。当時、父は、自宅介護やデイサービスを経て、入院していた。

入院前の数年間、姉の家族が毎日、面倒を見てくれていた。深く感謝している。入院前、私は週に2回、東京から介護に通っていた。朝6時17分発の一番の<こだま>で東京を出て、午後4時頃の伊豆箱根鉄道線で伊豆長岡駅を出る。だが、当時、父は既に私の顔を識別できなくなっていたのである。

筆者小学校1年の運動会。父(中)、姉(右)と

第41話に続く>

次回は1月15日に掲載します。