【連載】ドキュメンタリストの眼⑯ イオセリアーニ監督インタビュー text 金子遊

オタール・イオセリアーニ、グルジア(ジョージア)時代の60年代初頭から、50年以上にわたって映画を発表しつづけている世界的な巨匠である。『落葉』(66)、『歌うつぐみがおりました』(75)など、グルジア時代の4作品はソ連当局から上映禁止処分になった。79年以降はパリを拠点に映画を撮りつづけ、近年は『素敵な舟と歌はゆく』(99)や『月曜日に乾杯!』といった人間讃歌の作品で人気を集めている。

そんなイオセリーニ監督の映画にも、近年の内戦やテロで情勢が不安定となる世相が反映されている。前作『汽車はふたたび故郷へ』(10)では、ソ連時代の検閲の問題を取りあげ、新作『皆さま、ごきげんよう』(15)では、グルジアの内戦やヨーロッパの移民問題がその映画世界に入りこんでいる。編集委員の金子が、82歳で来日して昼間からブランデーを片手に受け答えするイオセリーニ監督に話をうかがった。(構成・写真=金子遊)


——『汽車はふたたび故郷へ』では、グルジア国内で映画を撮っていた青年がソ連中央の検閲に辟易とし、パリへ亡命する姿が描かれています。自伝的な物語であり、イオセリアーニ監督も1979年にパリへ移住しています。『歌うつぐみがおりました』(70)や『田園詩』(76)までの時代における、あなたの映画に対する当局の検閲と、あなたが実人生でパリへ移民、または政治亡命した経緯を話していただけないでしょうか。

イオセリアーニ わたしはソ連の検閲する当局側に対して、いろいろと意地悪をして困らせました。冷酷なほどの検閲を受けましたが、検閲する側の人たちも人間です。自分たちの検閲に対して、簡単に言うことを聞いて規則を受け入れる人たちに対して、まったく敬意を払わなかった。当局は注意深くわたしのことを監視し、彼らに対して譲歩するかどうかうかがっていました。国家が予算をだして映画をつくっていたので、わたしの映画は反ソ連的はありませんでした。そんなことは不可能です。『歌うつぐみがおりました』など、わたしのグルジア時代の映画は、ソ連が不在の非ソ連的な映画だったといえます。まるで、それまでソ連が存在しなかったかのような映画をつくっていた。当局の人たちも、わたしが映画を完成させる可能性を与えてくれました。でも、映画が完成したときには上映禁止になることには確信をもっていた。その映画が30年後や40年後の世界で復活することを、彼らも理解していたのでしょう。

当局による検閲は、わたしや同僚の映画人たちにとって、誠実で正直であるかどうか試される試練の機会でした。当局の人たちは、生き延びるために嘘をついて、屈服する人たちを嫌っていた。彼らが好んだのは、ゲオルギー・シェンゲラーヤ、アンドレイ・タルコフスキー、グリゴーリ・チュフライらの映画です。ゴルバチョフが政権をとったとき、ソ連の過去のできごとを扱う映画の製作が許可されるようになった。しかし、わたしたちはニヤニヤしていた。なぜなら、それ以前からそれは可能なことだったから。自分の映画がソ連で上映禁止になると、人びとから尊敬されます。むろん実生活の面では悲惨でした。自分がした仕事に対して、給与が支払われることはありませんでした。

——あなたの映画には、アンドレイ・タルコフスキーがイタリアで『ノスタルジア』を、スウェーデンで『サクリファイス』を撮ったように、旧ソ連から亡命した映画作家の映画という面がありますよね。ところが『汽車はふたたび故郷へ』がおもしろいのは、主人公の映画作家がグルジアからヨーロッパへ移住して、そこで映画を撮っていると、今度は当局の検閲ではなく、プロデューサーたちがお金や興行という面から、監督にいろいろと口を出してくる。どこへいっても、それほど変わらないわけです。それで、またグルジアへノコノコと戻ってきてしまう(笑)。

イオセリアーニ ええ。そのときの顛末をお話ししましょう。あの時代、アンドレイ・コンチャロフスキーやニキータ・ミハルコフ、それに他の映画監督たちは、ソ連の共産主義を讃える映画をつくっており、グルジアにもそうした若者たちが多くいました。わたしの映画は『四月』(62)からはじまって、4本連続で上映禁止になった。まわりの人たちは「もうこれで充分だろう。外国へ行きなさい」と言い、出発を余儀なくされた。しかし、これはひとつの罠でした。当局はわたしがいったん外国へ行って映画をとれば、そこで暮らすようになり、二度と戻ってこないだろうと考え、厄介者を体よく追い出したかたちになったからです。わたしはフランスで『月の寵児たち』(84)を撮り、それから何本か短編映画をつくりました。その後、フランスに留まるかわりに、またグルジアに帰ってきました。映画の世界で権威的な地位についていた人たちは、わたしが戻ってきたのを見て歯ぎしりをした。彼らがわたしの立場であったら、みんなフランスにとどまったことでしょうね。

わたしがグルジアにもどったとき、ペレストロイカの時代がはじまりました。映画はもはやプロパガンダである必要がなくなり、そのために政府から補助金がおりることもなくなった。すべての撮影所が実質的には閉鎖状態に陥りました。モスフィルの撮影所でも、グルジアの撮影所でも、中庭にお腹をすかせた野良犬が走っているだけ、という光景になったのです。わたしは映画を撮りつづけたいと思ったので、フランスに戻りました。そこで撮った作品が『そして光ありき』(89)です。それから、ふたたび映画が存在しなくなっている旧ソ連にもどりました。その後またフランスに戻り、『蝶採り』(92)という作品を撮りました。現在、映画製作のための資金を国家から引き出せるのは、プーチン大統領に奉仕している人たちだけです。あまり尊敬できることではないが、ニキータ・ミハルコフはプーチンの親友になりました。彼の父親は、ロシア国歌の作詞をした人です。共産主義時代の貴族だったといっていいでしょう。

わたしの他にもう1人、旧ソ連で正直だった映画人がいます。『灰色の狼』(74)や『白い豹の影』(84)を撮った、キルギスのトロムーシュ・オケーエフ監督です。グルジアとキルギスタンはとても離れていますが、わたしたちは友人でした。トルコへ行ったときに驚いたのは、オケーエフが在トルコのキルギス大使になっていたこと。「君がグルジア人でないのが残念だ。そうであれば映画が撮り続けられたのに。あるいは外国語がしゃべれれば、外国で映画を撮ることもできたはずだ」とわたしはいいました。すると、オケーエフは「だけど、わたしはトルコ語を話すことができる。トルコには映画がないから仕方ないな」といいました。オケーエフはすばらしい映画を2本残して、55歳で亡くなりました。

『皆さま、ごきげんよう』©Pastorale Productions- Studio 99

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