2000年頃の筆者
開拓者(フロンティア)たちの肖像〜
中野理惠 すきな映画を仕事にして
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第39話 映画大国ロシアをたずねて
『フルスタリョフ、車を!』のプロデューサーに製作費を尋ねたところ、返事は―
「ロシア側の経費は不明だ」「あの国はそういうものらしい」
このセリフは17年経った今でも表情と共によく覚えている。それから15年後の2014年、必要があり、セリグマンさんにメールを送ったところ、きちんと返事を送って寄越した。フランス人もなかなかつき合えるものだ。
凄まじい勢いの源泉
さて、『フルスタリョフ、車を!』の勢いはどこから出てきたのだろうか。遺作というか、ゲルマン監督が亡くなった(2013年2月)後、息子が完成させた『神々のたそがれ』(2013年)も177分と長尺であり、相変わらず訳の分からない部分が多いのだが、『フルスタリョフ、車を!』の勢いにはかなわない。当時は思いが至らなかったのだが、あの勢いの根底には、もしかするとソ連の政治体制へ怒りがあったのかもしれない。完成年の1998年は、既に崩壊していたとはいえ、ソ連崩壊後10年は経っていない。それに企画はもっと以前から考えていたのだろうことを考えると、共産党政権下で育った彼は、怒りや矛盾を感じていたのではないだろうか。
それにしても、タルコフスキー、ソクーロフ、ゲルマンと、ロシアはとんでもない才能を開花させる国だと思う。
『フルスタリョフ、車を!』プレスの表紙
共産党幹部にしか住めない
書いていて、別のエピソードを思い出した。1990年代初頭のある日、東京都心のある超高層マンションの前に立ち、建物を見上げたソクーロフが、
「素晴らしい建物だ。こんなところに住めるのはロシアでは共産党幹部だけだ」
と言ったのである。
「ロシアでいま、映画はどうなっているのか?」
そういえば、『フルスタリョフ、車を!』を配給した時に「ロシアでいま、映画はどうなっているのか?」を発行した。『八月のクリスマス』公開時に「21世紀をめざすコリアンフィルム」(第29話参照)を発行した時と同様、ロシア映画の歴史と、将来に続く層の厚さをこの機会に紹介したかったからだ。
取材も兼ねて、ペテルブルクに行く際には、「ロシアでいま、映画はどうなっているのか?」以外の市販の雑誌でも、ロシア映画の現状を伝えてほしいと思い、田畑さんと立田さんという二人の女性のフリーライターを誘い、ソクーロフ監督やゲルマン監督を始め撮影所の人たちにもインタビューをした。
レンフィルムを訪ねる
レンフィルム(旧レニングラードにある撮影所で、都市の名称がサンクト・ペテルブルクとなった現在も、撮影所の名称はレンフィルムのままである)に、専属のオーケストラがあったのに驚いたが、当時、物資そのものというより、物資の流通機構が充分に機能してなかったからだろうか、通路やトイレの灯りが暗く、あるいはついていなかったり、トイレットペーパーのかわりに、新聞紙などが置いてあった事もあった。そのような状態であるにもかかわらず、映画の製作を続けている事にも驚いた。
『フルスタリョフ、車を!』のチラシ
裏面はこちら(.pdfファイル)
400頁を超える「ソクーロフ」を発行
この訪問の際に、ぶあつい1冊の本をソクーロフから手渡され、彼の大学の同級生(だったと思う)で、書籍編集者のアルクスさんを紹介されたのだったと思う。ソクーロフの創作の背景を実に丁寧に編集した本で、後に「ソクーロフ」との書名でパンドラから邦訳を発行した。この編集作業は相当困難だったのだが、残念ながら詳細を覚えていないが、濃赤の縁のメガネをかけたアルクスさんの丸みを帯びた顔立ちは、よく覚えている。
ペテルブルク~風格ある街
ペテルブルクは、ゆったりとした通りに歴史の厚みを感じさせる風格のある建物が並ぶ、素敵な街で、大好きになった。「ロシアでいま、映画はどうなっているのか?」の取材の合間に、アレクサンドル・ネフスキー大寺院に至るネフスキー大通りを行き来した。すると、入り口が道路より下に位置している建物がいくつもある事に気づいた。ショーウィンドーを見降ろすようになるのだ。聞くと、新しい為政者になると道路を上に重ねるそうで、時が経つに従い、徐々に入口より道路が上になるとのことだった。
これを機に、ロシアに行く機会が増えた。そんなある日、ユーロスペースの北條支配人から
「なんだか、ヘンな題名の映画がある」
と言ってきた。
<第40話につづく>
中野理恵 近況
来年公開作品『百日告別』(台湾映画/2月25日(土)から渋谷ユーロスペース)『娘よ』(パキスタン映画/3月25日(土)から岩波ホール)の準備に追われている。中でも『娘よ』は日本で初めて劇場公開されるパキスタン映画なので、資料の作成にうんうん唸る毎日。
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