1999年頃 真ん中は筆者、右は友人の吉岡さん
開拓者(フロンティア)たちの肖像〜
中野理惠 すきな映画を仕事にして
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第38話 レンフィルム祭と『フルスタリョフ、車を!』
2000年問題
2000年を迎える前夜は大騒ぎだった。コンピュータ上では、西暦は下二桁表示を慣行としていたために、1900年も00年、2000年も00年となるために、混乱を生じるのではないか、とマスコミで連日報道していた。私たちもお正月休みに入る前は、バックアップのために、書類や映画や書籍の資料を保存のために印刷し、と時間をかけて、例年とは異なる新年への準備をした。だが、一夜明けても二夜明けても何も起こらなかった。と、ここまで書いて、米国の大統領選挙でトランプ大統領誕生のニュースが入ってきた。世界に激震が走った。あまりの衝撃で何も手が付けられない。イギリスのEU離脱といい、世界が融和ではなく分断の方向に向かい、戦争を求めているようなイヤな予感がしてならない。
レンフィルム祭
トランプショックから3日経った。
さて、『フルスタリョフ、車を!』の監督アレクセイ・ゲルマンは、生涯に長編6本しか残さなかった寡作の監督であるが、偶然『道中の点検』(1971年)『戦争のない20日間』(1976年)『わが友イワン・ラプチン』(1984年)の3本を1999年以前に見ていた。いずれも傑作だと思ったが、中でも『わが友イワン・ラプチン』は、ロシアにもハードボイルドがあるのだ、と驚いた記憶が残っている。
レンフィルム祭のプログラムの表紙
【蓮實重彦氏の序文(.pdfファイル)】
【上映作品など】
※クリックすると開きます
ゲルマンとソクーロフとカネフスキー
『戦争のない20日間』は、1992年6月に有楽町朝日ホールで開催された<レンフィルム祭>(国際交流基金や川崎市市民ミュージアム、朝日新聞社など多数の組織による共催)で見た。記憶にあるゲルマン監督に間違いがないのなら、上映時に登壇した時のものだ。ずんぐりむっくりしていて、酔っているのか、体調不良なのかわからないのだが、ホールの後方座席から見ると、モソモソっと登壇して、ふらついているようで、話す言葉も不明瞭だった記憶だ。レンフィルム祭では、その他に、ソクーロフ監督の『日蝕の日々』(1988年/後年、パンドラで日本配給権を取得して『日々はしづかに発酵し・・』の邦題で劇場公開した)と、カネフスキー監督『動くな、死ね、蘇れ』(1990年)も堪能したが、カネフスキー作品の日本配給権は、他社が交渉するとわかったので、諦めた。
公開されるアテがなくても映画をつくれる
レンフィルム祭は時宜を得た素晴らしい企画で、見ごたえのある作品ばかりであった。作品と同時に、ソビエト崩壊時にさえ、政府が映画製作に資金を拠出していた事実には驚いた。ソクーロフなどは第一回監督作の『孤独な声』(1978年)が、当局により上映禁止処分を受けて以後、上映される機会のない映画を、僅かとはいえ作る機会があったのだから、更に驚く。
『道中の点検』と『わが友イワン・ラプチン』は、いつどこで見たのかを覚えていないのだが、見た後、新聞記者と話した記憶が残っているから試写室で見たのだろうが、誰が何のためにその機会を設けた試写だったのだろうか。
『フルスタリョフ、車を!』
『フルスタリョフ、車を!』を最初に見た時のことが、全く記憶になかったので、ウィキペディアで検索したところ、1998年の東京国際映画祭で上映していたことがわかったから、その時に見たのだろう。モノクロで142分と長尺だった。何が何だかわからなかったのだが、凄まじい勢いだったことと、見た後、某全国紙のKさん(映画担当ではない)が「あれはいい」と感想を言っていたことだけは覚えている。
凄まじい勢い
わけのわからない映画だったのだが、それまで見たどの映画もかなわない程の勢いの強烈さと、主人公を演じた役者の坊主頭の怪異な容貌が、いつまでも記憶に残ったので、映画の背景を調べたところ、ロシアではよく知られている事件、スターリン時代に起きた<ユダヤ人医師団陰謀事件>をベースに作られている、とわかった。また、この題名は原題の邦訳なのだが、スターリンがお抱え運転手に向かって、いまわの際に発した言葉だそうだ。なので、公開時の邦題は直訳のままと決めた。
契約の際(公開が2000年6月だったから、契約はその前年だと思う)、プロデューサーの事務所(パリだったと思う)を訪ねたことは覚えている。わざわざこのためにだけでフランスに行くはずはないので、ベルリン(2月)かロッテルダム(オランダ/1月)かロカルノ(スイス/8月)の国際映画祭に行く前後に立ち寄ったのではないか、と思う。この頃は、ベルリンとロカルノの映画祭が気にいって、ほぼ毎年、行っていた。
プロデューサーの言ったこと
『フルスタリョフ、車を!』のプロデューサーは、ギー・セリグマンという名前だった。インタビューも兼ねて話をした際、この映画の製作費を尋ねたところ、帰ってきた答えは17年経った今でも忘れられないものだった。
<つづく。次回は12月15日に掲載します>
中野理恵 近況
5月に公開した『シアター・プノンペン』のソト・クォーリーカー監督が、国際交流基金による、アジアの三監督によるオムニバス映画製作『アジア三面鏡』の完成披露のために、再来日した。
東京国際映画祭のプロジェクト<アジア三面鏡>の監督の一人、『シアター・プノンペン』のソト・クォーリーカー監督(右)、
夫のニック(後ろ)、筆者(左)。