【Interview】自身の人生を変えた「告発」の決め手――『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』物語のモデル、サイヤド・アーミル・ラザ・フセイン氏インタビュー text 若林良



現在、『ノー・マンズ・ランド』などで知られる名匠、ダニス・タノヴィッチ監督の『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』が全国で公開されている。2014年に完成しながら、一般公開は日本が世界初となるいわくつきの本作。それもそのはず、本作はパキスタンにおいて、実際に大手グローバル企業が起こした粉ミルクによる乳幼児死亡事件、および一人のセールスマンによるその告発を題材とした、“タブー”に挑んだ作品なのだ。満を持しての公開を迎え、事件の背景には何があったのか、なぜ、セールスマンは告発を決めたのか――。本作のモデルとなった、今はカナダで暮らすサイヤド・アーミル・ラザ・フセイン氏に、Skypeで合同インタビューを行った。(取材・構成=若林良)

――『汚れたミルク』の一般公開は日本が初めてとなりますが、舞台となったパキスタンでの公開の予定はありますか。また、ラスタ(映画での企業名。実際に告発を受けた企業名とは異なるが、以降「ラスタ」と表記する)は現状、日本国内で粉ミルクを販売してはおりませんが、そのことが、日本が本作の初の公開国になったことと関係があると思われますか。

パキスタンでの公開については、プロデューサーからも聞いていませんし、現状その予定はないでしょう。ラスタの商品が現状日本で普及していないということは、理由の一部ではあるかもしれません。しかし、少なくともラスタは、海外での公開を好ましく思ってはいなかったと思いますし、国際的な企業であるがゆえに、日本での公開も難しかったと思います。それだけに日本での公開が決まった時は、とても嬉しく思いました。

改めて、日本の配給会社ビターズ・エンドが勇気のある一歩を歩んでくださったことに対して、私や私の家族、映画の制作陣、すべてに代わって感謝したいです。私にとってこの映画はエンターテイメントではなく、赤ちゃんと母親の権利、また人間の生死に関わる作品だと思っています。それだけに日本の劇場公開には、本当に感謝しています。

――映画化のプロセスについてお聞きします。扱っているテーマがテーマだけに、実現に移すには困難がつきまとっていたと思うのですが、どのように形になったのかをお伺いしたいです。また、タノヴィッチ監督とは連絡はとられていたのでしょうか。

2001年の初めごろ、プロデューサーのひとりであるアンディ・パターソンさんから連絡をもらったことがそもそもの出発点でした。それからちょっと時間がかかったんですけど、2006年にはじめてダニス・タノヴィッチ監督に英国でお会いして。その時に自分の話を映画にして欲しいと訴え、賛同をいただきました。ラスタは世界の市場の40%を占めている巨大な企業です。それだけに、やはり映画化は難航し、結果的には制作に、10年以上の歳月を要しました。タノヴィッチ監督は2006年に英国でお会いした後、2007年にもいろいろと聞きたいことがあるということで、英国にいらっしゃっています。その後トロント映画祭でプレミア上映があって、その関連で2013年頃にもお会いする機会がありました。ですので、監督にお会いした回数としてはそこまで多くはないんですけど、その間も質問があれば常に電話やメールを使って、答えるようにはしていました。

――映画の内容についての質問です。劇中では実際の企業名は伏せられるなどの変更点はあるとは思うのですが、自身の分身とも言える「アヤン」という人物について、思ったことをお伺いできればと思います。

『汚れたミルク』を私は20回は見ているんですけど、イムランさんは素晴らしい演技をしてくれて、それには大変感謝しています。特に表情が素晴らしかった。企業名については法的な理由から変えることが求められていたんでしょうけど、自分のキャラクターについては、たとえば家族との細かい関係性とか、90分で描ききることはできないわけですよね。むしろイムランさんは私ではなく、「アヤン」という人物の人生を映画で生きてくれたのではないかと、映画を見て感じるようになりました。

――フセインさんはカナダで難民申請をした時に、「難民の資格がない」として、政府から却下をされました。その理由について、ラスタがフセインさんのおっしゃったような行為に走ることはありえないと。パキスタンの家族が正体不明の人間に銃撃されたことについて、ラスタのような大企業がそうした凶行を行うことは考えられないという見解を示していました。

その通りです。2000年に難民申請をしたときにカナダからは受け入れられませんでした。当時の自身の仕事、ラスタの粉ミルクの問題、家に鳴り響いた銃声など、さまざまな経緯をきちんと説明はしたんですけど、難民申請の機関が、あなたは信頼に足りる目撃者ではないと。ラスタは国際的な大企業で、あなたが言っていることは到底信じがたいと言われたんです。その結果、家族や子どもたちとは7年間会えない状況を余儀なくされたので、申請の不許可によって、自身が受けた傷は大きかったと感じています。結局、3回ぐらい再申請をして、ようやく許可を受けました。トロント映画祭の時にふたり議員の方が来てくださったんですけど、その時にやっと、カナダ市民としての証書をもらったんですね。難民申請のシステムについては、あらためて考慮する必要が絶対にあるはずです。

ただ、もちろん憤りは感じていますが、14年たって、やっと自分の努力が認められたことには大きな喜びを感じています。映画を通して自分のことを信じてもらえた、認識してもらえたというだけでも、充分な想いです。ヨーク大学の教授たちがいろんな手紙を送ってくださったことや、私への応援をしてくださったことも、私の精神的な支えになりました。

――ラスタは粉ミルクをパキスタンで販売する際に、薄めてはいけないとか、母乳が出なくなる可能性があるとか、清潔な水を使うべきなどの指導をお母さんたちに行っていなかったのでしょうか。またファイルを受け取っていた医師の方たちは、粉ミルク危険性に気づいていたのかについて、お聞きできれば幸いです。

お母さんたちにはそういう指導はされていませんでした。セールスマンの仕事というのは、お客さまにこれを導入してくれと説得すること。パッケージを見てみれば、使用方法はウルデゥー語、それから英語でしか書いていないんですね。それが読めるお母さんがどれくらいいるのかどうか。衛生面に触れることもありませんでした。覚えているのはトレーニングを終えたあと、自己紹介をすること。ラスタから来ました、粉ミルクがベストですということをものすごいスピードで言うんです。だから相手は右から左へそれを聞き流す。それが1994年ごろの私たちでした。医者の場合は、母乳がいちばんいいということがわかってはいるんですけど、賄賂が発生するんですね。物品、それから金銭が満たされると、医者は自分の特になることしか考えなくなるので、子どもの健康といったことに気を使わなくなってしまうんです。お母さんたちにただただ粉ミルクを進めるという風になっていて。

私の記憶の限り、お母さんに情報をシェアするようなプログラムは一切なかったと思います。ただ、お母さんたちに粉ミルクのプロモーション自体は行っているんですね。母乳代用品販売流通に関する国際基準に違反している行為なんですけど、場を設けてお母さんとやりとりしながら、賢そうな赤ちゃんの写真をピックアップして、粉ミルクを飲めばこんな感じになりますよ、という感じで商品をすすめていて。単純な利益追求でしか、組織は動いていなかったと感じています。

――粉ミルク問題はラスタが私益を追求したことから始まったと思うんですけど、国のシステムとして、そういった暴走を止める努力は行われなかったのでしょうか。

政府はむしろ、ラスタを擁護する姿勢であったと思います。ドイツに渡航後、ミルキングプロダクトという著書のローンチを行ったんですけど、はじめてパキスタン政府からの反応があったのはその時でした。しかし、そこでの反応は、私にとって芳しいものではありませんでした。「我々は多国籍企業の権利を守る」という内容だったんですね。一連の告発は、NGOが悪意を持ってはじめたものであると。証拠は一切ないし、国としては多国籍企業への投資を誘致し、彼らのビジネスを守っていく所存だと。私のやっている行為はラスタに対する風評被害を起こす、個人の私怨によるものだとまで言われました。ただ名誉棄損などに発展すると、メディアに悪い意味での注目を浴びるのでしないだけなのだと。

ただ、その後メディア露出をはじめて、2002年ごろにイギリスの下院でお話しする機会もあったのですが、その時にパキスタン政府が、母乳代用品販売流通に関する国際基準をちゃんと法制化したというニュースを耳にしました。祖国から離れて久しくはありますが、私の行動によって、少なくとも法律になったことについては良かったと思っています。

© Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014

――告発の背景について、お伺いできればと思います。たとえばご自身が父親になったことや、実際に乳幼児が苦しんでいる現場を見たことなど要因はさまざまであると思うんですけど、告発の決め手となったことと、その当時の自分をふりかえって、今のご自身はどのように思われるかについて、教えていただけますか。

当時、私は27歳だったんですけど、パキスタンで多国籍企業、特にラスタのような企業で仕事を得られたことは特権であったわけですね。給与には恵まれていますし、ラスタに勤めているということは、発展途上国のなかでは大きなステータスでもあったんです。

転機としては、家でちょっとした事件が起きたことです。ちょうどふたり目の子どもが生まれる時期だったんですけど、息子が床で転んで頭に怪我をしたんですね。たいしたものではなかったんですけど、心配であわてて病院に連れていきました。その間に妻も戻ってきたんですけど、家に夫も息子もおらず、血が床についていて、これはどうしたことだと。後で聞いたことですけど、靴もはかずに外で泣いていたそうなんです。自分たちの文化では、女性が混乱して外で泣くようなことはしてはいけないことで、それだけに、彼女にとっても相当に心を揺さぶられたのだろうと。実際には2針縫うくらいの怪我ですんだんですけど、その時に「親としての痛み」を改めて認識したんです。

しばらくして、目の前で生後4ヶ月くらいの赤ちゃんが亡くなるのを見て、これは自分たちのせいなんだと言われました。そこではじめて、自分たちの売っていた商品の副作用について聞かされたんですね。1ヶ月くらい悩みましたが、辞めるしかないという結論に至りました。ですから、いちばん大きかったのは、自分が父親になったことであると思います。
今ふりかえると、自分の人生にはふたつの分岐点があったのかなと。ひとつは内部告発をし、国外に出ることになったこと。それは本当に辛いことでした。自分の妻や子どもたちと7年間も離れ離れになり、その間に両親が亡くなってしまって。誰も自分のことはわかってくれないんだと、絶望にくれた時期もありました。
しかし、この映画ができたことで、私の人生はまた新たな分岐点に突入したと感じています。映画を通してひとりでも赤ちゃんを救えるのであれば、やってきた価値はあると思っています。父と母はもう亡くなってしまいましたが、『汚れたミルク』を見たら私のことを誇らしく思うでしょうし、この映画は、私をサポートし続けてくれた彼らへのオマージュにもなっています。また、妻の支えなくてもこの映画はありませんでした。監督やプロデューサーへの感謝はもちろんですが、最後に、妻への感謝を改めて申し上げたいと思います。本当にありがとう。

© Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014

【作品情報】

『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』
(2014年/インド=フランス=イギリス/原題:Tigers /94分/シネマスコープ)

監督:ダニス・タノヴィッチ
脚本:ダニス・タノヴィッチ、アンディ・パターソン
撮影:エロル・ズブツェヴィッチ
編集:プレールナー・サイガル
音楽:プリータム
出演:イムラン・ハシュミ、ギータンジャリ、ダニー・ヒューストン、カーリド・アブダッラー、アディル・フセイン

公式サイト http://www.bitters.co.jp/tanovic/milk.html
配給:ビターズ・エンド

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【執筆者プロフィール】

若林良(わかばやし・りょう)
1990年生まれ。映画批評・現代日本文学批評。専門は太平洋戦争を題材とした日本映画。またジャンルを問わず「社会派」作品全般。