【Review】鮮やかな手さばき〜小森はるか監督『息の跡』text 長谷部友子

東日本大震災から6年が経つ。震災について多くの人が様々なことを言ったが、私は未だその言葉を素直に聞けずにいる。喪失の悲しみ、原発や政府への批判、利権をめぐる言説、時が経つにつれ被災者を非難する言葉があり、また被災地を離れた場所では過去の出来事を不用意に蒸し返してくれるな、日々の生活に疲れているのだから勘弁してくれといった言葉もある。私はどんな言葉も間違っているとは思えなかった。けれど多くの言葉はどれもうるさすぎて、そしてどこか胡散くさく、私の混乱を深めた。その言葉たちは政治的でお行儀がよく、あるいは直情的で非難と悪意に満ちていた。中立であろうとする言葉もあった。けれどそれもまた自身が冷静であり正統であるという言外の主張がにおい立っていた。どれも信じることができず、どれもが違うことだけは感じていた。

 『息の跡』に出てくる佐藤さんは、陸前高田に住む初老の男性で、プレハブ小屋でたね屋を営んでいる。お店の周囲にはあまり何もない。「あの津波」で佐藤さんの家は流され、ご近所さんや顔見知りの人たちも亡くなってしまった。佐藤さんの毎日は忙しい。家が流されてしまった場所に自力でプレハブ小屋を建て、たねやの仕事をし、独学で学んだ英語や中国語で「あの津波」についての記録を書く。

佐藤さんは言う。佐藤さんの家は津波ですべて流されてしまった。だから柱だけでも残っている家を羨ましく思ったと。柱だけ残っても住めるわけでもないのに、それでも羨ましく思う。その気持ちは経験した人でないとわからないのか。被災者は被害の大きさを比べあうものではないし、私たちはみな同じように悲しい。しかしそれぞれの人の苦しみが深くて異なっている。それはどう言えばわかる? 日本語ならわかるのか? 英語で書かれればわかるのか? どうすれば伝わるのかと。

佐藤さんは起こった出来事を書いて残したいと言う。過去の津波の記録は津波の度に流されてしまい正確には残っていない。二度と流されることのない正確な津波の記録を残すべく、佐藤さんは突如外国語で書きはじめる。一見荒唐無稽な行動にもみえるが、その切実さはこの上なく確かで正しいもののように思えた。津波によって失ったものを語り、津波についての知識を深めるが、政府や原発を批判するわけではない。自分が見たことを正確に語り、そして自分が知らない津波について必死に調べていた。そこにあったのはそんな言葉たちだ。


そんな佐藤さんを撮り続ける監督の視線に、私は奇妙な直感を覚えた。誤解を恐れずに言えば、この監督は伝えたいことが何もないのではないかと。そして私は監督の伝えようとしないその態度をこそ信頼しているように思えた。ドキュメンタリーという、二言目には何がテーマだ、何を伝えたいのだと呪いのような質問攻めにあうような分野において、なんとも奇妙な思いつきではあったが、監督のインタビューを読み、自分があながち間違っていないのではと思った。

 私自身が「何か伝えたい」というものはない気がします。佐藤さんのことを「こんな人がいますよ」と伝えたいわけでもないし、「陸前高田はこんなに大変です」と伝えたいわけでもない。 

ただ津波のあとの5年という時間に、佐藤さんがプレハブ小屋で「たね屋」を営んでいた。あの時間は「幻だった」というくらい、もう立ち現れることではない。 [1]

 佐藤さんは伝えたいと言い、監督は伝えたいものがないと言う。両者は反対のことを言っているようで、同じことを言っているように思える。

「主張」は貧しく、「考え」は誤る。「正しさ」は簡単に反転する。 真摯さ、誠実さといった言葉は使い古され、私にはどうもしっくりことないが、佐藤さんと監督の素直さと何かを模索しようとする鮮やかな手さばき。

記録しようとする時、そこに立ち現れる意思とは何なのだろう。私たちは正確に記録したいと思う。そしてそれ以上に自分が正しいことを正統であることを証明しはじめる。自分の正しさを主張したいという欲望を超えた表現、厳密に言えばそんなものはないのだろう。筆を持ち、カメラを構えた以上、真っ新だなんて主張は許されない。けれど筆を持ち、カメラを構えてなお、その姿勢を持ち続けることはできるのかもしれない。素直でありながら油断なく、考え抜き、主張ではなく提示を。無造作で簡単なように見えるが、それこそが難しく、そしてそれゆえに多くを伝える。

私にはこれが震災をめぐるドキュメンタリーには思えなかった。これは表現し伝えるという困難をめぐる物語だ。

 それにしても、どうして佐藤さんは日本語では書かないのだろう。最後に残されたその謎はこの映画をはっとさせるミステリーにもしてくれる。

「人はある国に住むのではなく、ある言語に住む。祖国とはまさにその言語であり、それ以外の何者でもない」と言ったのはルーマニアの哲学者シオランだ。彼は祖国ルーマニアからフランスに亡命し、母国語であるルーマニア語を棄てた。人は言葉で思考し、言葉で出来事を記録し、記憶する。母国語とは角膜に、舌に、脳に張り付いたフィルターのようなもので、それを介してあらゆる事柄を把持する。母国語とは自分の輪郭をつくりだす、逃れられないものだ。

佐藤さんの家は流され、家財一式を失った。多くの人の命が失われ、故郷は破壊された。その上でなお、母国語で記録することをどうして放棄したのだろう。その理由が明かされる時、生きるということの凄みを見た気がした。日常を丁寧に生活するということ。そしてその日常が簡単に翻ることを予感すること。その上で、強く確かに生きてしまうということ。

[1] https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/170131/

 

写真は全て©2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA

【作品情報】

『息の跡』
(2016年/93分/HD/16:9/日本/ドキュメンタリー)

各地で上映中
公式サイト:http://ikinoato.com/

監督・撮影・編集:小森はるか
編集:秦岳志
整音:川上拓也
特別協力:瀬尾夏美
プロデューサー:長倉徳生、秦岳志
製作:カサマフィルム+小森はるか
配給・宣伝:東風

【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe
何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。