【Review】イメージを<経る> 七里圭監督『アナザサイド サロメの娘 remix』 text 永井里佳子


映画を音から作ったらどうなるか―「光も音も同じメディアに情報として記録されるようになった今、映像からサウンドトラックを意識的に引き離し、同期することを体験してみよう」(1)というコンセプトによる一夜限りのライブ上演『映画としての音楽』(2014年)から、プロジェクト「音から作る音楽」は始まった。

3月18日から公開中の『アナザサイド サロメの娘 remix』(2017年)は、アクースモニウム上映『サロメの娘』(2015年)、『サロメの娘 アナザサイド (in progress)』(2016年)、そして2月に開催された『音から作る映画のパフォーマンス上映』(2017年)の延長上にある最新作にして、このプロジェクトの区切りの作品でもある。

昨年で上映開始10周年を迎えた『眠り姫』(2007年)は、いつの間にか映画の中にいて、連なる心象の中を漂っている感覚になる映画であった。それと同様に、今回もいつの間にか<不在の誰か>の心象を彷徨っていた。
やはり言葉が浮かんでこない。映し出されるイメージと鳴り響く音に、言葉が追いつかないのだ。
捉え難い、というか捉えられないイメージが幾重にも連なっている。寧ろ、捉えようとすればするほどイメージはどこかへ飛んでいく。
誰が誰なのか知ることのない人々が時々現れ、暫くするといなくなる。そしてまた現れたりする。
テキストを読む声(台詞)が聞こえてくるのだが、音として聞こえてくる。普段無意識でやっているように、声を言語という記号(この場合は日本語)で認識することはできない。
そして、言語性を剥ぎ取られた声と音楽が、研ぎ澄まされた音となって響き、時に突き刺さる。更に、その「音楽は沈黙という土台に支えられている」(2)。

この作品は、映画館という暗闇で音だけを、沈黙の中で映像だけをそれぞれ上映しても、一つの形として成り立つのではないか。映像から音、音から映像を互いに剥ぎ取ったとしても、別個の存在として成立し得る可能性。
しかし、だからこそ「映像と音と沈黙との間に近親関係を見出すこと」(3)もできる。終始それぞれが独立しながらも、絶えず交互に作用しながら、この映画は<進行>してゆく。

そして、観客たちのまなざしによって、さらに<remix>されていく。映画と観客も、交互に作用しあっているのだ。
映画は作ることだけではない。「まなざしの凝視のもとで次第次第に作り上げられてゆく」(4)のであり、そこに観客の眼差しがあれば、映画は常に<進行>し続ける。

「映画を見よう」と、物語やメッセージ<わかりやすいもの>を受け取ろうとすると、何もないままこの映画を素通りしてしまうのではないか。
そうではなく、「理解するより前に感じとろうという姿勢で臨んで」(5)みるのはどうか。
映画の見方=鑑賞から自分を解き放ち、捉えられない瞬間の連続の中に身を置き、彷徨うことができるのではないか。
「あなたはなにもみえていない」でも、それでいい。
「見える」でも「聞こえる」でもなく、イメージを「経る」こと。そんな体験ができるかもしれない。
理解できない、もとい捉えられないのはこの映画が生き物だからではないか。

(1)4/26UPLINKでの上映の際に配布された上映プログラムより抜粋
(2) 〜(5)ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房、1987年)から引用

【映画情報】

『アナザサイド サロメの娘 remix』
(2017 年/日本/ 80 分/ HD)

監督:七里圭 テキスト:新柵未成 音楽:檜垣智也
出演:長宗我部陽子、黒田育世、飴屋法水、工藤美岬、山形育弘、黒川幸則ほか
声の出演:青柳いづみ 原マスミ sei 山崎阿弥ほか
配給:charmpoint

新宿K’sシネマにて3/18(土)より2週間限定公開中
http://www.ks-cinema.com/movie/remix/

七里圭公式サイト 
http://keishichiri.com/jp/

【筆者プロフィール】

永井里佳子 (ながい・りかこ)
いつも彷徨っています。
学生の頃に見た『ツィゴイネルワイゼン』と『しとやかな獣』から映画館通いが始まりました。
岸田森と若山富三郎が好きです。最近ずっとリラックマが気になっている。