【Essay】何かを見つけること、跳ね返すこと-柳澤壽男監督から学んだこと text 小森はるか

 

『そっちやない、こっちや コミュニティケアへの道』

昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で組まれた佐藤真監督の特集上映で、1991年にまだ編集途中だった「阿賀に生きる」のラッシュ上映が映画祭で行われた際の、当時の記録映像を観るトークイベントがありました。「阿賀に生きる」は、わたし自身が陸前高田というまちに移り住み、暮らしながら撮ることの難しさにぶつかり始めた頃出会った映画でした。日常の中で目を凝らせば見えてくる、人の生や風景を「そのままに撮ればよいのだ」と教えてくれた作品です。それから佐藤真さんの本を読んだり、カメラマンをつとめた小林茂さんのもとを訪ねるようになりました。そんなわたしにとって憧れの方々が、自身と同い年くらいだった頃の映像を観るのは初めてでした。かつ、佐藤さんの本の中に「上映後に観客からの集中砲火を浴びた」と書かれていたのもあり、妙に緊張しながら上映に参加したのでした。その1991年のラッシュ上映を観ていた観客の一人が、柳澤壽男監督でした。小林さんの恩師であることは度々聞いていたのですが、恥ずかしながらそれ以上のことは知らず、映像の中でばったり出会ったのです。柳澤監督は「キャメラを回すということは何かを見つけるということ。2年の間、佐藤さんにとっての新しい発見とはなんだったのか」という問いを投げかけていました。映像に写っていない場での討論もあったと思うのですが、どれだけひどいことを言われたんだろうと身構えていたわたしは、厳しい言葉ではあるけれど真っ当で本質的な問いかけだったことに驚いたのでした。この上映の前にも新潟に足を運んでラッシュを観ていたりと、完成前から若い作り手たちに対して真摯に意見してくれる先輩が、小林さんや佐藤さんの前を歩いていたんだと今更ながらに気が付いて、その見えない背中をはじめて意識したのでした。そんな折、幸運にも柳澤監督の作品を観る機会をいただきました。

『風とゆききし』

柳澤監督は40歳を過ぎてから、それまで携わっていたPR映画の製作を離れ、福祉のドキュメンタリー映画を自主製作でつくる道を開拓していった作家です。その代表作と言われる福祉映画5作品を観ながら、ラッシュフィルムを上映する場面が度々挿入されていることが印象に残りました。障害のある人や難病を抱える人たちが生活する施設に入っていく映画スタッフは、見ることのプロとして福祉の現場の中に役割を築いていきます。そこで生活する人たちの共同作業には、自然と一人一人が仕事を分け持ち、自発的に働いている姿がある。その働きには相手を思う優しさや配慮が見えてくる。記録することによって、障害があると括られて伝わらなくなっている人の心に気づくのが、映画スタッフの仕事であったのです。映像によって見えはじめたことを、現場に関わる人たちとフィルムを観ながら共有することで、なぜ介助がうまくいかないのか、その人は何を伝えようとしていたのかを、看護する側が考え気づく目を養っていきます。また映画スタッフ自ら積極的に提案をし、根気よく対話を続けてきたことがナレーションからわかります。映画スタッフがいることによって、福祉の現場が変化していく。その変化を糧として、映画が形になっていく。映画をつくるために現実を動かしていくのではなく、現実を動かしていくことで映画が生み出されていく。記録という客観的な役割を引き受けつつ、撮る・撮られる以上の協働関係を築いていく職人仕事にただただ衝撃を受けるばかりでした。作品という形にするまでの苦難や、外への回路をつくることに気を取られ、目の前で伝わらなくなっているものを繋ぐ回路になることを忘れてしまっているんじゃないかと、柳澤監督に言われているような気がしました。

『甘えることは許されない』

福祉映画5作品の中でも特に心惹かれたのは「そっちやない、こっちや コミュニティケアへの道」(1982)です。愛知県知多市の療育グループの記録で、障害のある人たちが主体となって、働く場所を自分たちの手で作っていこうと廃屋を改造しながら拠点を立ち上げていく過程を映した作品です。療育メンバー一人ひとりが、大工さんも顔負けな働きぶりで見入ってしまうのですが、カメラは改造工事の現場だけでなく、療育グループの外で彼らが過ごす日常にも向けられていきます。トキくんという男性は生まれ育った町に毎日電車で通い、町中の商店に顔を出して掃除をしたり、犬の散歩をしながら、地域の人たちを見回ります。トキくんがいることによって今日という一日が始まる、そんな地域の風景があるのです。カヨちゃんという女性は地蔵尊に通うのが日課で、何百体も並ぶ水子地蔵さま一体一体に手を合わせて拝んでいます。みっちゃんは小さな子や動けない人のそばにいつも寄り添っています。30年以上前の映画ですが、今日も明日もあの人たちが地域の中に暮らす姿が続いているんだと思えるような時間が、映画の中に立ち上がってくるのです。療育グループが自分たちの手で拠点をつくることになったのは、市が福祉センターを設立すると言いながらも延期の知らせを告げたために、今まで利用していた公民館から、地域のお世話になってばかりはいられないと、別の拠点をつくらざるを得なかった背景があるのですが、すでに彼らは地域の中で働きながら暮らす方法を身につけていることが、日常を映した映像からわかります。彼らの働きによって地域の人たちが支えられている。それが改造工事という共同作業での働き方にも活かされていることが、大事なことだと思いました。映画から少し先の未来に暮らしているわたしは、生活の中でそんな地域の風景に出会ったことがない、それがなぜなのかを映画が現在に問うているのだと思います。

またこの作品は、行動や仕草の記録に収まらず、彼らの日常へすっと入り込んでいく手持ちのカメラワークが際立っているのも魅力的です。こういう瞬間を自分も撮れるようになりたいと思うのですが、そんなカメラの視点は柳澤監督が講演の中で話されていたエピソードと重なります。琵琶湖学園で出会った男の子が、一日中観音様の先にある水車小屋の水滴を眺め「先生なぁ、こんなに世の中に美しいもんあらへん」と言う。また煉瓦を積む競技なのに積み終わる前に崩してしまうという子が「煉瓦というのはきれいに積まなあかんのや、きれいに積むことが大事で、速いことは大事であらへん」と言う。それを聞いて「そうか、この子にはこういう価値観があるのか、こういう価値観は俺の中にはないなと思いました」と柳澤監督は仰っていました(「福祉映画づくり、いってこいの関係」neoneo第9号より)。子供たちが見ている世界に気づいたときに、自分の中にはないと違いを認めるところに柳澤監督の人柄が表れているような気がします。「キャメラを回すということは何かを見つけるということ」それは作り手自身の内側に何を見つけていくのか、という言葉でもあるのだと気付きました。映画のナレーションは、映画スタッフという主体が語り口となっていますが、時に映像に滲み出てくる人との関係性を抑制しているように思える瞬間があります。障害のある人が背負う弱さを、自分の中にある弱さと重ね合わせるのではなく、違うということに対して慎重だったからこそ選んだ手法でもあったのではないかと思いました。映像とナレーションの境界線に、柳澤監督自身の立ち位置が浮かび上がってくるような気がするのです。

わたしは小林茂さんから「目の前にいる人の悲しみを、あなたの悲しみにすることはできない」ということを教わりました。何もできないことを知ってでも、主体的に関わっていく糸口を映画づくりによって見出す姿勢を、柳澤監督や小林監督から何かしらの形で受け継いでいきたいと思います。一人でカメラを回して制作している時点で、受け継ぐというには限界がありますし、そんな大きなことをいえる自信もないのですが、記録するという役割は他者との関わりの間で何を引き受けることができるのか、また引き受けたものをどうやって現実に跳ね返していくのかを、考え続けていきたいと思います。

『そっちやない、こっちや コミュニティケアへの道』

【著者プロフィール】

小森はるか(こもり・はるか)
1989年静岡生まれ。映像作家。東日本大震災後、ボランティアで東北を訪れたことをきっかけに瀬尾夏美(画家・作家)とアートユニットとして活動開始。2012年、岩手県陸前高田に移住し、暮らしながら人や風景の記録を続ける。2015年、仙台にて一般社団法人NOOKを設立。映画「息の跡」が初の長編監督作。