©2016 Gladys Glover-House on Fire-Chinese Shadows-WIL Productions
山形国際ドキュメンタリー映画祭での2度の大賞受賞など日本との関わりも深い気鋭のドキュメンタリー映画作家王兵(ワン・ビン)の新作『苦い銭』のテーマは「中国」と「お金」だ。
ここ数年、毎年のようにバブルの崩壊を囁かれながら、地価、物価ともに衰えを知らない中国経済、都市民4億人と地方の農工民9億人との間に広がる国内の経済格差と中国とお金をめぐる国際ニュースは後を絶たない。2014年には香港で、中国とは独立した行政機構を運営しているはずの有力者が経済発展のために北京の中国政府の意向にすりよる形で、経済的に中国に取り込まれているとして現地の若者による暴動が起きた。中国をめぐるお金のドキュメンタリー映画と聞けば、私たち外国人の観客は、それがどんな社会問題と結びついているのかという邪な興味にそそられてしまう。
しかし、ここに描かれるのはそうした社会問題よりも、むしろただ目の前でその日の暮らしを必死に営む生身の人間であり、そこには映像メディアが原始から持つリアリティの魅力が活き活きと息づいている。『苦い銭』は見る快楽に満ちた豊かな活劇であると言えるはずだ。
本作は雲南省から始まる。出稼ぎのための親元を離れることになった16歳の少女小敏(シャオミン)はバスと列車を乗り継いで20時間かけて浙江省湖州市織里(ジィリー)を目指す。上海から西へ車で1時間ほどのところにあるこの縫製業の街には、遠方から最大で片道20時間かけて出身地も年齢もばらばらの労働者が服を作りにやってくる。織里は古くから「湖州シルク」と呼ばれる養蚕業が盛んで、90年代には子供服の製造をベースとした経済発展モデルの街として国から指定を受けた。現地に到着した撮影隊は小敏だけでなく、当地で働く約10人の境遇も年齢も性別もばらばらの労働者にスポットを当てて群像劇を描き出していく。
本作の魅力は王兵の固定カメラによる、被写体の運動への没入的なフレーミング、そしてどの被写体に没入するか、ロケ地の素材から何を選択するのかを選び取るカメラワークレベルでの采配にある。それは、ドキュメンタリー映画でありながら昨年のヴェネツィア国際映画祭で脚本賞を受賞したことと同根だ。貧しい人間が今日明日の生活に苦しんでいる紋切り型の事実のみを描くとしたら、それは、説話の意味でもテーマの意味でも経済的な「貧しい」物語になるだろう。ここに挙げた本作の美点は一つにはその生活の必死さへの没入にあり、もう一つはそのような没入対象を次々と変えていく運動神経にある。順番に確認していこう。
小敏は満員の列車や窮屈な夜行バスの座席を映すフィックスの撮影をやっと逃れて、現地でタクシーを拾おうと同じ職場を目指す少女たちが重たいスーツケースをガラガラと引いていく姿をカメラは追いかける。この移動撮影はある意味で、移動する彼女たちにフィックスされている。そこには、例えばアルベール・ラモリスの『赤い風船』のような、目の前で揺れ動く不安定なそれをフレームから逃してはならないというサスペンスがみなぎる。
日本人として唯一撮影に加わったスタッフ前田佳孝は、王兵がスタッフに出した「まずはフィックスで動かずに撮り続けろ」「何も起こらなくても心配するな。そこでは必ず何かが起こっている。」という指示を回想する。
『苦い銭』にも、台詞も展開もないだけのシークンスがいくつもみられる。その一つが先のスーツケースのシーンであり、もう一つは小敏が洗った髪をドライヤーで乾かすだけのショットだ。重たく絡まった濡れた髪に彼女が何度も同じ動きでドライヤーを当て、もう片方の手で長くて黒い毛をといでいく。彼女の顔の左半分を映したショットを見ているうちに、少しずつその髪に含まれた水分が、彼女の体温が変化していくようにも感じられる。こうしたただただその場面が持続するだけのショットは一見、時間の浪費に思えても、それこそが作品の骨に肉となる旨味を与えている。
その持続を眺める快楽は工場でミシンを打つ労働者たちの姿で最高潮に達する。大音量で工場の中にポップソングをかけながら、黙々と縫製に勤しむ彼ら、とりわけ上半身裸の中年男の姿には労働者の妙な色気のようなものが漂い始める。それはさながら労働という一つのダンスシーンのように躍動的だ。
©2016 Gladys Glover-House on Fire-Chinese Shadows-WIL Productions
映画作りと工場の関係は深い。1982年にジャン=リュック・ゴダールが『パッション』を製作したとき、彼はビデオ映画の製作現場と工場の労働、そして現実の「連帯」結成の最中にあるポーランドを重ねた。そしてそれは、リュミエール兄弟の『工場の出口』(1895)というさらに古い歴史へのオマージュとしてのことだった。
ゴダールの映画の中で労働者を演じたイザベル・ユペールは「ずっと深いところで労働と快楽は同じものだと思う 動き方がセックスと同じ 奥戸は違うけど同じ動き方よ」と語ってみせる。私たちは音楽に合わせてノリノリでミシンを打つ王兵の映画の労働者の中にそれを再発見する。
では、王兵は約35年前の映画の発想から逃れていないのか。決してそうではない。これはドキュメンタリーだ。そこに演出や脚本はない。だからこそ、本作が脚本賞を受賞したという事態が異例として注目される。本作における、あるいはドキュメンタリーに置ける脚本とは、いつカメラを動かすのかの一挙手一投足にあるといえるのではないだろうか。
ある日の作業場で、小敏の同僚の凌凌(リンリン)は夫と喧嘩をして家から追い出されたこと、夫が暴力を振るうことを雑談の中で彼女に話し始める。作業場の入り口に立つカメラが、手前から奥に向かって小敏、凌凌の順番で話しているのを小敏の背中越しにとらえ、やがて回り込んでオートフォーカスで凌凌のバストショットを捉える。
こうして映画は小敏の物語から凌凌の物語へと移る。王兵にとってドキュメンタリーの脚本とはなにかがここに端的に表れている。一方では語り手としての役割を極力圧し殺すと同時に、ほんの一瞬だけ作り手がどのような選択をしているのか、それもスタッフとしてのかなりテクニカルな方法で開示してみせる。
ここから、工場の話題ではなく凌凌の私生活へと物語は脱線していく。本作における脱線の魅力を語るために、先に映画のラストシーンに触れておこう。脱線の魅力は本作が「お金」をテーマにした作品であることと不可分なのだ。
最後のシーンでは夜の路上でオレンジの街灯に照らされながら半裸の男たちが1240着の商品を梱包している。悪天候と、乱れた格好と、一つの仕事の終わりには祝祭めいた高揚感と寂しさが確認できる。映画の中では数字が何度も強調される。それは彼らの給料であり、携帯電話の支払い料金であり、1日の縫製のノルマである。最後に表れる1240着。この数字に映画はゴールしていく。
つまり、脚本がここで映画に可能にする脱線は、彼ら彼女らの生活を、金銭の経済性に回収される事態から救い出すことにある。先に挙げたゴダールの例との大きな違いがここにある。王兵の映画では現実の工場と映画制作はより明確に対立する。両者は明確に別の図を描き、少数のスタッフによる撮影と編集が工場の労働から切り捨てられた余剰を、つまり労働者の活き活きとした生活を古典映画の1ショットのような芳醇な生々しさの中に集めなおし、再構成するのだ。
中盤で描かれる、工場の情景描写から凌凌の私生活への脱線の上で、その操作を最もはっきりと確認することができる。凌凌を追いかけてカメラは彼女の妹の自宅へ、そして彼女を自宅から追い出した夫が営む麻雀ができる小売店舗へと向かう。大通りの道路を渡って真っ暗な商店街へと消えていく彼女の見失わないように追いかけるカメラにはまたしても、ラモリスの赤い風船のような緊張感がみなぎる。
夫の店を見つけ、彼に異議を申し立てる凌凌を夫二子(アルツ)は殴り、髪を掴んで首を絞めて怒鳴り散らす。店の客は二子をいさめたり、凌凌に金を貸そうかと声をかけたりする。映画が撮りたかったのはこの一見取るに足らないが、躍動感に溢れる香ばしい夫婦喧嘩の活劇だ。
取るに足らない出来事かもしれない。しかし、それを取るに足らないとするものこそ、お金によって意味や価値を割り切っていく社会のほうの理屈なのだ。王兵は「中国社会では、現在ほど「金」が重要な時代は、これまでにはありませんでした。…目にする限り、人生とは不毛です。幻想と失望に満たされた時代にあって、従順な人生を送るために、私たちはしばしば自分の気持ちさえ欺いているのです。”流れてゆくこと”は、今日の普通の中国人の重要なテーマです」と語る。映画と工場というテーマに照らして見たとき、皮肉にもそれは20世紀に成立した共産主義の一つの成れの果ての姿となる。
お金の理屈の中で割り切れず、流されなかったもの。それを集め、引き伸ばし、慈しんでいくことにこの本作の最大の魅力がある。王兵はそのフレーミングとカメラワークのレベルで、天才的な脚本構成力を発揮する。『苦い銭』は悲惨さや貧乏がテーマの映画では決してない。貧しい彼らの生活は、映画の目を通して、私たちに許された最も贅沢な体験の一つになる。
【作品情報】
『苦い銭』
(2016年/フランス・香港合作/163分/DCP 5.1 /16:9 /カラー/中国語)
監督:ワン・ビン
撮影:前田佳孝、リュウ・シャンホイ、シャン・シャオホイ、ソン・ヤン、ワン・ビン
編集:ドミニク・オーヴレイ、ワン・ビン
字幕:樋口裕子
2018年2月3日(土)より シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー
【執筆者プロフィール】
イトウモ/Ito-Mo
1990年生まれ。岐阜県出身。大学では映画史と美学を専攻し、演劇活動に携わる。塾講師、新聞記者などを経て現在、ライターとして活動。2017年6月より、批評再生塾第3期に参加中。