【Review】震災以後の“揺らぎ”の中から――木村文洋監督『息衝く』text 宮本匡崇

©team JUDAS 2017

学生時代を終えていわゆる社会人になると、世の中にこんなにも何かを「信仰せよ」という圧力があるものかと驚いた。そしてまた、拠るべきものを失った人間がいかに弱く脆いかということも、身をもって思い知った。

私にとってその時期が早かったか遅かったかは分からない。(広義の)信仰とは、別に何も特別なことではない。自分について思い返してみれば、物心つく頃には親の教えや社会の良心を信じていたし、やがて思春期が訪れ大人の言葉が鬱陶しくなると、テレビに流れるポップソングの歌詞に心酔した。音楽のパッションと快楽を信仰し、学生時代は勉学そっちのけでバンド活動に熱中していた。ところが大学3年の秋になると、その信仰は急速に揺らいでいった。気がつくと周囲は就職活動で慌ただしくなり、一部上場企業への内定こそが正しい世界へと様変わりしていた。みんなが聖書のように分厚い就活指南本を読み、セミナーや企業説明会に通うことで順調に洗脳されていった。訳の分からぬままどうにか内定の切符を手にし、いよいよ卒業を待つ折、東日本大震災が起こった。

地震という災害のインパクトはあまりにも強烈だった。私たちが無条件に依拠していたはずの足場が文字通りぐらぐらと揺らぎ、原発といういつ爆発するともわからない巨大な不安と恐怖の塊が突如として出現した。昨日まで信じていたものを、明日以降も同じように信じるということが不可能になった。それからというもの、日本人は震災以後を生きるための新しい物語を探し、また一方でその記憶をどのように意味づけ、消化し、折り合いをつけていくべきか、苦痛を伴いながら模索し続けてきた。しかしどうだろう、あれから私たちの心は救済されただろうか。政治や社会の本質は変わったのだろうか。崩壊した価値観は再構築されたのだろうか。否、私たちはいまだあの混沌の延長にいて、息切れし、疲弊してしまったように思う。そしてぼんやりと、誰かがぶら下げた「2020年東京オリンピック」というマイルストーンを眺めている。

前置きが長くなった。しかし、この『息衝く』という作品について語るためには、何を置いてもまずは鑑賞者個々人にとっての青春や信仰、そして震災と以後の問題へ立ち戻らねばならないと感じたのである。それは本作が「新興宗教団体という“特殊な”生育環境で育った男女3人」を物語の主人公に据えながらも、同時に「六ケ所村と東京」という木村文洋の長編第一作『へばの』(2008)から続く、宿命めいたテーマを常に内包していることと無関係ではない。木村のフィルモグラフィーを知らずとも、あるいは核燃料再処理工場をめぐる六ケ所村の事情を知らずとも、主人公らが繰り広げる物語に終始つきまとう作り手の私的な存在感。そのことが翻って、観客の意識を目の前の物語からメタ的に反転させ、自身の「個」としての存在のありようについて、自問と内面化を促しているように思う。

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『息衝く』はいくつかの意味で非常に重層的な作品だ。まずは何より、主人公3人のドラマを群像的に描くというパラレルな構造が挙げられる。新興宗教団体「種子の会」の青年幹部として存在感のある大和(やまと)、病に伏す母親と故郷・六ケ所村で生き別れた妹を想う則夫(のりお)、団体を離れて結婚・出産をするも理想的な家庭を築けずにいる慈(よし)……、彼らは恐らく幼少期から「種子の会」に入信している二世、三世の信者であり、またかつて団体のカリスマとして求心力のあった男・森山に信頼を寄せて育ったという共通点がある。本作のプロットの軸は、壮年期に差し掛かった彼ら3人が10年前に失踪した森山を訪ね再会するというある種の「父親探し」にあり、映画は冒頭から首都高を走る旅の車中、3人の表情を順に捉えていくところから始まると、フラッシュバック形式でそこへ至るまでの過程を見せていく。各人物の近過去のエピソードにくわえ、より時間軸を遡った幼少期の回想カットが幾度も挿入され、画面は頻繁に時間と場所をジャンプする。3人の人間の現在(森山の居所へ向かう車内)、近過去、幼少期……という複数の時間軸を行き来することで、映画はより多層的な構造を強め、次第に物語の中心地が分からなくなっていく。それは「今、ここ」を生きるための拠り所を見失った彼らの精神的な彷徨状態の表象に繋がっている。

大和と則夫はかつての「森山派」を「種子党」の支持層に呼び戻すための票集めを党幹部から命じられるが、若き日に森山を主導者として政治活動に励んでいた頃のような大義や理想を見い出すことができない。また、慈は母親が自殺したことによる自責の念から信仰を離れ、父親とも不仲のまま、息子との生活さえも義姉に奪われてしまう。彼らは社会的には次世代を担う年齢になりながらも、今ひとつ成熟できずにいる。森山の失踪と不在、あるいは個々人の胸の中で未整理のまま沈殿している出来事……、そうした過去への拘泥が、映画冒頭から執拗に映し出される田無タワー(スカイタワー西東京)の存在に象徴されている。かつて森山と共に見上げ、明日の天気を占っていたその電波塔は、未だつきまとうようにして彼らの背後や頭上、視線の先に佇立している。大和が党本部の高層階から眺める都心の遠景にも、やはり東京スカイツリーが田無タワーの代替のように映り込み、電波塔のイメージを記号的に反復している。彼らは現在に生きる役割を持ちながらも、過去に強く囚われ、未来を志向できずにいる。

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作中の大半はこうした回想シークエンスで構成され、ブレの強い手持ちカメラでの撮影が作品全体をより“揺らぎ”の強いものにしている。被写体の捉え方は端的にドキュメンタリー調で、編集においてもジャンプカットの多用により断続的なリズムが生まれている。ところが物語終盤、山奥で隠遁生活を送る森山と3人が再会するシーンを境に、こうした撮影形式は一転する。画面はフィクスを基本とした安定的な視点に切り替わり、固定位置からゆっくりと芝居に追従する程度の動きに抑制される。すると、それまで映画に充満していた“揺らぎ”や彷徨といった要素は取り払われ、「今、ここ」という物語の中心地が途端に明瞭になる。こうした撮影形式の転換から、大和、則夫、慈の3人が、かつての精神的なよすがであった森山を前にして、彼らの生きる時間軸をようやく過去から現在に戻すことができたことが伝わってくる。同時に、画面にはそれまでのドキュメンタリー的な場面描写とは別種の、舞台演劇的な緊張感が漂い始め、再会を果たした者同士が微妙な距離感を探り合う会話劇の行方に目が離せなくなっていく。(また、森山という人物については、半ば破壊的とも言える強烈な異化効果をもたらす視覚造形が施されており、そのことが森山登場前後の作品の文法を強制的に断絶していると言っても過言ではない。)

森山は表向き3人の来訪を歓迎するが、その胸裏は分からない。なぜ失踪したのか、この人里離れて暮らす生活に何を見出したのか、かつて信者に投げかけた言葉の意味は何だったのか……、大和たちの積年の問いはことごとく躱され、話題は軽妙にすり替えられてしまう。彼は飄々とした振る舞いで無邪気に人の懐に飛び込んできたかと思えば、唐突に真顔で核心を突くような言動を繰り出し、時に論理を越えた話法で説教を始める(その姿はまさに人たらしの指導者だ)。だが、その中にはかつての教え子を再び導くような言葉はない。特に森山の政治信念を強く継いでいる大和は激しく食らいつくものの、「たかだかその齢まで努力したくらいで何だ!」「もっと太れ!」「俺くらいになるまでやってみろ!」と、容赦なく突き返されてしまう。(また、前述の森山自身に施された視覚造形がそうした「父性の行使の拒絶」ともいえる態度を全身で体現している。)

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結局、彼らは何をしに来たのかも分からぬままに一夜を明かし、翌朝には“揺らぎ”多き東京の生活へ帰ることとなる。「父親探し」の旅の先にあったのは、こたつを囲んだ晩酌と早朝の餅つき、そしていくつかの答えのない問答だけだ。別れ際に森山が発する「また来いよ」という言葉は「もう来るなよ」とも聞こえる。とどのつまり、「父なるもの」から与えられるような信仰は、震災以後にあって成立しないのかもしれない。あるいは、震災を経てそうした信仰を持つことが不能になった人々が、今もなお大和や則夫たちのように彷徨っているのかもしれない。

そうして映画が幕を閉じようとする時、本作を構成するもう一つの階層があらわになる。森山と3人が別れるシーン、山をバックにした作中唯一の超ロングショットで、予想外の破壊的な映像効果(詳しくは本編で目撃して欲しい)が作家の手によって投下されるのだ。それは、作中で則夫の人物背景として触れられるに留まっていた「六ケ所村と東京」というテーマへの出し抜けで直接的な言及であり、それまでの物語の文脈を断絶してしまうほどの衝撃がもたらされる。また、続くエピローグでは則夫が六ケ所村へ帰郷し、生き別れた妹のもとを訪れるシークエンスが綴られる。ここで妹・紀美として登場するのは他でもない『へばの』の主人公・紀美を演じた西山真来であり、彼ら兄妹の再会によって『息衝く』と『へばの』の連続性が明示的になる。

この手荒な手法によるエンディングへの移行、そして過去作『へばの』への言及は、本作の物語の本筋からはやや乖離しているように思う。しかしながら、こうした作家による物語への作為的かつ私的な領域からの介入は、ある種、鑑賞者がメタ的な視点を獲得することにも寄与している。木村文洋は、この震災以後を生きる人々の“揺らぎ”の物語がフィクションとしてのみ劇場内で完結してしまうことを頑なに拒んでいるのではなかろうか。そうした、作中に漂う作家の抵抗や足掻きのような存在感が、鑑賞者の意識を映画の外側=現実社会、そして鑑賞者個々人の私的な領域へ向かうよう促しているように思う。

木村は『へばの』のパンフレットでこう語っている。

“映画は、いま自分達がどんな時代に生きているのか、何を当時考えていたのか、それを記録するものなのだと思った。”

“自立を描きたい。今、ここにあっての/その願いはできればまだこれから、続けたい。”

いま自分たちがどんな時代にあって、どう生きていけばいいのか。その答えは簡単ではない。ましてや、森山のような「父なるもの」がもたらしてくれるわけでもない。おのれが「個」として立脚する足場を探し、「今、ここ」という現在地から時代を見つめようとすること。その試み自体が『息衝く』という作品そのものなのだろうと思う。本作は震災後をいまだ拠り所なく生きる人々へ、映画という実践を通じて、力強いメッセージを発している。

©team JUDAS 2017

【作品情報】

『息衝く』
(2017年/日本/DCP/16:9/130分)

監督:木村文洋
脚本:桑原広考、中植きさら、木村文洋、杉田俊介、兼沢晋
出演:柳沢茂樹、長尾奈奈、古屋隆太、木村知貴、齋藤徳一、西山真来、川瀬陽太、坂本容志枝、小宮孝泰、寺十吾
製作・配給:team JUDAS 2017

2018年2月24日(土)より ポレポレ東中野ほか全国順次公開

公式サイト: http://www.ikiduku.com/

【執筆者プロフィール】

宮本匡崇(みやもと・まさたか) 
88年生まれ、フリーランスライター、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。映画美学校批評家養成ギブス第二期修了。映画祭スタッフ、映画評執筆、自主映画制作・宣伝(Web/SNS)等、幅広く映画に関わる。専門領域は映画、文学、漫画など。「ことばの映画館」「スピラレ」ほかで執筆活動中。青春映画愛好。