【Interview】『願いと揺らぎ』震災後も変わらないものを描きたかった~我妻和樹監督インタビュー

昨年の〈山形国際ドキュメンタリー映画祭2017〉で1,100本を超える応募作品の中からインターナショナル・コンペティションの15本に選ばれた『願いと揺らぎ』が、いよいよ劇場公開される。
監督は、『波伝谷に生きる人びと』(15年公開)の我妻和樹で、登場するのは同じく波伝谷の人びと。宮城県南三陸町の漁村・波伝谷は、2011年3月11日の東日本大震災で深刻な打撃を受けた。翌2012年、春祈祷の行事である通称「お獅子さま」を復活させる機運が盛り上がるが、意見の相違から、呼びかけ人だった若者は次第に距離を置く。カメラは肝心の中心人物を撮れないまま、「お獅子さま」の日が近づく波伝谷のようすを追うことになる。
ややいびつな構造であり、そこから立ち上がってくるものが眼目の映画だ。
『波伝谷に生きる人びと』公開時の本サイトでのインタビューで我妻は、祭は形式だけではなく、その意味も時代に合わせて変化していくものだと語っていた。続けて、
「でも、どこかに何か、変わらないものがある。波伝谷の春祈祷の場合、形を変えつつも行事を続けてきたのはなぜかと言うと、地域の中に、土地と人を結びつけようとする意志が根強く生きていたからだと思うんですよね」
とも。
『願いと揺らぎ』はまさにその意志の、震災後の発動に焦点が当てられている。そして、その過程で多くの動揺があったことも。
いわゆる〈ネタバレ〉を気にせずに進めたインタビューのため、見る前に読むと興趣を削いでしまう部分があるかもしれません。まずは機会を作って見ていただければ、とてもありがたいです。
(取材・構成/若木康輔)


震災後の波伝谷を描いた『願いと揺らぎ』

——お話を伺う前にまず、『波伝谷に生きる人びと』と『願いと揺らぎ』の時系列について整理させてください。二本の撮影期間と編集期間は重なっていて、やや複雑なので。
我妻さんが波伝谷の映画を撮ることになったきっかけは、大学(東北学院大学文学部史学科)で民俗学を学んでいる時に参加した、波伝谷の民俗調査だった。卒業論文には春祈祷、「お獅子さま」をテーマに選んでいます。

我妻 はい。その後、大学を卒業した2008年3月から波伝谷で撮影を始めています。3年間撮影したところで東日本大震災が起こり、その後も撮影を再開したのですが、同時に、震災前の3年間を軸にした作品の編集も進めていました。それが『波伝谷に生きる人びと』です。そして、震災後に撮影した素材を中心に作ったのが今回の『願いと揺らぎ』なんです。

——昨年のヤマガタでコンペに入選しました。講評のようなものは聞いているのですか?

我妻 どうでしょう、映画祭関係者の何人かの方からは好意的なお話を伺っていますけど。多分、注ぎ込んだ時間の厚みや作り手の思いが評価されたのかなと思っています。ヤマガタにはそういう映画をより大切にする特色があると思いますし。映画としての完成度だけなら、他の映画祭では絶対に受からない気がします(笑)。

——海外から来た人の反応はどうでしたか。

我妻 僕自身は、『願いと揺らぎ』が海外の人に伝わる自信は全くありませんでした。でも、意外にも何人もの人から「胸に響いた」「素晴らしかった」と感想を頂きました。『航跡(スービック海軍基地)』のジョン・ジャンヴィト監督には、香味庵で熱心に話しかけてもらったりして。
日本人が見る場合、日本の地域毎の細かな違いをよく知っているから、東北のある特殊な例として受け止める。海外の人が見るとそこは飛ばして、日本の普遍的な村の例としてストレートに受け止めてもらえる。そういう差があるのかもしれません。

——ドキュメンタリー映画ですが、一方で貴方が学んだ民俗学の調査報告を読むような魅力が随所にある。どれ位、意識していますか?

我妻 前は正直、そう取られることには抵抗がありました。というのも、2008年に撮影を開始した時点で、僕はもう民俗学の人間ではなく、映画の世界の人間という意識でやっていたので。
だから『波伝谷に生きる人びと』では、ドキュメンタリーとしては全く撮り切れていない、単なる記録になってしまっている……と自分では悔しく思うところを民俗学的な視点から評価してもらうことが多いことに、複雑な気持ちでしたね。今は、そういう素地が自分の強みになっているんだな、と素直に感じています。


『願いと揺らぎ』より

形が変わろうとも、変わらないもの

——少し長くなりますが、僕の感想を。インタビューのために再見して、山形国際ドキュメンタリー映画祭で見た時以上の感銘を受けました。この映画が持つ情報量に、僕はヤマガタでは追いつききれなかった。

我妻 そうですか。テロップでの説明も多い映画ですしね。

——それに、初見ではやはりストーリーに気がいくんです。「お獅子さま」は、無事に復活できるのか。映画の取材を受けなくなった呼びかけ人の菅原幹生さんが、カメラの前で口を開く日は訪れるのか。
でも、そこに至るまでの紆余曲折が実は見どころなんですよね。「お獅子さま」を復活させたいと部落の人はみんな思っているけれど、その意味の捉え方や進め方は微妙に違っている。もしかしたら、また「お獅子さま」をやりたいという気持ちより、このまま途切れさせてしまう恐れのほうが大きかったのかもしれないし。

震災後に部落のまとめ役になった三浦俊喜(しゅんき)さんは、「お獅子さま」の復活を「バラバラになりかけた部落の人が、再び集まるきっかけに出来る」と言うでしょう。あそこに、部落が高台に移転しても行事を続ける理由が集約されているし、復興祈願という新たな意味が付加され、昔からの祭りの質が変容する瞬間をダイレクトに目撃する、まさに民俗学的な感動があります。
実は真の主人公は「お獅子さま」の獅子で、状況やみんなの思いを受け止めて変身する、一種の怪獣映画だと感想を飛躍させてしまってもいい位。

我妻 なるほど……。でも僕自身が意識していたのは、形が変わろうとも変わらないもの、のほうなんです。震災で多くのことが変わり、失われたけれど、それでも不変なものは何かを『願いと揺らぎ』では掴みたかった。
「お獅子さま」の復活は、波伝谷の人達がもう一度波伝谷らしさを取り戻すためだった、その手段として行事を利用した、という面はあったと思います。そういう点では、祭りの意味の変容は確かにあったんですけど、僕が知りたかったのはその背景ですね。
波伝谷で最初に撮影を始めた時から、人と人との共生の在り方を大きなテーマに置いていたので、震災後のこんなに大変な状況下で、お互いの気持ちに隙間が生まれてもなお共に生きることに向かうのはなぜだろう?と。
なので〈震災ドキュメンタリー〉でありつつ、震災前に追い求めていたテーマが、より深度を増した形で描けたんじゃないかという実感はあります。もともと、そこに生きている人びとの営みに目を向けていたので、映画研究者の三浦哲哉さんが、「『絆』とは何かをめぐる震災6年後の決定的な成果」と題した評を書いてくれたのにも、励まされる思いがしました。

——山形国際ドキュメンタリー映画祭の公式ガイドブック「SPUTNIK」2017 年版に掲載されたものですね。漠然と村落共同体の「絆」とイメージされるものが、いかに細やかな配慮のもとに成り立っているかと、丁寧に説かれている文章でした。

我妻 僕自身、震災後によく謳われた「絆」という言葉には、どこか絵空事の印象を受けていたんです。美化されて一人歩きしているような。でも人が生きていくには、煩わしさやしがらみもひっくるめて関わり合うことが必要なんじゃないかと。美しい面だけではなく、そこも含めての「絆」だから、土地への愛着もより深くなるんだと思っているんです。

▼Page2 考え方は違っても、思いは一緒 に続く