【Interview】『願いと揺らぎ』震災後も変わらないものを描きたかった~我妻和樹監督インタビュー


この映画には必要だった時間

——単に震災前から入っていたというアドバンテージだけでは、あそこまで地域のデリケートな部分は撮れなかったと。

我妻 その分、『願いと揺らぎ』を作品として世に出すことで部落の人間関係を乱すことにならないか、気になっていたんです。一番心配したのは、俊喜さんを傷つけてしまわないかということでした。

——俊喜さん? あの人にとってマイナスになる描写があっただろうか。

我妻 俊喜さんが「お獅子さま」の準備を進めている間、そこから外れることになった幹生さんが何を思っていたのか俊喜さんは知らない。この映画を見て、初めて知ることになるんです。それでショックを与えてしまわないだろうかと。

——ああ……。そういう難しさがあるんですね。僕はてっきり、幹生さんへの配慮かと思った。

我妻 もちろん、『願いと揺らぎ』は、幹生さんのOKが無ければ上映はできないと完成前から思っていたんです。
映画では幹生さんは僕のインタビューに答えてくれなくなりますが、作品の裏ではやりとりはずっと続いていました。僕自身、波伝谷の若い人にはかっこよくあってほしいから、幹生さんの肩を持ちたい気持ちはずっとあって……。
ただ、幹生さんの思いを僕から俊喜さんに伝えるのは違うと思ったから、僕には応援することしかできませんでした。あくまで当事者間で何とかしないといけないことなので。
それでずっと幹生さんを撮れなかったけど、幹生さんの思いを尊重して作品の基調に据えたかったので、映画が出来たら、最初に幹生さんに見てほしいとは何度も伝えていました。

——それが、『願いと揺らぎ』の終盤、数年後の2016年に幹生さんが映像を見る場面?

我妻 そうです。「お獅子さま」復活の後、僕は『波伝谷に生きる人びと』の編集にかかりきりで、完成した後も、たくさんの人に見てほしいと上映活動で気持ちがいっぱいいっぱいになり、当時撮っていたものを長いことほったらかしにしてしまいました。
あることがきっかけでようやく編集を始め、形になった段階で幹生さんに「見てほしい」と連絡したんです。3時間近くある荒編集でしたが、生半可なものではなく、その時点で完成品に近いものでした。それを幹生さんのお宅のテレビに映しました。カメラを構えていたのは、見てくれたら幹生さんもきっと当時の気持ちに戻って、思いが言葉になって出てくるだろうと思ったからです。

——その場面を映画に組み込んだんですね。

我妻 それまで『願いと揺らぎ』は、2012年の「お獅子さま」復活をラストにして終わらせるつもりでした。でも、それからもう5年近くも経っているじゃないですか。なのにあそこで終わらせていいのか、という疑問が常にあったんです。
それに、復活した後の「お獅子さま」をどう思っているのかについては、幹生さんには一切聞いたことが無かったんです。たぶん幹生さんにぶつかり切れなかったモヤモヤが僕の心のどこかにずっと残っていて、いつかそれに対して、カメラで向き合う必要があると感じていたんでしょうね。一度本音の言葉を聞いてしまったら、同じテンションの言葉をもう一度引き出すのはすごく難しいので。それで、見てもらった後に改めて当時の心境をインタビューしたんです。
あの場面は、幹生さんとしては、映画を完成させるために僕を思いやって答えてくれている面はあったと思います。全部が全部、自分の中で整理しきれているはずがないから。でも「今は納得しているよ」という幹生さんの言葉にも嘘は無いんです。当時は整理できなかった気持ちが、高台に移転して家を建てて、ようやく意味付けできるようになった。ある程度、冷静に振り返れるようになった。
これを2012年の時点で完成させていたら、そうした時間の厚みを表現することはできなかったと思います。それに当時波伝谷の人たちに見せていたら、人間関係のデリケートな部分を余計に刺激してしまっていたかもしれない。そういう意味では、映画が生まれるためにはこれだけの時間が必要だったんだろうな、と今は思っています。

——そうか。編集に時間がかかるなどとは別に、良きタイミングが来るまで寝かせておく時間も必要になる。

我妻 全て意図しているわけではありませんけど、自然の流れでそういうことになっていきますね。

自分たちの本来の姿を象徴する「お獅子さま」の存在

——しかし、祭りの復活を若い人ほど求めた。これは何だったんでしょうね? それこそ民俗学の考え方でいうと、村を外につなぐ大きな道が作られ貨幣経済が入ってくると、祭りの、村落共同体の生活で鬱積したものを発散するシステムとしての意味はそれほど無くなります。イヤなら村の外に出ればいいから。その後、日本の多くの祭りは他者に見てもらう観光の価値を伴うようになるけど、波伝谷の春祈祷には、よその人に披露する意識は無いでしょう。

我妻 うーん。そう、「お獅子さま」の復活で何かが潤う狙いは無くて。あれは単に、波伝谷の人たちが自分たちにとって必要だからやっている行事です。そこに波伝谷らしさがあると僕は思っているんです。
実は「お獅子さま」をまたやりたいねという話は、幹生さんだけでなく、年長の人たちからも自然と出ていたんですよ。ただ、上の立場の人たちは震災後の多くの課題を抱えていて、地域として現実的に取り組まなければならないことが他にたくさんあるのを知っているから、すぐには口に出来なかった。そんな中で幹生さんが声をあげたのは、あの人が若者という立場なのもあるし、それ以上に、子どもの頃から純粋に「お獅子さま」が好きだからなんです。
昨年(17年)の夏に仙台で波伝谷の方々を4組ゲストに招いて〈波伝谷サーガ ある営みの記録〉という上映会を行ったのですが、上映後のトークで、幹生さんは「安心できる何かが欲しかった」と復活を提案した理由を語ってくれました。
僕自身もそうなんですが、被災した人たちの多くが、震災が起きて時空の歪みに放り出されたような感覚を味わったと思うんです。自分たちがどこに立っているのか分からない、整理がつかない曖昧な時間というか……。そういう意味で、『願いと揺らぎ』では震災後の時間をモノクロ処理にしています。
かつての暮らしの時間を取り戻したい時、本来の自分たちの姿を最も象徴しているのが「お獅子さま」だったんですよね。昔から、みんなが集まって一体感を持てる行事だったんです。だから、震災前と震災後の今が地続きであることを確認するために「お獅子さま」を復活させたい、と望む声の純粋さはかなり強い、切実なものでした。
逆に言えば「お獅子さま」が復活したことで、津波に呑まれても波伝谷はまだある、部落の結び付きはまだ失われていない、と実感することが出来たんです。波伝谷だけでなく被災地の多くで伝統行事が復活しましたが、おそらくそうした背景があるのではないかと思います。

——映画の中で、「獅子舞はもともと部落の全ての家をまわるものだった」というテロップ説明がありますね。古くはそこに、全戸訪問によって人口などを確認する実務的な意味はあったと思うんです。震災後、行政のもとに人々が新しい住宅に移り、それでも復活する「お獅子さま」には、今教えてもらったように「心の拠りどころ」という新しい意味が生まれている。繰り返しになるけど、祭りの質が変わる瞬間が現在進行形で描かれていることは、凄いですよ。貴方が死んだ後も、地方研究の材料として使われる映画になるんじゃないだろうか。

我妻 ただ、春祈祷の行事そのものは、ほとんど映画の中には無いんですけど(笑)。

——あ、そうか。ドキュメンタリーと映像民俗学は違うか……。

世話になった人たちの間での板挟み

——少し角度が変わった質問ですけど、東日本大震災で三陸を始め、多くの町や村が避難、移住を迫られた。その時、〈ふるさととは土地なのか、人なのか〉という新たな設問が生まれたと思うんです。波伝谷はどちらだと思いますか。

我妻 うーん。波伝谷の場合は、団地を新たに造成した高台も波伝谷の地域なんです。ふるさとのうち、波伝谷の空間のうちではあるんですよ。でも、もとの自分の敷地には家は建てられない。
難しい話ですね……。僕はやはり、土地と人は分かち難く結びついていると思うんですけど。

——隣は誰それさんで、あいつの家は何十メートル西にある。例えばそういった環境も土地と人の関係と考えるならば、高台に移り住んだことによる変化は生まれてしまうのでは。

我妻 もともとの人と人の結び付きは、基本的には変わっていないと思います。ただ、住環境の変化で切れてしまったもの、または遠くなってしまったものはあるでしょうね。ささやかな、何気ない交流レベルのことが。
真新しい、インターフォンの付いた家に住んでいると、以前のように窓から外が見えて外からも中が見えて、気軽に顔を出せるような行き来がしにくくなったという話は聞きます。「波伝谷も都会のようになってきたね」って。そういうものが後々、いろんなところに影響してくるのかなとは思います。

——映画の中盤、俊喜さんたちは外からの支援による春祈祷復活を進めますが、その一環でのネットによる呼びかけを我妻さんが頼まれることになります。あそこで貴方は撮影者から状況の関与者になりますね。

我妻 幹生さんの肩を持ちたい、考えを尊重したい気持ちは持ちつつ、お世話になっている人から協力を求められたらそっちにも答えたいし……。それに、自分の撮り溜めた映像が何かの役に立てるのなら、震災前の映像を開示したい気持ちも正直あったんです。それまではブログやSNSなどを一切やっていなかったので。
ただ、あのネットでの支援呼びかけは、頼まれはしたけど正直そんなに期待されていたわけではないんです。僕に関することは、役員の間でも全然重要視されてないし(笑)。

——それでも、他県に住んでいる波伝谷出身の人からネット上で疑問の声が出て、貴方が説明に向かう場面がある。その人の言葉が批判ではなく、部落の総意かどうかを確かめたかったという点に、地元を思う気持ちを感じてホロッときました。

我妻 はい……。若者たちの決起会に監督も同席していて、支援に頼らずに進めたい話を聞いていたはずなのに、どうしてネットで支援を募っているんだ? と。その方もネット上の情報で類推するしかないし、僕が板挟みに合っている状況も分からないから、疑問を感じるのはもっともだったんです。
それに、他県に出た若い人にも、「お獅子さま」は自分たちの力だけで復活させてほしいという気持ちがある。そういうプライドが波伝谷の人にはあるんですよね。部外者の僕がかき回してそのプライドを傷つける形になってしまったな……と思い、お騒がせしたことを謝罪しに行ったんです。
その方も、支援は絶対にダメ、という考えではない。あくまで総意であるならば賛成なんですよね。非合理的に時間がかかろうと、地域の論理というか、中で現役でやっている人たちのコミュニティの文脈を大事にする。

——素晴らしいコミュニティの在り方だと思う気持ちは変わりないのですが、一方で、そこまで部落の中でのコミュニケーションが密接だと、息苦しくなってしまう人も出てくるかな。

我妻 そうですね。そういう人はやはりいますよ。僕が会いに行った方もそのひとりです。地元が嫌で外に出た。そういう人でも、震災後はふるさとのことをとても気にしているんです。

『願いと揺らぎ』より

▼page5 部外者と当事者の関係性を描いた映画でもある に続く