【Interview】『願いと揺らぎ』震災後も変わらないものを描きたかった~我妻和樹監督インタビュー

『願いと揺らぎ』より

映画を完成させない限り、時間は止まったまま

——いずれにしても、『波伝谷に生きる人びと』と同じ人が『願いと揺らぎ』でも登場する。シリーズの映画を見る妙味がありますね。前作よりもしんどそうな表情になった人を見るのは辛いんだけど。

我妻 2011年の7月上旬から避難所での撮影を始めたと言いましたが、それまでは僕も波伝谷を訪ねる精神状態になれなかったんです。だから、震災直後のギリギリの状況で部落の中に何があったのか、どんな激しいストレスがあったのかは直接見ていない。
そこは、ある苦しさとして僕自身にも付きまといました。でも戻れなくて葛藤していた時間も、今となっては必要な時間だったと思っています。
そう……誰でも、どんな集団でも、8割は見せても絶対に人には見せない2割の面を持っている。全て見せないことで生活は成り立っていると思うんです。震災直後はその、人には見せない2割まで全部露わになってしまう状況だった。バラバラになりかけたのには、そういう面もあるんですね。
それでも、また前のような結び付きを取り戻したいという動きが、「お獅子さま」の復活だったんです。

——『波伝谷に生きる人びと』にしても『願いと揺らぎ』にしても、素材の中に、震災後に環境がずいぶん変ってしまった人や亡くなった人の元気な姿がある。リアルタイムの取材を続けながらその素材を見るのは、大変だったのでは。編集に時間がかかればかかるほど。

我妻 それはもう。現実の時間はどんどん展開されていますから。だから僕の時間は、映画を完成させない限りはずっと止まったままなんですよ。

『願いと揺らぎ』を完成させられない期間、震災後の波伝谷に関することを僕は何一つ自分から発信しませんでした。映画に出来ていないのに、今の波伝谷について語れない。『波伝谷に生きる人びと』が完成したとはいっても、あくまで震災までのことで、実際には震災から何年も経っている中で、現在に自分が追い付いていない。だから、『願いと揺らぎ』を完成させて、震災後の表現がようやく現在に追いついてきたのは、自分にとってとても大きなことでした。

——出来上がるまでは、トンネルの中にいるような心境?

我妻 特に『波伝谷に生きる人びと』の時はそうでしたね。ひとりでの編集作業に3年かかりましたから。まあ、それも「映画」という形にこだわらなければまた別な展開もあったのかもしれませんが。そう思って始めたものだから。

——neoneoの編集メンバーだった時、このサイトでは新人監督にインタビューすることが多かった。我妻さんもそのひとりなんだけど、話を聞いている時と公開されてからでは、みんな顔付きがガラッと変わるんですよね。思い詰めたように暗い顔をしていたのが、自分の映画を見てくれるお客さんと直に接して生き生きしてくる。「あ、オレはこの世の中にひとりだけじゃなかった!」みたいな。

我妻 それ……凄く分かります(笑)。作っている時は本当に孤独なんですけど、公開した後は、ひとりだと感じたことは無いです。応援してくれる人はみんな仲間という感じがしていました。

 

「自分たちの思いを撮り、外に伝えてくれる人間」として

——さて、『願いと揺らぎ』ですが、契約講の講長の交代で俊喜さんが講長となり、新たな中心人物となります。講長は、任期が決められているものなんですか?

我妻 基本は2年に一度交代します。地域によっては、リーダーシップの強い人が何年も長を続けて周りはノータッチという例があるかと思いますが、波伝谷ではほぼ2年毎に交代して、みんなが部落のことに関わる仕組みになっています。誰でも然るべき年齢になると然るべき役に付き、地域の中で役割を持ちます。
ところが俊喜さんは、あの大変な状況の中で、三役の経験無しに講長になったんです。

——俊喜さんは上下左右を見ながら辛抱強くハンドリングしていく、まさに農村民主主義の体現者と見えましたね。宴会の夜、「男童(おとこわらし)だからやる時はやらなきゃ!」と酔って笑いつつ、「みんなが自分の意見ばかり言ってもダメなんだ」と漏らすでしょう。立派なものだと思いました。

我妻 一番動き回る役目だから批判される場面も多いのですが、率直な、憎めない人ですよ。

——『波伝谷に生きる人びと』の最初期の長いバージョンは、2011年12月に波伝谷の人たち向けの試写会で上映したそうですね。

我妻 はい。この試写会を終えて、年が明けた頃から『願いと揺らぎ』の撮影を始めました。

——この時期をきっかけに、貴方自身の部落における存在感も変わったのではありませんか? 「なんだかよく分からないけどカメラを持ってる我妻くん」から、ともかく「映画を作る監督」に認識が変わったはずだから。

我妻 自分がやろうとしてきたことを見せられたのは大きいです。ただ、その試写会自体は未完成のものの上映でしたから、全てが整理できたわけではありませんでした。その辺の関係性の変化にはグラデーションがあります。
ちゃんと映画を作る人間と思ってもらえるようになったのは、やはり、『波伝谷に生きる人びと』を完成させて、世の中に広められるようになってからです。ただ、『波伝谷に生きる人びと』には震災前の地域の姿がたくさん映っているから、思い出としては感謝してもらえたけど、映画としてどうかとなると、ほとんどの方には何とも思われていませんでした(笑)。
それが『願いと揺らぎ』では、映画として受け止めてもらえるようになった。たぶん、それだけ当事者の方々が抱えていたものに迫っているからなんだと思います。より信頼を置かれるようになってきたのか、「我妻は単なる記録係ではなくて、自分たちの思いを撮り、外に伝える人間なんだな」という認知も広まってきたような気がします。今では僕の呼び方も、「我妻くん」から「監督」に変わりました(笑)。まあ、半分は冗談だと思いますが。

——そうなると、難しさも出てくるのでは。貴方がカメラを持っていると、いずれ映画の一部に使われるという予想が生まれて、これまでのようにざっくばらんに話してもらう機会が減る……ということは?

我妻 それもあるのかもしれませんが、現在のところは腰を据えて撮影していないこともあって、あまり感じていません。
何というか……僕が考えているよりもずっと、みんな僕の撮影を気にしていないんです。もちろん撮るものによっては違ってくるでしょうし、もし個別の人を追いかけることになったら、その人の問題にはなってくると思うけれど。波伝谷という部落を撮りたい僕の望みに対しては、鷹揚に受け止めてくれています。

——それだけ信頼されているのでしょうか。こいつは滅多なことはしないだろう、と。

我妻 どうなんでしょう……。実は撮影を始めた当初から、部落の上の立場の人が僕を守って撮らせてくれていた面があります。本当は僕の撮影を快く思っていない人もいましたが、みんなが認めているから、と暗黙の了解が出来ていたんです。「我妻は受け入れないといけない」みたいな。そういう空気が次の講長さんにも引き継がれていって、震災後も僕の認められ方自体はあまり変わらなかった。むしろ変わったのは、僕の意識のほうです。

——というと?

我妻 震災前は自信の無さから、ずっと遠慮しながら撮っていました。傷つくのが怖くて、なかなか相手の懐に踏み込んでいけなかったり。
でも震災後、撮影と並行して『波伝谷に生きる人びと』を編集し、試写会を重ねながら、そんな考えが変わっていったんです。この大変な状況で震災前と同じ姿勢だったら邪魔者にしかならない。嫌われても否定されてもいいから、お世話になった波伝谷の人たちのことをちゃんと伝えるんだ、と。
そういう意気込みになってからは、カメラを持ってグイグイ行けるようになりました。図太くなったというか。それで、より本音で話が出来るようになっていったんです。姿勢の変化は、撮った素材の中にも表れていると僕自身は思っています。

『願いと揺らぎ』より

▼page4 この映画には必要だった時間 に続く