【Interview】『願いと揺らぎ』震災後も変わらないものを描きたかった~我妻和樹監督インタビュー

考え方は違っても、思いは一緒

——震災の後も避難した波伝谷の人たちを撮影している時、このまま部落の多くのものが失われるかもしれない、という思いは我妻さんにもありましたか?

我妻 すぐ、目に見えるようにではなくても変わっていくだろうな……という気持ちはありましたよね。
だからでしょうか、映画を見てくれた人から、「一番『お獅子さま』の復活を望んでいたのは我妻さんなんじゃないか」という感想をもらったこともあります。それだけ、波伝谷の人たちにはがんばってほしい、この地域のつながりが消えないでほしい、という思いがありました。

——今さっき我妻さんが言った「手段」というところに、僕は感じ入ったんです。祭を「昔から行われてきたもの」でありつつ、「今の共同体を救うもの」として活かしていく。幹生さんのお母さんである菅原とみ子さんにしても、俊喜さんにしても、言ってることが春祈祷が近づくにつれてだんだん同じになってくる。

我妻 はい。みんな、やり方や考え方は違っても思いは一緒というか。

——波伝谷だけの力で「お獅子さま」を復活させたい幹生さんたちと、部落全体の状況や負担を考えて支援を歓迎する俊喜さんたちの間にズレが生じたわけですが、結局は、幹生さんが思い描いたのに近い形になります。

我妻 幹生さんも、絶対によその支援を受けたくないわけではなかったんです。何よりも大事にしていたのは、「お獅子さま」復活をきっかけにして自分たちが力を出し合うことでした。結果的には確かに、おかあさんたちが自発的に動き出したりして、そうなりますね。

——幹生さんの発案が良いことであっても、俊喜さんたちはいったんは止めて全体を考える。漁業再開にしても、軌道に乗るまでの暫定ルールに苛立ちを見せる人がいるけれど、辛抱してもらう。何事にも時間をかけますね。そこは見ていて本当に勉強させられました。モタモタしているようで、そのモタモタに深い知恵がある。

我妻 はい。そこはすごく大事だと思っています。実は映画評論家の佐藤忠男さんにも、同じようなことを仰ってもらいました。2016年の〈第3回 グリーンイメージ国際環境映像祭〉で『波伝谷に生きる人びと』が上映された時、大きな賞は獲れなかったんですけど、審査委員長の佐藤さんが個人的にとても好きだと言ってくれて。

「若い頃に柳田國男が『日本には戦前から民主主義があった。それは都市部ではなく、遅れていると言われがちな農村に存在していた』と書いてあるのを読んで、感銘を受けた。しかしそれが一体どこに息づいているのか分からなかった。貴方の映画を見て、数十年の疑問が解決しました」と。

——それは大変な賛辞だな。驚いた。

我妻 このことを佐藤さんは『願いと揺らぎ』のパンフレットにも書いてくださっています。多数決でグイグイ話を進めることを良しとしない、秩序や和を重んじる姿勢について。
幹生さんにしても、「お獅子さま」復活の準備を自ら率先しないのは、それまでに様々な形で地域の交際を経験しているからです。幹生さん位の若い世代でも、上の世代の人間関係を傍で見ていて、バランス感覚を肌で分かっている。みんなの和を保ちながら話を進めていくためには、凄く沢山の手間がかかり、配慮すべきことがあるとよく知っているんです。
それがひとりひとりの中に息づいている。そとの人が見ると「なんだこのもどかしさは」「ゼンゼン合理的じゃない」と思うかもしれないけれど、あの地域の中では必要な時間であり、調整なんです。この先もみんなで生きていくためには、わだかまりを残してはいけないから。

『願いと揺らぎ』より

震災前と今が、「お獅子さま」でつながる

——素晴らしい発見だと思いますが、我妻さんはもともとそういう魅力を波伝谷の人たちに見出していたんでしょうか。それとも、撮影しながら見つけていった?

我妻 地域の中で生きていく人間模様を描きたい望みは、最初に撮影を始める時からありました。お互いに深く関わり合いながら人が人として成長していく、そういう土台が波伝谷にあることは、いろんな人の話を聞き、卒論を書いている段階でもう見えていたので。

——では、そこも『波伝谷に生きる人びと』から一貫していることだった。

我妻 でも、『波伝谷に生きる人びと』では自分の見てきたこと、感じたことが全く撮れていなかった……というのが実感です。2008年からカメラを回して震災が起きるまでの3年間、とうとう最後まで自分の求めていたものは撮れなかった。それで編集にも時間がかかったんです。散漫なものをどうまとめようかと。
結果的には、波伝谷での何気ない日常の営みを記録している価値に気づくことが出来ましたし、若い作家である僕が人々にお世話になって成長していく過程が描けたので、いい作品にはなっていると思うんですけど。
ですから、当初に描きたいと考えていた地域の人間像は、『願いと揺らぎ』でやっと形に出来たかなと思っているんです。

——なるほど。同じ部落が舞台だし、時系列としても『願いと揺らぎ』は続編といっていい作品ではあるけれど、1本の映画としての質は『波伝谷に生きる人びと』とは異なっているわけですね。
『願いと揺らぎ』では、スケッチの積み立てではなく、最初から「お獅子さま」復活のプロセスに軸を定められている。この判断はどの段階で?

我妻 実は震災後、2011年の7月上旬から避難した波伝谷の人たちを撮っていましたが、すぐに行き詰ってしまったんです。僕が見てきた震災前と震災後の現在では、被災したみんなを巡る状況の全てが大きく変わってしまい、避難生活を撮ってもどこをどう掘り下げていけばいいのか、まるで分らなくなって。
でも避難所から仮設住宅に入り、震災から1年位経って少しずつ落ち着くと、多くの人が震災前の生活に思いを馳せるようになっていきました。震災が無かったら当たり前に続いていた暮らしを取り戻したい。そんな気持ちが高まるなかで春祈祷の時期が近づいた時に、「お獅子さま」を復活させたいと声があがったんです。
その話を聞いた時、僕自身、震災前と震災後の現在がどこかつながる気がしたんですよ。何を撮ればいいのか分からなくなっているけど、まずはこれをしっかり撮ろう。短編でもいいから復活のストーリーを作ろう、と決めて撮影を再開しました。

——以前のインタビューでは、ゆくゆくは波伝谷を舞台にしたサーガ、長編の連作を作りたいと伺っています。では、『願いと揺らぎ』の位置づけは……。

我妻 うーん、もともとはあくまで番外編の企画。スピンオフなんです(笑)。これが『波伝谷に生きる人びと』の正式な続編だという意識はありませんでした。それが当初想定していたものよりもスケールが大きくなり、長編になったので、結果的には「第二部」といっていい作品だとは思っています。

『願いと揺らぎ』より

▼page3 映画を完成させない限り、時間は止まったまま に続く