【Interview】『波伝谷に生きる人びと』 我妻和樹監督 インタビュー

大学で民俗学を学んでいた我妻和樹という青年が、宮城県南三陸町の漁村・波伝谷が持つ地域としての厚みに惹かれ、卒業後もカメラを持って通い、紆余曲折を経て1本のドキュメンタリー映画を完成させた。それが、『波伝谷に生きる人びと』だ。
あらかじめ言っておくと、今年公開される国内ドキュメンタリー映画のなかでは、屈指の1本。僕の嗅覚だけで言い切っているんだけど、自分の鼻に自信がなければ、記事なんか作るのやめたほうがいいからね。

波伝谷は、2011年3月11日の東日本大震災で被災した。 そのことに大きな影響を受けた映画ではあるが、本作は、震災後の被災地に取材した多くのドキュメンタリーとは性質が異なっている。我妻は、2008年から撮影を開始し、震災前には最初の編集を始めていた。彼がもともと波伝谷を舞台に、そこに暮らす人々を通して描出したかったものと、現在の僕らが本作を見て受ける感慨とには、断層があるのだ。 特にこのあたりに注意しながら、話を伺った。

取材を終えた後、僕が我妻さんに「もしも舞台を見ていなければ、戯曲だけでも読んでおくといい」と、ついお節介に勧めたのは、ソーントン・ワイルダーの『わが町』(1938年初演)だった。本作をすでにご覧になった方には、この戯曲のことをちょっとだけ頭の片隅に入れてインタビューを読んで頂けるとありがたい、です。

そして、公開が始まってからの記事掲載になってしまい、たいへん、申し訳ないです……!
(取材・構成:若木康輔)



「波伝谷」という濃密な小世界を、ひとつの生き物として描きたかった


——我妻さんは宮城県の白石市出身。大学(東北学院大学文学部史学科)在学中の2005年3月から波伝谷の民俗調査に参加して、波伝谷の土地と人に惹かれ、2008年3月の卒業と同時に映画を撮ることになった。 まず、その動因について伺いますが、同じ宮城県とはいえ、白石市と波伝谷とはずいぶん離れていますよね。

我妻 もう、全然、縁も所縁もない土地でしたよ。150キロ近く距離が離れていますし、漁村の文化も全く知りませんでした。 それでも波伝谷には、僕のバックグラウンドと大きく重なるところがありました。それが、映画を撮りたいと思った大きな理由のひとつです。

僕の家は白石市でも田舎のほうで、そこの旧家の本家なんです。だから子どもの頃から、いろいろな親戚付き合いに接して、本家が背負わなければいけない役回りも見てきました。 僕は次男なんですけど、兄貴が東京の大学に行って音楽ばかりやっていました。そのまま迷わず音楽に打ち込んでいればまた違ったのかもしれませんが、結局は本家の長男という立場から逃れられず、夢をあきらめたんです。僕は逆に、家にずっと厄介になりながら、好き勝手なことをしているんだけど(笑)。

そんな兄を気の毒に思う一方で、でもそういうところで人間的に成長する部分は、間違いなくあるなと思っていたんです。本家の跡取りとして沢山の親戚を抱え、その先には地域との密接な繋がりが待っている。それは今の時代にはすごく面倒くさいことだけど、大きな責任を背負う凄みもある。 次男の僕は、その重さに縁が無いわけです。子どもの頃から「アンタはいいんだから」と言われてきて、それは自由だけど、同時にとてもつまらないというか……。大事な時に自分はカヤの外で、逆に、自分には成長するチャンスが与えられていないような、損な気分になることもありました。

そういう、自分の持ちえなかった世界に対する願望や憧れを、波伝谷の、旧家や分家の人たちが入り混じりながら土地で暮らす人びとに投影したところはあるんです。

——ただ波伝谷の土地と人に惹かれただけではない、のっぴきならないモチベーションがあった。

我妻 でも波伝谷の地域のつながりは、僕の知っているそれとは全く違う濃密なものだったんです。そのことに、ものすごい衝撃を受けました。 波伝谷の人たちは、自分たちの住む地域を集落や地区などと言わず、愛着を持って「部落」と言うんですよね。約80世帯の小さな世界の中で、せめぎ合いもありながら顔を突き合わせ、1人1人が主人公として生きている。通う度に、人間くさい「部落」全体を好きになっていきました。

——我妻さんにそうした必然があるからでしょうか。映画は、波伝谷で今も残る社会組織・契約講や春祈祷など、この漁村ならではの姿を描きつつ、共同体とは何かという普遍にだんだんと近づこうとします。

我妻 ひとつひとつの要素にはそれだけで勝負できる内容があるんですけど、この映画ではそれぞれ深く掘り下げてはいません。それよりも、そこに流れていた時間そのものというか、波伝谷という一個の世界の総体を見せることを優先しました。

——それでも、昔から契約講に加入して共同作業を行なったり、共有財産を管理・利用し合ったりする旧家と、そこに入れなかった新興の家とのことには、長い尺を取っていますよね。

我妻 そうですね。『波伝谷に生きる人びと』は、大きく2つの構成に分かれています。前半では、契約講の家である三浦賢一さん夫妻、そして新興の家である小山忠一さん、三浦幸美さんご家族の姿を通して地域の歴史的な変遷と生活者の日常を。 後半ではそれらを踏まえた上で、現在の地域が折り合いをつけながらどうまとまっているか、という全体的なことを描いています。

『波伝谷で生きる人びと』より

——後半には地区対抗のソフトボール大会があり、波伝谷の中のみに入っていた視点が、さりげなく外に拡がります。公民館の館長をつとめている人が「あなたから見たら(波伝谷は)狭い世界かもしれないけれど、狭い世界には狭い世界なりの……」と我妻さんに語る場面が、うまく機能していて。 『波伝谷に生きる人びと』には、巧まずして小川紳介の映画を引き継いでいると言いたくなる魅力があります。人だけでなく、村も弾力のある細胞を持った、生き物として捉えようとしている。

我妻 そういうところを、見る方に感じていただけると嬉しいです。 波伝谷の人たちって、1対1の間だけでも、様々な関係性があるんですよ。まず多くは親戚関係。それに契約講を始め、いろいろな会や組織を一緒にやっています。さらに海の仕事仲間、飲み仲間、遊び仲間……。1人の人間だけを見ても、波伝谷の中で多くの社会性を持っていて、それが網の目のようになっている。ひょっとしたら、都会で生きている人たちの人間関係よりもずっと豊かなんじゃないかと思うときがあります。土地で生きる人たちのそうした複雑さは、それこそ生き物のように描きたかったんですよね、確かに。

▼page2  自信が無いまま撮っていた、撮らせてくれた につづく