【Interview】『波伝谷に生きる人びと』 我妻和樹監督 インタビュー


この映画は、実は大きな〈波伝谷サーガ〉の1本なんです

——ここでいったん、『波伝谷に生きる人びと』が、現在公開されている形になるまでをお聞きします。震災後、2011年の暮れには1章・2章から成る計6時間弱の版が作られたそうですね。

我妻 もとは3章構成で一つの映画を作るという構想だったんですけど、あの時点で形に出来たのは1章と2章のみでした。ただし1章と2章は、それぞれ別個に完結しています。1章が群像劇で2章が個人の物語。3章は自分自身を描くつもりでしたが、これは無理だと断念しました。 公開している『波伝谷に生きる人びと』は、この時の1章と、3章で活かすつもりだった映像を足して凝縮させたものなんです。 2章で描いたものも、いずれは姉妹編として発表したいと思っています。

——その頃、プロデューサーの安岡卓治氏(本作にも特別感謝のクレジット)が関わっていたと聞いています。

我妻 実は2011年の12月に初めて波伝谷で試写会を行ったとき、安岡さんが来てくれたのですが、そのときは遅れてしまって2章しか見てもらえなくて。3時間45分あった1章を初めて見ていただいたのは、2012年の5月でした。 その時、単なる日常が映っている僕の映像を見て「こんなの、絶対撮れないよ!」とすごく評価し、励ましてくれたんです。安岡さんは多分、素材の良さというものを敏感にキャッチする方なので、その辺を感じ取ってくれたのではないかと。

その頃の僕は波伝谷での撮影に専念していて、安岡さんに見てもらった後から再び本腰を入れて編集を始めました。 でも、一度作ってしまった構成をなかなか自分で切り崩せないんですよね。 自分にとって初めての「映画」を意識した作品だったので、そもそも編集の力量が足りなかった。そのことが、震災があったことよりも大きかったと思います。拘りや思い入れが強過ぎて、それを上手くコントロールできずにいました。

安岡さんに相談すると「とにかく信用できる人に見てもらい、徹底的に批判を受けなさい」と。その上で、何が良くて何がいけないのか、冷静にしっかり分析するようアドバイスを貰いました。 ですから、具体的に安岡さんの手が入っていることは無いのですが、編集で悶々としている時、困った時に、常に相談に乗ってもらっていました。 一番苦しかった時期に、心の支えになってくれたのが、安岡さんなんです。

——本作を完成させて、ライフワークのような長い構想にいったん区切りをつけているのには、波伝谷が被災したことが理由としてありますか? 『波伝谷に生きる人びと』は、ゆっくりと変化していく土地と人を丸ごと描くことが主眼であり、魅力の映画ですから。震災という大きな、急激な変化でそれが崩れたのではないかと。

我妻 うーん。それも理由としてはあるかもしれません。ただ、もともと震災前から第2部を作るとしたらそれは10年後だろうとは思っていました。そこで震災が起きたわけですけど。 当初から僕がやりたかったことは、この作品である程度やりきった気持ちもあります。 自分でもどう話せばいいか、難しいところなんですが……。

震災後に撮影した映像は、約300時間あります。これを、まだ編集できていません。 それで終わらず、今も撮り続けなきゃいけないものは沢山あると頭では分かっています。 ただ、今は撮影を続けるモチベーションが、心の中でなかなか動かないんです。

——というのは?

我妻 学生時代の民俗調査から数えたら、すでに10年間これだけをやっているわけです。いったん、どこかで関係を冷やさないことには大きな変化は無いだろうと。 自分が出来る以上のことを抱え込んだら大変なことになると、これまでの経験で痛感しています。だから、ひとつずつ形にしていかないことには撮影を続ける気になれない、という思いもあるんですよ。

一方で、ある映画監督の方には、「これだけの関係が出来ているんだから、作品にするかどうかは別にして、ひとまず記録としてカメラを回すだけでもいいんじゃないか」と言われました。 この映画を見てくれた方たちの多くは、波伝谷の人たちのその後が純粋に気になって、何らかの形で見たいんですよね。 それについては、なるほどな、と思いつつ、いずれは作品にするという意識を持たずに撮影するのは、どうしても自分の中で抵抗があります。これは性格的なものかもしれませんが。

——とにかく1本を世に出せる形にまでしたことで、題材との関係が整理される。思いが昇華されるというか。そうなると作り手の内部も変化するから、新たなモチベーションが生まれないことには、今までの心構えの延長で作り続けるのは難しくなる。それは理解できる気がします。

我妻 でも、『波伝谷に生きる人びと』で本当に全て昇華されたのかというと、自分ではいろいろと思うところもあるんですよね……。その気持ちは、パンフレットのあとがきにも書いています。 いずれにしても、波伝谷は常に自分の傍にある題材ですし、映画というものを抜きにしても、僕と波伝谷の人たちとの関係はずっと続いていく。それはプレッシャーでも何でもなく、ごく自然なものとして、生涯関わり続けて行くものだと思っています。

波伝谷に出会うまで、映画は封印していました


——少しさかのぼって、大学卒業後も、さらに個人の映画製作を続けることにした経緯を、具体的に教えてもらえますか。 卒論も波伝谷を選び、調査報告書まで発表したのなら、普通はそこで完結してもよさそうなので。

我妻
 僕は、もともと映画が作りたかったほうなんですよ。感受性が強かったほうなのかな。小さい頃から自分の想像する世界を描きたいと思っていて、小学校5年生の時に実写版の『赤毛のアン』を見て感動して、俺は映画をやる、と決めました。

——そうでしたか。我妻さんが波伝谷を撮る理由のなかには、民俗調査の延長、オーラル・ヒストリーの収集というテーマもあったのかなと思っていたんですが。

我妻 僕の中では民俗学は、自分の映画の表現を高めるための手段として選んだ、そういうニュアンスのほうが強いんですよ。映画が作りたければ、映画学科のある大学などにまっすぐ進めばいいんですが、性格がアマノジャクで、そういうところに行けないんですよね。もし入ったとしても、やっていけないだろうな……と。

——やっていけないとは?

我妻 潰れちゃうんじゃないか、みたいな(笑)。自我が強い割には自分に甘い、モラトリアムなところがあるんです。まっすぐ映画の学校に入って周りと切磋琢磨しながら、という選択肢もあったはずなんですけど、別の視点で自分の世界観を養いたいとも思って。

——映画をやるために、映画とは別の分野を学ぶ。その考え方自体は、素晴らしいですよ?

我妻 振り返ってみると、中学の経験が大きいです。三年生の時に友だちと13分位の映画を作って、文化祭で上映したことがあるんです。当時の好きな監督はウォン・カーウァイや岩井俊二。見る人が見たら、バリバリに影響を受けていることが分かる(笑)。 その時、映画を作る難しさをイヤというほど味わったんですよね。中学生なんだから当たり前だけど、自分の作りたい世界を表現する力量が伴っていないと、こんなに苦しい、後味の悪いものなのかと。デビュー作って、もっと華々しいものだと思っていたのに、イヤな自分しか見えてこないし、一緒にやってくれた友だちにも申し訳ない気持ちで一杯になるし……。

——うん……。自分の話をさせてもらいますけど、僕も中学三年の夏休みに、ひとりで初めて人形アニメーションを作り、イメージしていたものとの落差がトラウマになりました。非常によく分かる気がします。

我妻 僕はその時、これから10年は映画を作っちゃいけないと思いました。さっきはモラトリアムと言いましたが、理想主義者というか、求めるものが最初から高いところがあるんですよね。映画を作るよりも先に、作っていいだけの力、裏打ちになるものを身に付けようと、自分で自分に制限をかけた。大学で民俗学を選んだのは、主にそういう理由です。

——このインタビューの日取りについて我妻さんと連絡を取り合っている時、僕は「劇映画をいずれ作りたいのでは?」と聞きました。『波伝谷に生きる人びと』にはそう感じさせるところがある。今のお話を伺い、とても了解できました。

我妻 僕の中では、ドキュメンタリーと劇映画の区別は大して重要ではないんです。それはもう、いろいろな作家がすでに言っていることだと思いますけど。自分が伝えたいことを表現するために、演出によってそれを再現するのか、それとも現実の出来事を追いかけていくのか。その手法の違いでしかない。どっちにリアリティを感じ、重きを置くのかは、作品によりけりで構わないと思っています。もちろん、2つが混在する場合もあるでしょうし。

実は、波伝谷で撮影を始めた時は、ドキュメンタリーのドの字も知らなかったんですよ。最初は当たり前のように、作り手は空気のような存在でなくてはいけないとか、そんなふうに思っていました(笑)。 でも、そんなのは作り手の美学の問題で、本来はもっと自由。そういうことは後で勉強しましたが、波伝谷では最初から直感で、いわゆる報道番組的な撮り方よりも、映画であることを意識して撮ったほうがいいと思っていました。

『波伝谷に生きる人びと』

——それまで大学でずいぶん調査してきたわけですから、それを基に戯曲や脚本を書くなど、劇を作るという選択肢を考えたことは?

我妻 それもありだと思いますし、実際そういう構想もあります。映画を撮り出す前に3年間波伝谷に入り、いろいろなものを見聞きして、衝撃も感銘も受けましたから。 ただ、僕が感じた土地の空気のような、文章で表現しきれないものに対する映像的欲求みたいなものが、3年の間にどんどん膨れ上がっていったんです。そこで劇に行っちゃうよりも、まずは目の前にある現実の生の魅力を表現するところからスタートしたかった。それに、仲間がいないからドキュメンタリーでやるしかないという(笑)。

その意味では、波伝谷は今本当にやるべき価値のある題材だと思いましたし、映画に対する欲求が溜まっている時だったので、タイミングが合った、とは言えます。 一方で、文章で表現し足りなかったことをもっと掘り下げて書きたいという気持ちも残っていて、それはいずれ何かの形で残したいとは思います。学問の世界で発表したいという希望も、少なからずありますし。

▼page4 作品として伝えるべきことと、生き方との狭間で につづく