【Interview】『波伝谷に生きる人びと』 我妻和樹監督 インタビュー


自信が無いまま撮っていた、撮らせてくれた

——そこに、カメラを持った我妻さんがいる。「我妻くんはいつも隅っこで撮影してるなあ」みたいに、「部落」の日常の風景として馴染むようになった。民俗学の言葉でいう「まれびと」の立場に、我妻さん自身がなったような面白さがありますね。「まれびと」は中世からの時代、芸能や文化を持ち込むことで村に居場所を与えられた漂泊民のことでしょう。折口信夫や網野善彦などを少し齧っての受け売りですけど。

我妻 ああ、なるほど……。僕も民俗学を学んでいたと言いつつ、本はそんなに読んでいないんです(笑)。もっぱらフィールドワークばかりで、体で覚えるタイプなんですよね。

撮影中は、誰も僕を映画監督とは思っていませんでしたよ、もちろん。僕自身も何の実績も無いし、証明できないから「映画のために撮っています」と自信を持って言いにくい。だから、常に遠慮しているんですよね。 波伝谷の人たちも別に、僕に何かを期待して撮影を認めているわけではないんです。どっちかというと、とりあえずこいつも何かがしたいんだろう、拒否するのも可哀想だ(笑)……という感じでした。

——波伝谷では、宿はどうしていたんです?

我妻 大学の時から定宿になっていた民宿が、波伝谷にあったんですよ。後半は、親しくなった波伝谷の人が経営しているペンションにお世話になっていました。それに、人の家でお酒を呑んでそのまま泊めてもらったり。

——誰かのお宅の酒席でカメラを回していて、「我妻くん、撮影やめてこっち来い」などと言われたらすぐレンズを下に向ける。あれが微笑ましいというか、妙におかしい。

我妻 はい……(笑)。あそこから、いい話を聞こうと懐に飛び込んでいく、そういう覚悟が当時の僕には全然無くて。波伝谷の人たちも今は映画が完成したので、ああ、あいつはこれがやりたいんだと、みなさん分かってくれていますけど。当時は、映画を撮られているという共通理解が無い。それまでの僕は、ノートにメモを書いている大学生ですから。 だから、映画の前に波伝谷に3年通っていたことは、マイナスでもあったんです。今までは学生のひとりだったけれど、これからは映画を撮影する我妻和樹個人だ。そういう自分のペースになかなか持って行けなかった。そこは最後まで出来なかったかな。

要するに、僕の方が自信の無さゆえに勝手に壁を作っていたんです。 逆に言えば、その遠慮が程良い距離感としてプラスに働いているのかもしれませんが……。

——撮り手の怯えが、画面上ではユーモアになっている。そこは我妻さんの、センスと人柄がシンクロした良さですね。それに、波伝谷のみなさんの働く姿がどれもいい。加工場でテキパキとホヤを切る女性のリズムとスピード。あれには感動しました。

我妻 はい、ああいう姿はぜひ劇場で見て頂きたいです。ストーリーとは直接関係ないところに写っている肌触りを感じてほしいというか。 ああいう所作や、そこに滲み出てくる経験や知恵みたいなものって、撮っている時は全然気づかなかったんですよ。編集の段階で気付かされたところが、沢山あります。

『波伝谷で生きる人びと』より

——一方で面白さを感じたのは、会話です。「アレはアレで」「アレだから」といったやりとりが多い(笑)。 いかにも日本人の会話らしいおかし味を感じるのと同時に、示唆も受けました。もしかしたら、こういうボカし方が古くから漁村や農村の利益を守ってきたのかもしれない。共同体の持つ閉鎖性を、合理的な知恵として捉え直すヒントにもなりました。 こうした会話は、撮っている時の我妻さんはどれ位理解できていたんですか?

我妻 いや、僕もその場にいても全然乗れない、混ざれない時のほうが多かったですよ。何を言っているのか分からないまま、「はい」と相槌を打っていたり(笑)。 約80軒あった「部落」の関係は僕も大体は把握していたので、人の話になると僕も理解はできるんですけど、仕事の話、漁の話になると分からないことばかりでした。 映画では、何の話題について話しているのか、前後で分かる場面を主に抽出しています。

——ああいう会話は、フィクションで表現するのはなかなか難しい。

我妻
  そうなんです。目の前にこんな面白い人たちがいるんだから、脚本にするより撮った方がいい。

『波伝谷で生きる人びと』より

▼page3 この映画は、実は大きな〈波伝谷サーガ〉の1本なんです につづく