1979年のレコードと2018年の舞台の間に、隔たりが無かった
本盤を神保町の中古レコード店で手に入れたのは、4年ほど前。現在の公演を見てからちゃんと聴き込もうとストックしておいた。なのに東京公演を見逃すことが続いて、ジリジリしていた。やっと行くことが出来たのは、今年(2018年)の2月3日、全労災ホール・スペースゼロ。
「坂本長利 独演劇『土佐源氏』上演50周年 米寿記念 東京公演」。
米寿。88歳! しかし、元ばくろうも80過ぎの老人である。坂本長利はコツコツ演じ続けて遂に、役と同じ年齢、同じ年輪の肉体となっているんだ。
上演時間は1時間弱ほどかな。1979年の本盤と、ほぼ構成は同じ。
聴くメンタリーの参考に……の意識は冒頭からすっかり忘れた。そこにはただゴロンと、長年連れ添う婆の帰りを待ちながら、自分の昔話を所望する珍客に喜ぶ年寄りが座っているのだ。大した観劇数ではないのに生意気を言うけど、久々に本質的なレベルの演劇を見たと思った。
しかし、終わって反芻したところで、ますます感嘆させられた。レコードと今の公演の間に、ほとんど年月の隔たりが感じられないのだ。当たり役を長く演じ続けた俳優は多いが、ここまで変化の少ない例はすぐに思いつかない。
坂本長利は、初演から10年を過ぎての音盤化の段階で、すでに老人の表現をものにしていたことになる。早口が突然止まり、溜め、大きく息を吐く独特の間合いも、次々と思い出す記憶に口の筋肉のほうが追い付かない、肉体の制限ゆえのユーモアなのだと理解している。
以前、あるベテランの新劇俳優に、
「若いうちに老け役をやると、ゆっくり演技しがち。それではリアリティは出ない。年を取ったほうがせっかちになる。気持ちほどに体が動いてくれないもどかしさが、老人らしさ」
と教わって、ゾクゾクしたことがある。芸の達成は陰陽の和する境地にあると説いた、世阿弥に通じるメソッドをナマで聞いたからだ。
そして、そのお手本のような坂本の演技だった。1979年のレコードでは実年齢がまるで想像できないほど老人が表現されているし、2月の舞台では、88歳が80代の老乞食を演じる「ならでは」の実在感よりも、40代で掴んだ表現を88歳の肉体で巧妙にキープし続ける活力のほうが印象に鮮やか。そこが凄い。
だから、と言っていいのだろう。坂本の『土佐源氏』が、宮本常一の原作よりもさらにラブストーリーになっている瑞々しさは。
ばくろうの最初の大恋愛、役人の奥さんとの逢引きの場面。坂本はここで大きな脚色をしている。
まず宮本常一の文を。
「四、五間のところまで来て上を見上げたから、わしがニコッと笑うたら、嫁さんもニコッと笑いなさった。それからあがって来た嫁さんの手をとって、お堂のところへつれていって上がり段に腰をおろした。そしたら嫁さんが人の目につくといけんからいうて、お堂の中へはいっていった。わしもはいった。『わしのような者のいうことをどうしてきく気になりなさったか』いうてきいたら、『あんたは心のやさしいええ人じゃ、女はそういうものが一番ほしいんじゃ』といいなさった」
艶っぽくて、しかも温かい。わしらのような者は人間の屑、と卑下ではなく本当にそう思ってきた男の、閃光のようなときめき。
怪優・坂本長利はまだ青春を生きているのか
ところが坂本はここに、さらに情熱的な描写を加えているのだ。
「四、五間のところまで上がってきて、上を見上げなさったから、わしはニコッと笑うた……ハア、そしたら嫁さんもニコッと笑いなさった。そこで、あがって来た嫁さんの手をとって、上がり段に腰をおろした。そしたら嫁さん、あ、人の目につくといけんから……いうて、お堂の中へはいっていきなさった。嫁さんは履物をお堂の中に入れて、格子戸を締めなさった。そしてのう! この板の(足元の床を叩いて)床の上に座ってのう、わしの手をとって、それを、自分のみぞおちのところに当てて……『ハア……ほれ。……ほれ! こんなに、こんなに動悸が打っている』……というて……ウウ、わしの顔を見て、ほんのりと笑いなさった。なんともいえん顔じゃったな! 頼りにしているような困ったようなもう……わしの……ハア、いや……わしはあんた、おなごからこないにせられたこと、無かった。『わしのような男のいうことを、どうしてきく気になりなさったかあ』いうて聞いたら、『あんたは心のやさしいええ方じゃ、おなごはそういうものが一番ほしいんじゃ』ちゅうていいなさって!」
起こしながら泣きそうになった。初めて女の子が心を預けてくれた瞬間になぜか体の奥から突き上げてきた、物凄い悲しさ。あの疼きが蘇る、爆発的に甘く美しい脚色だ。
でも、原作のトーンを変えるほど大きく膨らませた箇所といったら、ここだけなのである。
うーん、坂本長利。どんな作品でも画面に登場した途端、虚無を灰色の染みのように拡げてきた怪優。
一時は日活ロマンポルノによく出演していた。僕が見たなかで忘れ難いのは、サド趣味の夫を演じた『生贄夫人』(74・小沼勝)での、いくら女を縄で縛っても昂れない、退屈から逃げられない無表情。それに『色情妻 肉の誘惑』(76・西村昭五郎)で、〈占い師の老婆〉に衒いなく大真面目に扮する、逆手の不気味さ。
ドラマでは、なかにし礼原作『兄弟~兄さん、お願いだから死んでくれ~』(99・テレビ朝日/演出・石橋冠)の、破滅的な兄の戦友役。「特攻帰り」を偽って生きてきた者の心情をポツポツ語る、その一場面だけで、戦後の滓の重たさを表現してしまう凄み。
見るたびに怖くて、畏怖の念しかないのだ。
去年(2017年)の年末にETV特集で放送された密着もの『老いて一人なお輝く ~一人芝居50年~』(演出はテレビ・ドキュメンタリーでは有名な松田恵子)をおそるおそる見たら、プライヴェートの坂本さんは淡々としてダンディで素敵だったのだが、「上京した時から一生ひとりと決めていた。なぜかは分からない」「舞台よりも日常のほうが怖い」など、発言はやはりどうも、いちいちヒンヤリしているのだった。
そんな坂本長利が、前述した脚色の部分では青春の熱を迸らせる。2月の公演でもここがハイライト、見どころになっていた。ますます謎めいている……。
今なお演じられ続けている『土佐源氏』。ここまで書いてきた1979年のレコードの魅力を、全てナマで、現在の芝居として浴びることができる。ご興味のある方は、公演がお近くに来たらぜひお出かけください!
【盤情報】
『土佐源氏/坂本長利』
ビクター音楽産業
1979
2,500円(当時の価格)
若木康輔(わかきこうすけ)
1968年北海道生まれ。フリーランスの番組・ビデオの構成作家、ライター。
さてさて、今回の文章を書いている間は、セクシャルハラスメントが議論百出でした。「ムキになることか?」みたいなのは、ハートのある反論とは思えませんが……。『土佐源氏』のばくろうは、なぜそんなに女性に慕われたのか、の問いにこう答えます。
「わしにもようわからん!……男がみんな、おなごを粗末にするんじゃろうのう」
僕の耳はチクッと痛くなりますが、あなたはどうでしょうか。
ついでに。2016年にソニーからCD再発されたジョン・レノン&ヨーコ・オノの実験音楽作品『「未完成」作品第1番~トゥー・ヴァージンズ』(68)。ヨーコ・オノの、今考えたら〈ポスト・ロック〉をさっさと始めていたとも言える変態スクリームやスキャットがたっぷり聴けますが、そこに「……ジャッタ、ジャッタ、ヨキオナゴジャッタ……」と、ばくろうの独白そっくりのフレーズが。『忘れられた日本人』は民俗学や歴史学が男性だけでなく、老人や女性、子どもなどにも目を向ける契機となったと評価される本ですから、ヨーコさんも読んでいたんじゃないかな! と楽しく空想しております。