【連載】「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」 第29回『土佐源氏/坂本長利』

「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」 第29回

現在も公演が続く一人芝居『土佐源氏』は、かつて音盤化されていた。
民俗学の名作が演劇になり、また記録される。
異色の味わいの聴くメンタリー。

超ロング公演を続ける『土佐源氏』の完全収録LP

ひゅう、ひゅうと鳴る風の音。そこにシンセサイザーと打楽器、四国御遍路の御詠歌が順番に、控えめに被さり、徐々に雰囲気を作っていく。1分を過ぎた頃、おもむろに語りが始まる。

「あんたも、よっぽど酔狂者じゃのう。乞食の話を聞きに来るとはのう。わしの話を聞きたいといいなさっても、わしゃあ、なんッにも知らんのじゃ……。ばくろうをしておったから、牛や馬のことならよう知っとる。けんど、ほかの事ァ、なんも知らん」

「わしは八十年何もしとらん。人をだますことと、おなごをかまう事で……過ぎてしもうた。ハアー、可愛がったおなごのことぐらい覚えているだろうと言いなさるか。ンハッ、可愛がったおなごか!……遠―い、遠―い……昔のことじゃのう」

いいなあ。いい導入だなあ。A面約28分、B面約23分にわたる老いた元ばくろうの色ざんげ。もう何回も聴いたのに、内容の確認のために針を落としたら、また最後まで付き合った。

廃盤アナログレコードの「その他」ジャンルからドキュメンタリーを掘り起こす「DIG!聴くメンタリー」。今回は少し変わったLP、演劇をフル収録した『土佐源氏/坂本長利』(1979・ビクター)を紹介する。


「土佐源氏」は、民俗学者・宮本常一が1950年代に「民話の会」の機関誌に連載し、1960年に書籍化した代表作『忘れられた日本人』の一篇。
本の内容は主に、戦前に著者が四国や九州を歩き回り、古老達から聞き取った村の生活の移り変わりの記録。多くは一人語りのかたちなので、なるほど、「民話の会」の機関誌にふさわしい。
その中に、定住者のサークルから外れた移動生活者・ばくろう(馬喰―牛や馬の仲買人)が登場する。これが「土佐源氏」。まさに光源氏のような女性遍歴を語るものなので、しばしば独立して語られる異彩を放っている。


この「土佐源氏」に感銘を受けたのが、小演劇の俳優・坂本長利だ。

すぐ顔と名前が一致しない人でも、ちょくちょく演技を見たことあるはず。『北の国から87初恋(フジテレビ)の純くんの初恋の相手、れいちゃんのお父さん! と言えば一番話が早いかな。
ともかく、坂本は「土佐源氏」を自分の手で舞台化し、1967年に初演した。ゴザを被ってうずくまりながら、ひたすらしゃべり続ける〈独演劇〉。今も演じ続けられ、上演回数は今年(2018年)1190回を超えている。今、この文章を読んでくださっている中にも、(そういえば昔見たぞ……)という方はおられるでしょう。

レコードにする話は、初演から10年以上経って本人と周囲が、いよいよこれは役者・坂本長利のライフワークになるぞ、と思いを新たにしたところで出たのだろう。
レコーディングの時に49歳だった坂本は、内封の解説書で「これから先もまだまだつづいていく、私の命のつづく限り、くたばるまで演りつづけるつもり」と宣言しつつ、老いた時には今の演技から何が失われるのか、また、枯れることによってどこが良くなるのか、と将来の自分の演技への興味を半ば引いた目で語っている。

つまり良い記念以上の動機がこの盤にはこもっている。「いまでなくては出せない演技」の記録に臨んだのは、大ロング公演を続ける老境の自分を見据え、その日に検討を行うためだ。

後述するが、坂本長利という俳優にはちょっと他とは違う妖味を感じていたので(映画やドラマで見るたびにザワッとしてきた)、やっぱり……というか。業の深い人なんだろうな、と思う。


舞台作品なのにスタジオでレコーディング

演劇なのに舞台収録ではなく、ビクターのスタジオでレコーディングしている点も面白い。
ちょっと前までの僕なら、観客のいない場で芝居を演じるコンセプトに(不自然ではないか……?)と首を傾げたところだが、今は事情が違う。六代目三遊亭圓生がやはりスタジオに籠り、マイクを前にしての独演に挑んだシリーズ『圓生百席』(CBSソニー・1973~1979)の一組を聴いたからだ。


昨年BSフジで放送された聴くメンタリーの番組版『珍盤アワー 関根勤の聴くメンタリー!』。70年代に数多くのドキュメント・レコードを手掛けたCBS・ソニーの元エンジニア、亀谷太一さんに出演していただいた。この連載だと第7回の『梵鐘』や、第23回で紹介したF-1 GRAND PRIX F-1 WORLD CHAMPIONSHIP IN JAPAN’76』を作り上げた、”聴くメンタリーのレジェンド”。
この亀谷さんと放送後もお会いした際、特に思い出深い仕事は? と伺うと、答えは『圓生百席』だった。

落研出身の亀谷さんは落語の間を肌で知っている。ある日風邪をこじらせてレコーディングを休むことになり、プロデューサーが違うスタッフで進めようとすると、圓生は「亀谷さんがいる時に」と断ったそうだ。

僕「しかし、落語にしても演劇にしても、目の前に観客がいてこそ完成するもの。そういう考え方があるでしょう?」
亀谷「うん、そうね」
僕「なのに、なぜスタジオでの録音を選んだのでしょう。第一、やりずらくないかな」
亀谷「圓生クラスになると、そこはとっくに越えてるんですよ。お客がいるいないではブレない。それよりも、集中できる場で最高の芸を記録しておきたい気持ちのほうが遥かに強かった」
僕「ははあ……」

落語のLPといえば大半が、客の笑い声が入っているホールや演芸場での現場録音。まくらや脱線の内容で、当時の世相や流行が感じ取れたりする。
そんな中で芸の記録を第一義にし、わずかな間をテープ編集で詰めるこだわりで作られた『圓生百席』の異色さは際立っている。今なお伝説的に語られるほどのプロジェクトなので、坂本長利と本盤のスタッフは何がしかのヒントをきっと得ているだろう。

しかし僕が聴いた限りでは、本盤の基本は通しでワンテイク一発のようだ。不測のミスやつっかえは調整したかもしれないが、それは別として。
そう判断するのは、元ばくろうが話に熱中しながら小屋の中を行ったり来たりする時、声がマイクから遠ざかる。こんな部分をOKにしているからだ。
記録の目的を大事にしたレコーディングとはいえ、マイクとの距離で生まれた空間の生々しさも大切にする。音楽の言葉で言えば、それこそスタジオ・ライブってやつ。『圓生百席』とは好対照な、これもまたスタッフの素晴らしい判断だと思う。

▼PAGE2 原作も舞台も、現実からエッセンスを抽出している につづく