【Review】こっちを見て―『人間機械』 text 大久保渉

よく清掃の行き届いた、冷房の涼風が吹く日本の映画館の柔らかな座席の上で、汚れた衣服を身に纏い、汗をかきながら薄暗い工場の中で延々と働く大人と子ども達の姿を見て、何を思えばいいのだろうか。映画『人間機械』は、インドの北西部グジャラート州にある巨大な繊維工場で働く出稼ぎ労働者達の過酷な労働環境を映し出す。

交易財団法人国際労働財団のレポートによると、近年のインドの労働事情は、労働者の90%以上が自営業者と非組織労働者(経済活動が行政の指導の下で行われていない仕事に就く労働者)であり、非組織労働者は人間らしい仕事には遠く及ばない厳しい環境におかれているとまとめられている(※1)。彼らは低い賃金で雇われ、労働時間は一日12時間以上、社会保障も提供されていないなど、法の保護のない極めて劣悪な労働条件と環境の中で働かされ、長らくインド経済の成長の陰で使役されてきた。

劇中で、一人の工場労働者がカメラに向かって訴える。「俺達のことを知りたいなら教えよう」「だからこの状況をどうにかしてくれないか?」
絶え間なく布を織り続ける工場の機械と、まるで巨大な機械の歯車の一部であるかのように、単調な作業を繰り返す無表情な労働者達の姿が手持ちカメラのレンズに収められていく。そして、轟音。工場内に響き渡る機械の大音が映像と共に記録され、映画を観る者はまるで自分が工場の中にいるかのような圧迫感と疲労感を負うことになる。監督のラーフル・ジャインはこの映画を作ることで、インドの労働問題を世界に大胆に投げかけた。

それと同時に、本作は劣悪な労働環境の告発という<社会性>と共に、<アート性>も兼ね備えた作品として世界的な評価を得ている。時に労働者達の職人としての手際の良さや、生産されていく布地の美しさが観る者を魅了する。機械、人間、機械へと流麗的にカットを切り替える編集が、まるで紡績機が糸から布を紡ぐように巧みに映像を繋ぎ、巨大な工場の在り様を浮かび上がらせていく。The Hollywood Reporterは本作を“芸術的な視点と社会的観点が見事に調和した稀有な作品”だと評している。

ただひとつ、何か心に引っかかって仕方がないのが、この映画に出て来る労働者達の、仕事をしている時の「目」である。本作のプレスシートにある「一八九五年、リュミエール兄弟が『工場の出口』を発表して以来、映画は工場を捉えてきた」という一文を読んで思い出したのが、雑誌「neoneo」vol.1(※2)の中にある「カメラを見つめ返す目」(文・萩野亮)の文章であり、その内容が、映画の鑑賞中ずっと私の頭の中にあった。

 

(『工場の出口』には)不自然な部分が――、いやむしろ「自然すぎる」部分がある。カメラに視線を送る者がいないのだ(p.28, l.29)
撮影者のリュミエールは、カメラを見ないよう指示しているのだ(p.28, l.33)
カメラは権力の装置であり、これをさしはさんだ両者は明確な権力関係に入る(p.29, l.24)

そしてまた、こうも述べている。

ここまで『工場の出口』の労働者たちを「カメラを見ない人びと」と記述してきたが、よくよく見ればこちらをどうやら見つめ返している人も存在するのである(p.29, l.11)
『工場の出口』において、カメラのほうを見つめ返すかれの目には、労働関係とは無縁の、人と人とのあいだの無数の関係の可能性、あるいはドキュメンタリーにおける<自由>が、映しこまれている(p.29, l.43)

『人間機械』においては、ラーフル・ジャイン監督は「特に被写体に要求したことはない」「撮影に入る二カ月前からカメラを持たずに彼らと共に過ごすことで、彼らがカメラを意識して緊張しない環境を作った」と述べている。しかし、「カメラを意識させない」、それは間接的に「カメラを見てはいけない」という演出を生み、結果として被写体の動きに制約を与えることになってはいなかっただろうか。工場という人間の尊厳を貶める環境を映す方法として、さらにそこで人間の自発的な行動を抑え込む演出がなされてはいなかっただろうか。

無表情のまま、一切喋らずに、周りと声を掛け合うこともなく、カメラから視線をはずしながら働き続ける労働者達の姿は自然なようでいてどこか不自然であり、ふいにカメラを振り向いた子どもは数人いたが、彼らはすぐに目を背けた。そこに、監督との決め事があったのか。
何か、工場が人間を「歯車」として扱うのと同様に、映画の制作においても、労働者達は監督の求める緻密な画作りのための「オブジェ」としてその姿を作為的に抜き取られていたような、日常の再現を繰り返させられていた部分が多くあったように見えてしまった。

劇中には、無言で働く男達のシーンの間に、工場の仕事について労働者自身が語るインタビューシーンが挿入されている。そこで「機械」的な労働者にも「人間」的な感情があるということが示されるが、「機械」と「人間」の比較が巧みに演出されればされるほど、被写体の姿を切り貼りする、スクリーン外の監督の編集機材を叩く手が気になってきてしまう。
映画の終盤、労働者達が屋上で色とりどりの布製品を頭から被り、空に放つシーンがある。そのあきらかに演出が施された、けれども曖昧な表情を浮かべる男達の挙動を見て、キャメラに使役される人間の図を感じ取ってしまったのは、私だけだろうか。

(意識的であれ無意識的であれ)労働者達の人間的感情の発露をカメラがあまりにも制御してしまうのは、「人間(性)」よりも「成果(物)」を求める工場の考え方とあまり変わらないものなのではないだろうかと思った。

あるいは、全く異なる観点から見ると、工場長が労働者達にカメラの前で余計なことを話すなと厳命していたから、彼らはカメラに関わろうとしていなかったのかもしれない。または、彼らはこの映画が世界に発信されることを知っていたからこそ、「劣悪な労働環境」像をより分かりやすくカメラの前に示そうとしていたのかもしれない。

「俺達のことを知りたいなら教えよう」「だからこの状況をどうにかしてくれないか?」
本作が描き出す、従属させられた人間達の機械的な姿と、まるで宗教絵画のような美しさを漂わせた映像の連なりは、醜と美がせめぎ合い、融和し、今、目の前にあるものが何なのかと、間違いなく観る者の心を惹きつけ、揺さぶるだろう。そしてそれがひいては、世界の目をインドの労働環境に向ける契機になるはずだ。

ただ、さらに考えられるのは、労働者達の心の中に、所詮映画一本の力では今いる世界は何も変わらないという諦めの気持ちがあったから、カメラを無視して日々の業務に勤しんでいたのかもしれないという可能性があることだ。
よく清掃の行き届いた、冷房の涼風が吹く日本の映画館の柔らかな座席の上で、汚れた衣服を身に纏い、汗をかきながら薄暗い工場の中で延々と働く大人と子ども達の姿を見て、何を思えばいいのだろうか。
「こっちを見て」
目を逸らす彼らのために何ができるのか。
「こっちを見て」
労働者達が訴えてくる言葉をどれだけ拾うことができるのか。呼び掛けた、呼び掛けられた。

 

※1 http://www.jilaf.or.jp/rodojijyo/asia/south_asia/india2017.html

※2 「neoneo」vol.1(2012年9月1日発刊)

 

【作品情報】

『人間機械』
(2016年/インド・ドイツ・フィンランド/DCP/カラー/71分)

監督・脚本:ラーフル・ジャイン
撮影:ロドリゴ・トレホ・ビジャヌエバ
サウンドデザイン:スミト・“ボブ”・ナート
録音:エイドリアン・バウマイスター
編集:ヤエル・ビトン、ラーフル・ジャイン
配給:株式会社アイ・ヴィー・シー/配給協力:ノーム
宣伝:スリーピン
公式サイト:http://www.ivc-tokyo.co.jp/ningenkikai/

写真は全て© 2016 JANN PICTURES, PALLAS FILM, IV FILMS LTD


7/21(土)〜渋谷・ユーロスペースにてロードショー、以下全国順次公開

【筆者プロフィール】
大久保渉(おおくぼ・わたる)
ライター・編集者・映画宣伝。執筆・編集「映画芸術」他。宣伝『ガチ星』全国公開中。7/30発売「映画芸術」464号 追悼 田村正毅 特集は、映画・仕事・生き方、故人を偲ぶ素晴らしいご寄稿が揃いました。是非ご高覧頂きたいです。