【Review】映画『太宰』〜かすかな生の呟きに耳を傾ける、ということ〜 text 菊井崇史

『太宰』は、太宰治にまつわる評伝や作家研究のたぐいの映画ではなく、その「読者」にまなざしをむけたドキュメンタリーだ。そこに本作の意義がこめられている。学生、音楽家、イラストレーター、学校職員等、幾人が、それぞれ自身にとって太宰はいかなる作家であるのか、そして彼の小説のどのような言葉にうたれるのかを語るインタビューと、彼女彼らの日常の暮らし、その光景がモンタージュされ、太宰の「読者」の生きる現在がつむがれてゆく。なぜ太宰に魅かれるのか、そして、太宰という作家の生き方、彼ののこした言葉が、彼女彼らのなかでいかに息づいているのか、という問いとともに。太宰治のかつての担当編集者の述懐や、太宰の長女津島園子により太宰の著名な写真の撮影の舞台裏、家庭での太宰治のふるまいの一端が語られることはあるが、本作にうつされる人々の多くは、太宰の関係者ではなくあくまで「読者」であり、それゆえ今、太宰治という体験が、ひとりひとりの人生においていかなる意義をもつのかがフォーカスされる。

太宰は、今も傍にいる。太宰治の小説の話法には、幾度も言及されてきた特質がある。太宰はわたしに直に語りかけている、太宰はわたしを書いている、そうおもわせる文体の親密がそれにあたり、本作の「読者」にもこれらの感慨を告げる人がいる。この太宰の文章を端的に代弁者の質だと見なすべきではない。むしろそれは感染にちかい体験でもあるだろう。太宰を読むことで、この社会のなか自分をつらぬくことの闘いをしったという人がいる、太宰のように生き死にたいと告げる人がいる、太宰の「読者」は多かれ少なかれ、太宰治という像に自らをオーヴァーラップさせ、実人生を作品に追随させるという側面があるのだ。そしてそれは、太宰自身の小説と生涯につよく結ばれた方途でもあった。太宰は、共感と錯乱のいりまじった接触によって、小説を介在した「読者」と「書き手」の境を揺さぶり踏みこむ。だから、というべきだろう、映画『太宰』においても、インタビューを受ける「読者」は批評的な立場で太宰を語ることはなく、自らの人生と切り結ぶかたちで太宰治という作家へのおもいを吐露している(例外的に、当時東京都の副知事であり、『ピカレスク 太宰治伝』という太宰の評伝も著している猪瀬直樹は、太宰治と距離をたもちながら作家としての太宰を「文学的」に述べている)。太宰を語る彼女彼らの表情は、作家を語る以上に、生存の切迫感があるのだ。


本作の原題『La Vie Murmurée』(英題『The Whispered Life』)には、人生、生活とささやき、つぶやきが刻印されている。この名は、本作において重要な視座を示している。人々の決しておおきな声で語ることのできない生の実景に、本作は寄り添おうとしているからだ。ここでのささやきの声は、おおきな声から疎外され、抑圧された人間の響きと言い換えてもかまわない。それを社会の息苦しさ、生き難さと言ってもいい。人々のフラジャイルなささやきに耳を澄ますように、派手な演出にたよることなく淡々と映像をつむいでゆく本作において、不意に映画のスタンスを表明するかのようなシーンがおとずれる。「上流サロンの鼻持ちならないお上品さには、ゲロが出そう」(「斜陽」)という小説の一節が、「太宰治賞」の授賞式のはなやかな会場の光景にかさねられるのだ。どこか皮肉まじりのこの演出は、ドキュメンタリーの立ち位置を伝えておもえた。それは、太宰自身の言葉をかりれば、「われは弱き者の仲間」(「花燭」)であらんとする映画の意志だ。太宰はときに、時局に応する思想や政治の言葉をつかいもしたが、彼の話法はいつも、おおきな声のはらむ直接的なイデオロギーからは遠距離に響くものだった。

「人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もあるはずです」太宰は小説「斜陽」にそう記した。本作にうつされる人のなかにも、生きることの困難から死へのおもいを語るものもいる。しかし、たとえば人が、「死にたい」とつぶやくとき、そのおもいが死への直接的な欲望を告げているとみなすことはとてもむずかしい。それだけでは端的に死の理由にはならない。多くの場合、「死にたい」という言明は、今生きてある状況の苦しさ、抑圧をとおし、そこからの解放、改善の願いがふるえるように含意されてもいる。だから、かすかな声でささやかれる「死にたい」という言葉から、生の訴える状況への違和感を抽出することができる。生きることの困難は、身をとりまく社会への違和感、疎外感にふれる。なにかがおかしい、この違和感に目をつむり、解消して生きることはできない、したくない。太宰治の小説にみられるときに露悪的なふるまいも、絶望の叫びも、悲しみのしずけさも、この違和感にはうそをつかず、「正直」であるためのものだった。たとえ、その身が破滅にむかうことなろうとも、罪をおかそうと、彼はこの違和感を拭いさることだけはしなかったのだ。それは太宰の文学の倫理だった。破滅に隣接する「死にたい」という声がどれほどかすかであろうと響くかぎり、そこには生きている人間がいる、生はのこされている、その事実を太宰は、身をもってわかっていたはずだ。


青森県五所川原市の太宰治文学碑がうつされるシーンがある。碑には「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」という、太宰治の最初の小説集『晩年』の巻頭に引用されたヴェルレーヌの詩の一節が刻まれている。「恍惚と不安」言い換えれば尊厳と挫折に引き裂かれるかの実感は、「撰ばれてあること」のみならず、生きることの困難にも覚えていたはずだ。太宰治にとり「人間失格」という絶望的な烙印もまた、その「恍惚と不安」の両極にふれうるものだったのだ。この「正直」さにおいて、「死ぬる権利」を主張することは太宰にとり、自身の弱さゆえの逃避としてだけでなく、抵抗の方途のひとつとしてもあった。なぐさめではたりない生き難さ、死をおもうほどの疎外の感をどう受けとめるべきかという問題は、個人の感受性といったものに還元すべきものではない。今、この現代に太宰の小説から倫理、その理路をつかみだしたとき、「死ぬる権利」とは別の訴えが導きだされることは、充分にありうる。その意味でも本作のなか、死にたくなったとき太宰の小説は落ちつかせてくれると、語る女性がうつしだされるシーンは、このドキュメンタリーのハイライトのひとつだ。太宰治という体験のついに、その「読者」の生き方が、太宰という作家を救いえるのではないか、そうおもわせた瞬間だった。

【映画情報】

『太宰』
2009年/フランス/110分/カラー、モノクロ/日本語)

監督:ジル・シオネ、マリー=フランシーヌ・ル・ジャリュ
撮影:加藤孝信、山崎裕
編集:マリー=フランシーヌ・ル・ジャリュ、ジル・シオネ、ローラ・トゥルパン
録音:鈴木昭彦、エマニュエル・アングラン
制作:ピエール・ラリー、エレーネ・ベルナルダン、ジル・シオネ、マリー=フランシーヌ・ル・ジャリュ
原題:『La vie murmurée』
(2009年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された『日々の呟き』の邦題を改題)

写真は全て© The IdeaFirst Company Octobertrain Film

2018年7月28日(土)より吉祥寺ココマルシアター ほか全国公開

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Twitter:@zygivwUHvJxiHVa
FB:https://www.facebook.com/rosepagemovie/
配給:ココロヲ・動かす・映画社

【執筆者プロフィール】

菊井崇史(きくい・たかし)

大阪生まれ。東京在住。
詩や写真を発表する。
あわせて、文学や映画の評論を発表。
neoneo誌のレイアウト編集にも参加する