最近の小山のおうち(クリニックのホームぺージより)
「視線の病」としての認知症
第3回 「自分を取り戻す」ということ
<前回(第2回)はこちら>
前回書いたように、小山のおうちは、精神科クリニックが作った重度認知症デイケアである。医療の場であることに、石橋さんは強いこだわりを持っていた。「治療」を目指していると、はっきり言っていた。それは、2000年の介護保険施行後、日本中に広がった「デイサービス」とは全く目的が違うというのだ。デイサービスは、自宅で暮らす老人が日中通って楽しく過ごすことが目的の「生活の場」である。では、治らない病気の治療とは一体何なのだろうか?
2001年2月9日。当時私が住んでいた松江市と小山のおうちのある出雲市は、ヤマタノオロチ伝説など出雲神話の舞台とされる、斐伊川流域の町である。この地域はこの時期、来る日も来る日も灰色の厚い雲が低く重く空を覆っていて、一日晴れるということがほとんどない。降水確率50%といえば、1日中雨や雲が降ったり止んだりして、降っていた時間を合わせると1日の半分になる。そんな天気が人の気分にまで影響するということを、私は経験していた。体、とりわけ頭が重く感じられ、気分が深く暗く沈み込んでいくのだ。
午後1時半、私は松江で午前中の仕事を終え、体と気分の重さを感じながら、小山のおうちを訪ねた。
この日の午後は老人たちと職員で、ドーナツ作りをすることになっていた。今では、認知症の人が通所先や入所先の施設で包丁や火を使ったり、洗い物をしたりということはさほど珍しいことではないが、当時、認知症のある老人が施設に行くということは、お世話をしてもらったり、遊戯をしたりするため、と考えるのが当たり前で、その人たちに「仕事」をしてもらうということは、かなり常識を外れた取り組みだった。
この日の通所者は男女15人ほど。ここでは通所者のことを「メンバー」と呼ぶ。職員は5人。一人の職員がディレクターとなり、その日一日のプログラムの進行を取り仕切る。まず老人たちとやりとりしながら白板にドーナツにまつわる思い出やら、作り方など書いていくのだが、どんどん話に乗ってくる人もいれば、テーブルの向こうで文句を言っている人もいる。体を揺すりながら歌を歌っている人もいる。ブツブツ言っている人の横には職員がいて、話を聞いている。私は、自分自身の子ども時代、集団行動が苦手で、窮屈でたまらなかったことを考えて、人間というのはそういうものだよな、などと思っていた。
ドーナツが出来上がると、全員がテーブルについて食べる。その時、私は気づいた。ブツブツ言うなど、プログラムと関係なく勝手に時を過ごしている人たちが、それでもその場を立ち去ろうとしなかったことだ。手を動かさなくても、音を聴いたり匂いをかいだり、人の気配を感じたりしながら、関わり方の濃淡はさまざまであるけれど、「ドーナツ作りが行われている場所」に参加していたのだ。うろうろと歩き回る人も、外に出ていこうとする人はいない。人と人とが話し合う声があちこちでさざめきのように起きるけれど、人に何か大声で命じたり禁じたりする大きな声は聞こえない。晴れた日の斐伊川のようにゆったりと時間が流れていく。
午後3時半、一日のプログラムが終わる。私は送迎車に同乗し、一人一人が家の中に入っていくのを見送らせてもらった。ここで穏やかにニコニコと時を過ごしている老人たちは、制度上は重度。医学的には中等度以上の認知症だということだった。暴言、暴力、失禁、徘徊、妄想などのため、家族の手に負えないとか、一人で家に置いておけないとして、ここに通うようになった人たちである。今でも家に帰ると、小山のおうちでは自力でトイレに行っていた人もおむつを付けられ、閉じ込められる。昼間とは全く違った姿になっていくのだという。
再び小山のおうちに戻って、石橋さんと話した。石橋さんはこうした時、ただ見て帰るなどということを決して許さない。私がここで何を見て何を感じたか、克明に語らせた。私が見たのは、認知症の老人だという印象が全くない。どこが悪いんだろうと思うような、普通の老人たちの姿だった。ただ、ここは居心地がいいなと思った。私はそんな、誰でも言うような言葉を絞り出した。それを聞き届けると、石橋さんは突然、堤防が決壊したかのように語り始めた。小山のおうちを始めてから8年、老人たちやその家族と日々全身で向き合う経験から彼女が感じ、考え、確信していることを、混沌と、しかし本当に楽しそうな笑顔で、何時間も。話しても話しても言葉がわき出た。
その混沌にのまれながら、私は光を見た気がした。この冬、この地の空を覆う厚い雲が割れて光の束が差し込むのを見たときのように。その時私が理解した要点を日記に書き留めたので、以下に書き写す。
<石橋さんの言葉>
(老人たちは)ここにいるときだけ、「自分」を取り戻す。「感情回復」の場なのだという。「自分」を失えば、人から世話をされ、がんじがらめにされ、存在を否定されれば、人はなにも出来なくなる。一人で動いて便所に行くこともない。車いすは拷問の道具、と石橋さんは言った。(中略)
石橋さんによれば、人生、立ち止まって考えることを多く経験せざるを得なかった人の方が成長する。つまり、ボケの人は、そのために肉親からも物扱いされるという、あまりにも悲しい経験、「自分」を捨てないと耐えられないような経験を重ねているので、その分、自分自身について深い認識を得ている。
<以上>
私は、石橋さんの言葉の後に、自分の感想をこう書き記している。
「それはその通りなのだろう。そこを見ていきたい。」
その日、資料を大量にもらって、JR出雲市駅まで車で送ってもらって別れたら、もう20時前だった。
こうして私は、「向こう側の人たち」と出会った。
認知症の治療とは「自分を回復すること」であり、私が出会った「普通の老人たち」の姿は、その治療の結果だというのである。
私はもはやそこから目をそらすことが出来なくなった。
(つづく。つぎは11月1日に掲載します)
小山のおうち(撮影 エスポアール出雲クリニック)
【筆者プロフィール】
川村雄次(かわむら・ゆうじ)
NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。