【Book Review】身体によって身体を思考する——室野井洋子『ダンサーは消える』text 中根若恵

ダンスは常に非常である。

我々は圧倒的な日常の中に生きている。

非常の身体は忘却される。

私たちの多くは、自分の身体をおのずとこの場に存在するものと捉え、その自明性に何ら疑いをもたない。例えば、道を歩く、階段を上がる、シャツのボタンをとめるといった習慣的な動作を行うときも、その動きの一つ一つに細かな注意が払われることはほとんどないだろう。そうした動作の重なりが私たちの生を形づくる一方で、その中心にあるはずの身体はつねに意識の周縁に追いやられている。その圧倒的な近さゆえに、私たちは身体に対してあまりに無自覚だ。

40年にわたり公演活動やワークショップを通じて踊りの表現を追求してきたダンサー・室野井洋子。その遺稿集『ダンサーは消える』には、「踊る身体」をめぐって彼女が記した数々のエッセイが収められている。ダンサーの活動と並行し新宿書房などで編集者をつとめてきたという特異な経歴をもつ彼女だが、そうして言葉に深く関わる経験から醸成されたものなのか、繊細で独特な言語感覚が印象的な文章によってつづられるのは、ダンスという「非常」の表現を通して、日常のなかに「忘却された」身体のありようにあらためて意識を向ける実践の記録である。

非常と日常を往還する、身体による身体論

美学校でのワークショップの記録や整体協会の報告書の抄録など、本書に収められたエッセイの初出媒体やその執筆時期は多岐にわたるが、媒体や時期の幅を超え、そこに通底するものがある。それは、身体についての思考を、まさにその身体を通して実践することへの彼女の一貫したこだわりだ。古来、身体をめぐる問いは哲学をはじめとした様々な知の領域でさかんに議論されてきた。しかし、それらの多くはあくまで身体についての議論であって、身体による思考ではない。それに対して、室野井は自らの身体を媒介に思考し、その思索の流れを丁寧に記述しようとする。彼女は、舞台やワークショップという非日常的な空間を異化装置として用いることで、日常性に疎外される身体の輪郭を浮かび上がらせ、その場に生じる身体や感情の変化をつぶさに見つめ、描出しているのである。

例えば、「待つ」と題された一節で室野井は、「待つ姿勢を自らの身体から学ぶこと」を掲げ、ダンスのワークショップでの実践を通して、待つ姿勢の基本が身体の動きを止める「不定位」の状態であると結論づける。その一方で「いつもどこかでじたばたしたり、よそ見をしたりしている」と、「不定位」の感覚を身につけることの困難さにも等しく観察の目を向ける。この実践の根底には、待つという日常的な行為をワークショップの稽古で異化することで、その動作の背後にある意味や意識の流れを正確につかみとろうとする意図があるのだろう。ここで重要なのは、それらが抽象化された思考ではなく、実際に身体を動かすことで生じる、手触りを伴った体験であるということだ。それは、身体についての思考が身体そのものによって具体化されるプロセスであるともいえる。

さらに興味深いことに、こうした身体的思索はダンスの舞台やワークショップといった非日常の空間のみならず、日常的な領域にも拡張されている。彼女は自らを取り巻くあらゆるもの——衣服や道に映る影、空の様子や茶の会、そして言葉——に繊細な観察の目を向ける。とくに印象的な記述が「月蝕」と題された節にある。彼女はある夜、月蝕を目にする。月の弧が薄くなっていくのを見つめていると、胸の詰まる息苦しさを感じるが、再び弧が現れ始めると息が軽くなり、徐々に身体の緊張がほぐれていく。月が視界から消えまた生じてくる過程に自分の身体が呼応する。彼女は息苦しさという不快な感覚からもあえて目をそらさず、身体の意識に集中し、身体が緊張して弛緩するまでの流れを丁寧に記述している。このように舞台を降りた日常生活のなかでふと目にするものも、彼女にとっては身体への思考の重要な糸口となっていたのだろう。

そうした日常生活での思考は、再びダンスという非常の場へと還元されていく。上記の月蝕の体験をはじめとして、自然の変化はとくに彼女の表現活動の重要なインスピレーション源となっていたことがいくつかのエピソードからうかがえる。例えば彼女は、季節の訪れを最初に感知するものは身体であるという点において、身体はいちばん身近な自然であるという。こうした自然と身体の隣接的な関係を起点に、四季の移ろいへの気づきを経由して、いかにして「花の、風の、土の繊細で微妙な動きに近づけるのだろうか」という問いを表現の世界でつきつめていく。ここに生じているのは、ダンスという非常の空間と日常とを行き来することによって可能になる室野井ならではの身体論である。冒頭に引用した一節に立ち返れば、それはまさに、忘れられた「非常」を身体的な実践によって身体のなかに見出す試みであったのだろう。


ダンサーは消える、そして残るもの

では、彼女が亡くなり、その身体がこの世から失われてしまった今、非常と日常とを往還してきた彼女の身体的実践はどこへゆくのか。

踊りの表現を通じて身体について思考し続けた室野井は、「ダンスは残らない」という。なぜなら「ダンスの動きそのものは一瞬にして生まれ死ぬまぼろしのようなもの」だからだ。しかし、彼女はこう続ける。「踊る・見るという体験で動かされた感覚、すなわち感動は残ります。残るどころか、生き、変容し、生長し、何かを誕生せしめ、あるいは何かをはぐくむ力となることもあるでしょう」。

彼女は自らの身体の内側へと注意深く耳をすませることに専心しつつも、それは決して自己へと閉塞する行為ではなかった。ひとつの身体の実践は感応する身体の機能を手がかりに、別の身体へとその感動を伝える。そうして人から人へと伝わった振動は、異なる身体のなかに残存することで新たな実践を触発する契機ともなる。彼女はそうした間身体的な連鎖に十分に意識的だったのである。

ダンサーが消えても、その実践は他者の身体にかたちを変えて残りつづける。生前の彼女のダンスを目にした観客たち。もしくは記録された映像を通してその姿を見る者たち。そして、本書を通じて彼女の身体的思考のプロセスに触れる読者たち。彼女が亡くなっても、彼女の実践や思索は個別の身体の物理的な境界を超えて私たちの身体に入り込み、そこに根をおろし、来たるべき変化の基となっていく。

とはいえ、圧倒的な日常性に埋もれて生きる私たちにとっては、日常を撹乱する呼びかけに応じることはそれほど容易いことではない。現に、私自身が彼女のつづる言葉を追っているときも、その独特な言葉づかいや複雑な思考に戸惑い、取り残されるような感覚をおぼえることもあった。しかし、そこで重要になってくるのは、日常の経験則では測りがたいものに出会っても、すぐに退けてしまうのではなく、ひとまず受けとめるという柔軟さではないだろうか。もちろん、訴えかけてくるすべてのものを受容するなどということは到底不可能だ。しかし思考停止によって異質さを一律に排除する姿勢は身体のしなやかさを失わせる。変革の可能性を提供してくれる他者の存在に気づくためには、しなやかな身体が必要だ。その意味で、本書は彼女の積み重ねてきた思考の一端に触れさせてくれるだけでなく、身体的思考の実践を読者に追体験させることで、私たちに、それぞれが生きる身体のもつ潜在的なちからを再考する機会をもたらしてくれるのではないだろうか。

写真は全て©ザリガニヤ

【書誌情報】

「ダンサーは消える」
室野井洋子 著
発行:ザリガニヤ  発売:新宿書房
B6判/212頁/並製
本体2000円(税別)
ISBN978-4-88008-476-3 C0073

著者プロフィールは【こちら】
HP:http://m.gmobb.jp/odoru/

【執筆者プロフィール】

中根若恵(なかね・わかえ)1991年生まれ。名古屋大学人文学研究科博士課程在学中。専門は映画学とジェンダー論。論文に中根若恵「作者としての出演女性——ドキュメンタリー映画『極私的エロス・恋歌1974』とウーマン・リブ」(『JunCture 超域的日本文化研究』7号、2016年)、中根若恵「親密圏の構築——女性のセルフドキュメンタリーとしての河瀨直美映画」(『映像学』97号、2017年)。